8-2
商談室の空気はどこか重々しく、にもかかわらず強い期待感を孕んでいた。
オーナーであるアレクサンダーはソファから身を乗り出し、目の前の客――カイ・アサミとその仲間の動向を注視している。
ここはノイシュテルン星域内に点在する闇市場の一つ、“動物園”の商談室。海賊や密売人の取引拠点として知られ、そこを取り仕切るアレクサンダーから、カイはある仕事を依頼されていた。
「……それで、アサミ殿。あの舞踏会での成果は、いかがだったのでしょう?」
ひとつ呼吸を置いて、アレクサンダーが問いかける。
カイの胸中には、既に固めていた一つの決断が重く圧し掛かっている。
――帝国七大選帝侯の一人・リヒテンベルク選帝侯の娘、アデーレ・フォン・リヒテンベルクの遺伝サンプルを手に入れてほしいという依頼。それは、クルト・フォン・シュッマッハー伯爵が渇望する素材を満たすために欠かせないものだった。
アレクサンダーは、それをカイならば成し遂げられると信じ、舞踏会の招待状を手配し潜り込ませた。だが――。
(……期待されてるところ悪いんだけれど、やはり依頼には応えられないな)
カイは心の中でそう呟き、視線を落とす。
自分の隣にはフローラとキャロル――頼れる相棒たちがいるはずだが、今日はどうも様子が違う。二人ともカイの座るソファの横に、あえて少し距離を取るように立っており、その表情を窺い知るのは難しい。
だが、いつだって二人は自分を応援し、助力してくれた。今回の依頼も“やむを得ず”断るつもりでいることに賛同してくれると信じて疑わなかった。
(アデーレ様から託された証――どう考えても、そんなものを譲っていいわけがない。渡してしまえば顔に泥を塗ることになる)
間接的とはいえ、貴族社会を敵に回す危険をカイは理解している。
海賊や密売人とのトラブルなど目ではない、帝国内での活動すら根こそぎ封じられかねない。それに何より、あの少女の純粋な想いを踏みにじることは、カイの中で大きな背徳感を伴っていた。
だから、ここではっきり「任務失敗」と報告する以外に道はない、とカイは固く決めていたのだ。
「……さて、アサミ殿? お返事をお聞かせいただけますか?」
アレクサンダーが促す。表情には微かな焦りが漂う。
彼とて、この依頼が失敗に終わる可能性を頭ではわかっているのだろう。とはいえ、クルト伯爵からの厳しい催促がある以上、失敗と言われたらオーナーとしても大きな面目を失う。
カイは、小さく深呼吸して意を決した。
思わずフローラとキャロルを探るように横目で見やる。だが、二人はわずかに表情を曇らせているように見えるだけで、何も言わない。
カイは一瞬の躊躇を振り切り、口を開く――。
「……申し訳ありませんが、アレクサンダーさん。この件は――」
そこまで言いかけたその時、右手側から小さな足音が聞こえた。
カイが驚いて声を止めると同時に、キャロルが一歩前へ出て、何かをゆっくりとテーブルの上へ音もなく置いた。
それを見たアレクサンダーの目が大きく見開かれる。
――まるで神宝でも見るかのように、彼は手を震わせながらテーブル上の“それ”へ近づいた。
「お……おぉ、これが……!」
まさか――。
カイの思考が一瞬で白く染まる。アレクサンダーも同時に動きを止め、その目を丸くしてテーブルの上を凝視した。
それは布にくるまれた小さな束――アデーレからカイが受け取った、あの髪だ。
長い呼吸すら途切れそうになるほどの衝撃が、カイの胸を締め付ける。横でフローラはどういうわけか、少しも止める様子を見せていない。いつもならキャロルが暴走しそうになると、必ずフローラがブレーキをかけてくれるものなのに。
(え……なんで、どうしてキャロルが持ってるんだ!?)
カイの頭の中で怒りと困惑がせめぎ合う。
テーブルを挟んで対面するアレクサンダーは、一瞬呆然とした顔で佇んだのち、息を吸い込み喜びへ転じた表情を浮かべた。
その顔はまるで長年探し求めていた財宝を手にしたかのような、圧倒的な安堵と歓喜が混ざった色だ。
「……これが、あの“神聖の姫君”の……! まさか、本当に入手してくれたとは……!」
震える手で布をめくるアレクサンダーは、髪束を目にするや否や噛み締めていた唇を緩め、大きく息を吐いた。
幾度となくクルト伯爵から強く催促され、胃を痛めるほど追い詰められていた“リヒテンベルク選帝侯の娘の遺伝サンプル”がここにある――その事実に、彼は嬉々として端末を取り出し何かを入力し始める。
「アサミ殿……感謝します! すでにアサミ殿の口座には今回の成功報酬として3000万クレジットを振り込んでおきました。いや、本当にありがとう……!」
アレクサンダーは興奮に声を弾ませながら、端末の画面をカイに向けてみせた。
桁外れの大金だが、今のカイにとってそれはむしろ嫌悪感を生むだけの数字に見えた。
カイは視線をテーブルからキャロルへ、そしてフローラへと移す。
キャロルはなぜか堂々と胸を張るように立ち、少しもやましさを感じていないかのようだ。
フローラに目をやれば、彼女は悲しげでも微笑ともつかない穏やかな表情でカイを見つめ返すのみ。
その姿に、カイはハッと気づく。
これまで何度もキャロルの暴走を抑止してきたフローラが今回は止めない――つまり、フローラも共謀していたのだ。
(……いつもだったら、キャロルの暴走は絶対フローラが止めるはず……。これは、一人の暴走じゃない。二人とも最初から心得ていたことか……!)
