8-3
クルト・フォン・シューマッハー伯爵が初めてアデーレ・フォン・リヒテンベルクを見た時、全てが変わった。
当時アデーレはまだ16歳。
帝国の貴顕が集う舞踏会にリヒテンベルク選帝侯の第二息女として顔を出した、まさに初のお披露目の場面だった。
伯爵はその当時、すでに160歳を超えていた。
今の帝国では延命技術の恩恵もあり、貴族であれば寿命は数百年以上に及ぶ。
そのような中で160歳といえば、ちょうど人生の折り返し地点。それなりに人生経験を積んだ人物に違いなく、少なくとも「初恋」と呼べるものを体験するには、あまりにも遅い年齢だった。
彼にとってはその舞踏会が、まさしく運命の一夜となった。
煌びやかなシャンデリアの下、見渡す限り華やかなドレスをまとった貴婦人や、高貴な礼服に身を包んだ紳士たちが音楽に合わせて踊る。
その中で、一際目を引く存在がいた。薄く透き通るような金髪に、まだあどけなさの残る笑顔を浮かべている少女――アデーレ。その笑顔を見た瞬間、伯爵の胸は激しく高鳴り、まるで鼓膜が破れそうなほどの動悸を感じたのだ。
その後の記憶は、伯爵自身あまり覚えていない。
何を話したのか、挨拶すらきちんと交わしたのかすら定かではなかった。ただ、目の前に現れた小さな花のような姿が焼き付いて離れない。
視線を逸らそうにも、どうしても気になってしまう。己が年齢も地位も関係なく、一人の男として強烈に惹かれる感覚を、生まれて初めて思い知った。
それまでの160年の生で、一度も感じたことのない衝動だった。
クルト・フォン・シューマッハーは、生粋の軍人の家系に生まれた。
父も祖父も、そしてさらに先祖代々が帝国軍に身を捧げ、定年まで勤め上げることを誇りとしていた。
ときに家族を残して玉砕することもあれば、その武功をもって貴族としての名声を得ることもある。シューマッハー家には、軍属こそが人生のすべてだという不文律があった。
幼い頃からクルトは、祖父の期待を一身に背負って鍛錬を続けてきた。
剣術、射撃、艦隊指揮論、星間戦術学――あらゆる軍学を叩き込まれ、10代のうちに帝国軍士官学校へ入学すると、傑出した成績を次々に修めた。
周囲の同期たちが遊興や恋愛に夢中になる中、クルトは一切そうした娯楽に関心を示さなかった。
彼にとって、優先すべきは「シューマッハー家の名を高める」ことであり、軍人として高い地位へ上り詰めることに他ならなかったのだ。
そうして月日が流れ、クルトはわずか100歳足らずで帝国軍統合参謀本部に勤務するまでになっていた。
これは異例の人事であり、クルトの優秀さを帝国軍が認めた証拠でもある。
けれどそれは同時に、彼が女性という存在に目を向ける余裕すらない人生を送ってきたことも意味していた。
周りの同期が結婚し、子を成し、家庭を築く姿を横目に見ながら、クルトは自分には関係ないと切り捨てるしかなかった。自分がそんな感情を抱く日など来るはずもない、と。
しかし、思いがけずその日は訪れる。
160歳を超えた男が、帝国の舞踏会で16歳の少女――アデーレを見初めた。
年齢差だけを見れば、些か離れすぎている恋だが、クルトにとってはまさに初恋そのものであった。
翌日からというもの、彼の頭の中はアデーレのことでいっぱいになった。実直な男であるがゆえに気持ちを隠すのも下手で、参謀本部の同僚からは「ようやく女に興味を持ったか」と冷やかされつつも、それ以上深く干渉されることはなかった。
もっとも、クルトはどうしたらアデーレに近づけるのかまるで分からなかった。
自分は伯爵家の跡取りだが、相手は七大選帝侯の一角、リヒテンベルク選帝侯家の娘である。伯爵位など、選帝侯の格から見れば遠く及ばない。
また、彼女が純粋に“まだ若すぎる”ということもあり、積極的に近づくこと自体がはしたない行為ではないかと悩んだ。
ましてや、女性とまともに会話をした経験すら乏しいのだ。意を決して手紙を書いても、何度も破り捨て、結局送れずじまいのまま数年が過ぎていった。
それでも心の中の想いは消えず、むしろ時を経るごとに歪んだ形で膨らんでいく。
最初はただ遠くから見守れればよかった。それが「いつか会って話をしたい」になり、やがて「自分の元に迎えたい」となり、ついには「どうあっても彼女を手に入れたい」という強迫観念のような渇望へと変質していった。
どれほど夜を重ねても眠れず、軍務に打ち込み続けても、彼女への執着は薄れない。恋をこじらせた男にしては、あまりにも危ういほど強い想いだった。
