第五話 ぼくの道しるべ
北の山脈への道は、冷たい風と霧で包まれていた。ナスィは肩に背負った剣を微調整しながら、険しい岩場を黙々と進む。振られたばかりの心は、まだどこか沈んでいた。
「忘れろって言われてもな……」
ナスィは低く呟いた。
ベチの冷たい言葉が何度も頭の中で反響する。強い人が好き。だからエガワ様を選ぶ。その理由を理解できないわけではなかった。エガワのように人々を惹きつけ、守る力を持つ人間は、確かに魅力的だ。それに比べて自分は――地味で目立たず、ギルドの中でも空気のような存在だった。
「俺は、そんなに弱いのか?」
誰に聞くでもなく問いを投げたが、答えが返ってくるわけもない。ただ、心の中で渦巻く感情が、自分の剣を握る手を重くしているのを感じた。
ふと、レサーの言葉が思い浮かぶ。
「ナスィさん、あなたには本当に大切なものがあります。それを知っているのは、私だけだと思っています。」
その声は優しかった。しかし、その優しさが今のナスィには、少しだけ重荷に感じられた。
「レサー……」
彼女の気持ちに応えることができない自分に、ほんの少しの苛立ちを覚える。振られたばかりで、新たな想いを受け止める余裕なんて、今の自分にはないのだ。
山道がさらに険しくなる中、ナスィは足を止めた。背後の茂みから、かすかな気配を感じたのだ。
「魔物か……」
ナスィはゆっくりと剣の柄に手を掛けた。次の瞬間、茂みが大きく揺れ、二匹の巨大な狼型の魔物が姿を現す。赤い目が敵意をあらわにしており、牙を剥き出しにして唸り声を上げている。
「歓迎されてるってわけか。」
ナスィは短剣を引き抜き、身を低く構えた。狼たちは息を合わせるように左右に分かれ、挟み込むように動き始める。その動きは迅速で、計算されているようだった。
右側の狼が先に動いた。低い姿勢から飛びかかるように突進してくる。その牙をかわし、ナスィは短剣を振るった。刃先が狼の前足を掠め、血が飛び散る。しかし、左側の狼がすぐに隙を狙って攻撃を仕掛けてきた。
「くっ……!」
長剣を抜いて振り返りざまに一閃。鋭い剣筋が狼の喉元を捉え、魔物は短い悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。
残った一匹は警戒するように距離を取ろうとしたが、ナスィは間髪を入れずに踏み込み、一気にとどめを刺した。
「まだ、鈍ってない……か。」
息を整えながら、血まみれの剣を布で拭う。その間にも冷たい風が吹き付け、戦いの熱を奪い去っていく。
再び歩き始めたナスィは、山道を見上げた。雪がちらつき始め、空気がさらに冷たくなっている。谷間の先に広がる霧の中に、不気味な影が揺れているのが見えた。
「あれが、死の巣……」
近隣の村人たちが恐れていた場所が目の前に広がる。その恐ろしさを想像するだけで、普通の冒険者なら足がすくむだろう。しかし、ナスィはその場で立ち止まることなく、一歩一歩進んでいく。
「ベチが求めた『強さ』は、俺にはないのかもしれない。」
その言葉を自分に言い聞かせながらも、心の中には別の感情が湧き上がっていた。
「それでも、俺は進むしかない。」
彼が目指すのは、ただ生き延びるための力ではない。これまで誰にも認められなかった自分自身を、まずは自分が認めるための戦いなのだ。
谷底に続く細い道を慎重に降りながら、ナスィは周囲に目を配る。霧の中から低いうなり声や、鋭い金属音が聞こえるたび、剣を握る手に力が入る。
この先に何が待っているのかは分からない。ただ一つ分かるのは、ここを無事に抜けられる保証などどこにもないということだった。
「俺の強さが本物かどうか、ここで試される。」
自らに言い聞かせるようにそう呟くと、ナスィは霧の中へとその身を進めた。谷底には、不気味な静けさが広がっていた。
一方、ギルドでは、レサーがカウンターの前で手帳を開きながらナスィの名前をじっと見つめていた。
「ナスィさん……無事でいてください。」
彼女の手は微かに震えている。ナスィが北の山脈に向かったことを知ったのはほんの数時間前だった。誰もがあの場所を恐れる中で、なぜ彼がそこへ向かったのかを理解する者は少なかった。
「どうして、あの人はいつも一人で戦おうとするの……」
レサーの言葉は、誰にも届かない問いかけのように消えていった。しかし、彼女の心の中には、ナスィを信じたいという強い気持ちが確かにあった。