目の奥で熱が燃え盛り、怒りが体を突き動かそうとするが、同時に急速に冷える感覚もあった。
カイが想定していた「失敗報告」という結末は、一瞬で葬り去られた。
アレクサンダーはすでに髪束を厳重に包み直し、懐へとしまっている。今更、撤回することなど出来る雰囲気でもない。
「いやあ、皆さんには本当に感謝を……! それでは、私はこれで失礼させて頂きます。本日はありがとうございました」
高揚に浸るアレクサンダーは感謝の言葉を口にして部屋を出て行った。その足取りはまるで浮いているようだ。
カイは呼び止める気力もなく、歯を食いしばったまま三人だけになった商談室を見渡す。
唐突な静寂の中、まずカイの口から落ちたのは低く冷えた声だった。
「……キャロル。どういうつもりだ。俺は“失敗”と報告するつもりだったんだぞ」
声が震えているのを自覚しながら、カイは立ち上がりキャロルを睨みつける。それは彼が滅多に見せない激しい怒りが宿った目だ。
だがキャロルは決してたじろがない。
それどころか、胸を張り、どこか開き直ったかのような堂々とした態度だ。フローラが少し遠慮がちに立っているのが見え、カイは苛立ちのやり場を求める。
「どういうつもり、って。わたしとお姉様とで話して、これがベストだと判断したわ。あの髪を渡せば、アレクサンダーとの約束は果たせるし、伯爵にも接近できる。エクリプス・オパールの行方を追うのに大きなチャンスじゃない」
キャロルの言葉は一見もっともらしい。
だが、カイは声を荒らげる。
「分かってるはずだ! あの証を勝手に渡したら……貴族社会を敵に回しかねないんだぞ!? アデーレ様の想いだって踏みにじることになる。なのに、どうしてこんな――」
カイの声が怒りに震え、商談室の空気は急激に張り詰めた。
キャロルが、まさかここまで逆撫でする行動を取るとは――カイ自身、これほど強く声を荒らげることはかつてなかった。
それほどまでに彼の怒りは激しい。
だが、キャロルは怯むことなく視線を受け止める……と思われたその一瞬、彼女の肩が小さく震えた。
「……っ」
その揺れは、初めて見せるキャロルの戸惑いの証にも思えた。
思わず息を飲んだカイの前で、キャロルは唇を噛みしめる。そして、次に顔を上げたときには、その目に涙を溜めていた。
「――だって……! ご主人様があの女のこと、ただの仕事相手以上に想ってるの、見てて分かったから……!」
押し殺した声が急に溢れ出し、キャロルはまるで自分自身を否定するかのように目を閉じて首を振る。
決して感情的にはなるまいと密かに決めていたにも関わらず、いざカイから強く責められたとき、キャロルは自分の胸の内に閉まっていた本当の想いを吐露してしまっていた。
その言葉に、カイは思わず返事を失った。
確かに、あの舞踏会でアデーレと話した時、妙に心を大きく動かさたことは事実だ。
カイ自身はそんな自分の感情を意図的に封じ込めてきたつもりだったが、どうやらキャロルには見透かされていたらしい。
「……あの女……自分の髪まで渡して、再会を望むなんて、どう見たってただの仕事相手にはしない行為だわ! そんなのご主人様だって気付いてるじゃない! なのに、私たちには何も言わないまま“渡せない”なんて結論……許せるはずがないわ!」
キャロルの声は次第に涙混じりになり、感情のままにまくし立てた。
一瞬、カイはさらに怒りを爆発させそうになる。嫉妬――そんな個人的な感情で勝手に渡すなど、あまりにも身勝手だ。
しかし、怒りで突き動かされかけた心が、次の瞬間ふと冷える。キャロルが見せる涙は、ただのわがままや衝動だけではないと、カイには分かってしまったからだ。
(……確かに、もっと相談するべきだった。いや……待て、なぜ相談もせずに俺は勝手に決めたんだ?)