そんなクルトの元に、ある日ふと訪問者が現れた。
ブルーノ・ラング――元帝国軍特別情報局の局長を務めていた男だ。彼の名は帝国内でも広く知られている。先の大戦で数々の非道な作戦を実行し、最後は皇帝の逆鱗に触れて解散を命じられた。
それがラングだった。局長として責を問われ、指名手配扱いの身である彼が、クルトの元へとやってきた。
もちろん、そんな男が現れたとなれば、帝国軍の高官であるクルトとしては即座に拘束すべき立場だ。
しかし、そのときクルトはなぜか逡巡した。ラングの持ち込む話――それは、アデーレ・フォン・リヒテンベルクに瓜二つの人工生命体を作り出すという、とんでもなく魅惑的で危険な提案だったからだ。
彼が持ち込んだ情報は虚言とも思えた。
だが、具体的な技術論を並べ立て、たとえば生殖能力すら付与できるだとか、“理想的な性格”をプログラムできるだとか、クルトの欲望をくすぐる言葉が矢継ぎ早に出てくる。
初めは懐疑心だらけだった伯爵も、ラングが巧みに差し出す研究資料や実験データに目を通すうち、次第に惹きつけられていった。
クルトがついにラングを捕縛せず、匿うことを選んだのは、まぎれもなくアデーレへの歪んだ想いのせいだった。
そこには危険が伴うと分かっていながらも、彼は賭けに出た。
ラングはすぐさまセイレーンという人工生命体を作り上げ、伯爵の前に示してみせた。
下半身こそ魚のような形状だが、上半身や顔の造作、感情や言語能力――意図的に人語を話すことは出来ないようしていた――までも人間と変わらない。その姿は、どこか神秘的な妖艶さを漂わせていた。
「人魚のように作ったのはあえてです。需要を掘り起こすための工夫と言っていい。興味を示した者には、“人型”での生産をちらつかせ、さらに大きな利益を得るつもりなのですよ」
そうラングは言い放った。
セイレーンを顧客に売り込み、満足できなくなった者には“完全人型”も可能だと持ちかける。
人々が欲望を抑えきれずに糸を引けば、金銭だけでなく政治的な影響力すら手に入れられる。その流れを作って安泰を図る――それがラングの狙いだった。
軍の権力を握り、そこに資金を注ぎ込めるクルトの存在は、ラングにとっても理想的なパートナーだったのである。
ラングは自ら指名手配犯であることを重々承知しながらも、クルトが自分を匿い、大々的に「セイレーン流通」の仕組みを築き上げることを期待していた。
その見返りとして、クルトの望む“アデーレのコピー”を完全に人型で作り上げると約束したのだ。
クルトとラングの共謀が動き始めてしばらくした頃、彼らは非合法ブローカーのアレクサンダー・オットーと手を組むに至る。
惑星オニル2Aで動物園と呼ばれる闇市場を牛耳る男だ。ここは密売や海賊の集積地であり、怪しげな取引が横行する危険な場所でもある。だがそうした場所だからこそ、セイレーンの流通を秘密裏に行いやすい。
アレクサンダーは初め、クルトの要請を受けつつも警戒していた。
だが、セイレーンを目の当たりにし、そしてクルト自身が帝国軍の内部で高い地位を持つと知ると、一転して積極的に取引を進めるようになった。
セイレーンという人工生命体が持つ魅力を利用すれば、多くの貴族や資産家をたやすく手懐けることができる。アレクサンダーにとっても悪い話ではない。こうして三者の利害は一致し、計画は加速度的に広がりを見せていった。
セイレーンはその美しさや珍しさから、貴族の遊興目的のほか、何らかの宗教的行事に利用されるなど隠れた需要が多い。
さらに「完全人型も製造可能」と知られれば、性的な目的や外見上の理想を求める者が必ず出てくるだろう。
クルトがアデーレのコピーを望むように、欲望の形は人によって異なるが、いずれも強力な誘因として働く。その需要をラングは読み切っていた。
かくして伯爵は帝国軍の力を隠れ蓑に、アレクサンダーと連携しながらセイレーンの闇取引の網を広げていった。
そしてタイミングを見計らい、いよいよアデーレ・フォン・リヒテンベルクのセイレーン製造計画に着手しようと目論んでいた。
だが、そのためには肝心の遺伝子サンプルが必要となる。
七大選帝侯の血筋となれば、警戒や管理も厳重だ。簡単に入手できるはずがない。
しかし、そんな彼らに朗報が届く。
アレクサンダーが密かに依頼していた独立パイロット、カイ・アサミの一行が、なんとアデーレ本人から毛髪を授かったという報告だ。
しかも、それは純粋にアデーレが「航海の安全と再会を願う」気持ちでカイに贈ったものだという。これまでの想定を超えた形ではあったが、ともかくサンプルを確保できたのは事実だった。
それをアレクサンダーから伝え聞いたクルトは狂喜乱舞しかけ、その一方で、カイ・アサミという男に対して燃え上がる嫉妬を止められなかった。
彼女から純粋に想いを込められた証を、自分よりもはるかに若い、名もないパイロットが手にしていたという事実。
しかもそれを「金で譲り渡す」形でカイは手放してきたらしい。
胸の奥が焼け付くように疼くのを感じながら、クルトは自室の執務机に拳を叩きつける。
「アデーレ様の尊い髪を、あの男はたかが取引のために差し出したというのか……!」
じっとりとした怒りと情けなさ、そして勝手に募る対抗心。
自分はアデーレと一度たりとも真面に言葉を交わすことすらできなかったのに。たった一度の舞踏会で、彼女はその男に髪を託した――それが悔しかった。
理屈ではなく、どうしようもない嫉妬だ。
カイに向けて困難な依頼を達成したという尊敬の念を抱く一方で、憎悪に近い激情が胸をかき乱していく。
だが、その感情を引きずったままでは計画の遂行に支障をきたすことは明白だった。
クルトは苦虫を噛み潰したような顔で、自らが管理する情報端末に手を伸ばし、ラングやアレクサンダーと連絡を取り合う。
遺伝子サンプルさえ手に入ったなら、あとは予定通りアデーレのセイレーンを作り上げればいい。自分にとってそれが何よりも大切な最終目的なのだから。
クルトが統治する私邸には、セイレーン製造の要となる技師たちが何人も潜伏している。
ラングの配下という形で動く者もいれば、クルトが軍の研究機関から密かに引き抜いた者もいる。それぞれが違法な研究を進め、実験室で多くのサンプルを培養し、調整を繰り返してきた。
伯爵がアレクサンダーから「アデーレの毛髪が手に入った」と連絡を受けたとき、彼は迷わずその技師のひとり――グエンという男を呼びつけた。
グエンはラングから紹介されて手元に置いている技術者であり、冷静な性格の持ち主で何かと相談することの多い。ただ、研究への探究心と自負心は人一倍強い人物でもある。
私室の一角で、クルトはグエンへ早口に問いかける。
「グエン、あの毛髪は確かにアデーレ様のものだろうな。間違いないな?」
「はい、アレクサンダーから送られてきたデータを確認しました。全遺伝子配列を照合済みで、確かにリヒテンベルク家の特徴を保有しております。お間違いないかと」
「……よし。これで、実際にサンプルが届けば作業に取り掛かれるな。これでアデーレ様のセイレーンを作る準備は整ったわけだ」
クルトの声は、どこか震えていた。
緊張と歓喜、それに嫉妬が混ざり合った複雑な感情が滲み出ている。
グエンはまるで客観視するような無表情を崩さず、そっと小さく頭を下げる。
「その通りでございます。ですが、伯爵様……ひとつ気掛かりがありまして。先ほど、その検体の由来を詳しく耳にしましたが……」
グエンの言葉に、クルトは明らかに不快そうな顔を見せる。
アデーレがどのような想いでその毛髪を渡したかなど、想像したくもないのだろう。彼女の笑顔とカイの姿が脳裏をよぎり、無意識に奥歯を噛みしめる。
「そうだ……忌々しい話だが、カイ・アサミという独立パイロットが受け取ったらしい。それをアレクサンダーに売ったのだから、全く笑わせる。アデーレ様はその男のために髪を断たれたのに、肝心の男の方は、金のために平然と手放したのだ……」
そう吐き捨てた伯爵の目には、嫉妬と蔑みが入り混じる。
それに対し、グエンは静かに頷いて見せた。
おそらく伯爵は、カイへの嫌悪と羨望とで心が揺れに揺れているのだろう。彼女から真心を受け取っておきながら、それを捨てるように渡すなんて――と。
しかし、グエンからすれば、それほど単純な構図には思えなかった。
あるいはカイ自身にも複雑な事情があったのかもしれないし、何よりも、単にカイが優秀だったからこそ毛髪を入手できたとも言える。
グエンは伯爵の感情の波を下手につつけば危ういことを知っているので、あえて口には出さないが、何か別の糸口を探るべきだと直感した。
(これは嫉妬が高じて、伯爵が暴走しかねないな。そうなれば私の計画にも大きな障害となる。何とかしてクルト伯爵の意識を建設的な方向へ持っていく必要があるか……)
グエンは短く息を吐いてから、少し意図的に言葉を選ぶ。
「伯爵様。ところで、アレクサンダーは異常のあったセイレーンの輸送を近々行う予定だと聞いています。そこで、アレクサンダーが信頼を置いているカイ・アサミを、運び手として使うのはどうでしょう」
「なに?」
「量産が進んでいるとはいえ、セイレーンはまだまだ珍しい存在です。移送にも相応の注意と知識が必要。安易に扱えば死なせてしまい、高価なサンプルを失う恐れもありますから。かの男は輸送実績も豊富な様子、悪くないかと」
これには伯爵も興味を引かれたようだ。
確かにセイレーンの生体構造は特殊であり、温度や水質管理を誤れば衰弱する。
その上、成体になったセイレーンはけっして安価ではないため、万が一の破損や紛失は避けたい。そこで技術的にも人間的にも信用できるパイロットが必要になるわけだ。
「……で、グエン。それが一体、どう伯爵たる私と関わる?」
「はい。カイ・アサミは、アデーレ様の毛髪を手に入れたのみならず、多くの経験を積んだ敏腕パイロットでもあるのでしょう。今後、我々がセイレーンを流通させるにあたっては、彼のような存在を上手く利用するのが賢明かと存じます」
グエンは淡々と言いながら、伯爵の顔色をうかがう。
嫉妬に燃える伯爵にとって、カイに仕事を与えるなど耳障りな提案かもしれない。
だが逆に「カイを利用してやる」という発想に切り替われば、伯爵が怒りをコントロールできる可能性もある。
「ふん……。だが、私が直接あいつを使うなど――」
クルトは頬を引きつらせ、不快感を隠そうともしない。
だがグエンは微動だにせず、さらに言葉を続けた。
「伯爵様。一度ご自身がカイを試してみるのはいかがでしょう? アレクサンダーの紹介という形で、セイレーンと遺伝子サンプルをまとめて運んでもらう。どのみち搬送先や受け渡しルートは整備が必要ですから、多数の輸送実績を持つカイに任せた方が安全確実です」
「ふむ……その心は?」
「今すぐ彼に危害を加えたところで、状況が好転するわけではありませんし、むしろアレクサンダーとの関係が壊れます。それに――“アデーレ様の毛髪を手放すような男”が、どれほどの人物か、実際に伯爵様がご自身の目で見極めてみるのもよろしいかと」
グエンの提案に、クルトはしばらく黙り込んだ。
無論、即座に納得したわけではない。嫉妬を抑えて冷静になるのは難しく、脳裏にはカイへの敵意が渦巻いている。
だが、それを抑えてでも計画をスムーズに進めるメリットは大きい。何より、グエンの言うとおり、今カイを排除すればアレクサンダーの顔を潰し、結果としてセイレーン流通網に大きな混乱が生じるだろう。
「……分かった。実際に会ってみるのも一興か。いいだろう。アレクサンダーに話を通して、カイとやらをこちらの惑星へ呼び寄せろ」
「かしこまりました。そう伝えておきます」
そうして、グエンは一礼して部屋を出ていった。
その背中を見送る伯爵の胸中には、まだ消えない熱がじりじりと灯っている。
アデーレの遺伝子サンプルをいよいよ手中にした今、ここからが本番だ。自分こそが彼女を手に入れるのだと、歪んだ渇望はますます強まるばかり。
だが、その渇望の裏に潜む嫉妬と怒り――それをただ抱え込むだけではなく、今は利用して前に進むしかない。
この「セイレーン計画」こそが、自分の願いを叶え、新たな地位を築くための方法でもある。
もしその過程で、あのカイ・アサミが少しでも不穏な動きを見せるなら――伯爵として問答無用で排除すればいいまでの話だ。
クルトは窓辺に立ち、薄暗い夜空を見上げる。遠くの星々が瞬き、銀のきらめきを放っていた。
視線の先には、あのリヒテンベルク選帝侯家の本星があるはずだ。かつて舞踏会で見かけたアデーレの姿が、今もはっきりと思い出される。
16歳の少女だった彼女も今や大人になっている。もう一度、その姿をこの目で確かめたい。
たとえ偽物であろうと、自分だけのアデーレが手に入るなら、もはやどんな犠牲も厭わない――そのくらいに彼の想いは執着と狂気へ変貌していた。
窓に映る自分の姿を見る。そこには、かつての実直な軍人ではなく、自己の欲望に取り憑かれた狂信者めいた男が立っている気がした。
クルト自身、これほどまでに愛欲と嫉妬に駆られる日が来るとは思いもしなかったが、後戻りはできない。
シューマッハー家に恥じぬよう軍人として生きるなどという誓いはとうに薄れ、この歪んだ計画の先にしか、自分が求める光はないのだと信じ込んでいる。
「アデーレ様……私が、必ず……」
苦しげに呟いた声は、部屋にいる誰の耳にも届かない。