ここで自身の感情の揺れに気づいた瞬間、カイは思わず息を呑んだ。
舞踏会以降、アデーレが託した髪束に対して――いや、彼女自身に対して、まるで手放してはいけないと固執するかのように感じていたのだ。
それまでなら必ずフローラやキャロルと打ち合わせ、危険を慎重に見極めて動くはずだったのに、今回は無言のまま行動を決めてしまった。
アデーレの髪は決して渡すことなどできない――たとえどんな条件を提示されても。誰にも渡してはならない。
これは自分だけのものだ――。
あの舞踏会以来、そんな想いが常に頭のどこかに巣食っていた。
その事に気付いた時、カイはふと自身が似たような経験を過去にしたことを思い出した。
「ッ……思考誘導か!」
唐突に喉元から飛び出した言葉に思わず短く息を飲み、顔を上げた。
フローラとキャロルはもちろん、その真意を察しきれないまま不審そうな視線を送ってくる。
だが、カイは彼女たちへ視線を返さず、過去の記憶を掘り起こしていた。
――強力なESP能力を保有するハヤト・ソウマ。
かつてカイは、彼と接触した際に“思考や感情を増幅される”という不可思議な体験をしたことがある。周囲の者に強烈な暗示や感情を与える力、いわば認識干渉系能力だった。
あの時はフローラやキャロルの助力もあって、完全に絡め取られることだけは免れた。
だが、能力の存在を知らずに接近していたら――あるいは容易に操られていてもおかしくなかっただろう。
(今回、俺があえて二人のブレーキを振り切り、自分でも気づかないうちにアデーレ様に固執していたのは……ハヤトのときと同じような力を受けていた可能性があるんじゃないか?)
ふと考え至ったところで、視界が瞬くように明滅する。
舞踏会で初めてアデーレと向き合ったときの記憶――あの神秘的な雰囲気、美しさ、そして小さな違和感。それが、今になって濃くよみがえってきた。
「カイ様……? 何か、心当たりでもあるのですか?」
フローラが柔らかな声音で問いかける。
その呼び方に、カイは少し肩を揺らしながら顔を上げた。真摯にこちらを見つめる彼女の瞳は、まだどこか不安げだ。
「……ああ。もしかしたら、思考誘導を受けていたのかもしれない」
ぽつりと零れ落ちた言葉に、フローラとキャロルの表情が強張る。
「ご主人様。じゃあ、あの女――アデーレが、ハヤトの時みたいに能力を使っていたってこと?」
キャロルは涙の痕が残る顔で、しかし鋭い眼差しを浮かべる。
その質問に、カイははっきりと肯定も否定もできず、苦々しく唇を噛んだ。
「分からない。アデーレ様は、むしろ自分の能力を自覚していない可能性だってある。……ただ、俺が妙に執着していた事実は拭えないし、思えば彼女を気にかけるあまり、お前たちと話し合うことを完全にすっ飛ばしていたんだ」
言葉にしながらも、その不可解な行動をした自分自身に背筋が冷える。
それまでなら絶対にしないような、しかも危うい決断――もしクルト伯爵から逆恨みされれば取り返しのつかない結果にもなり得るというのに、事前の相談すら省いてしまったなんて。
「カイ様、もしかして……リヒテンベルク家がアデーレ様と社交界を遠ざけていたのは、彼女がその能力をコントロールできるようになるのを待っていたからなのでは?」
フローラが静かに提案を口にする。その仮説は、確かに筋が通っているとカイに感じさせた。
リヒテンベルク選帝侯の娘が、ほとんど世に顔を出さなかった理由。家族がそれを許してきた理由。
もし本当にESP能力――中でもハヤトのような思考誘導の類を持っているのだとしたら、彼女を安易に社交に出すのはリスクが大きすぎる。
まだ完全に制御できないのなら、誰かを無意識のうちに虜にしてしまうかもしれないし、逆に彼女がパニックに陥るかもしれない。
「けど、今回の舞踏会は事実上アデーレ様の“お披露目”だった。もしかしたら本人は万全だと思っていたのかもしれない。それでも俺みたいに影響を受ける人間が出てきたってことだろうな」
カイは軽く頭をかきむしって吐息を漏らす。
キャロルは、カイがあの髪束に異様なほど強い執着を見せていた理由をようやく理解したかのように、溜息まじりに小さく頷いた。
そんな彼女を見て、カイは独りよがりでことを進めようとしていた自分の行動が痛烈に恥ずかしく思えてきた。
キャロルとフローラのどちらに視線を向けるでもなく、カイは深く頭を下げる。
「……悪かった。二人に相談もせず、俺が独断で結論を出してしまって」
その言葉には、悔恨と謝罪の思いがにじんでいた。
キャロルもフローラも、何かを言いたげに口を開きかけるが、同時にどこか安心したようでもある。カイがようやく冷静さを取り戻したからだろう。
「カイ様が今回、普段とは違う様子だったのは、私も気になっていましたわ。けれど……どうかお気になさらず。今は、先へ進むために話し合いましょう」
フローラが少し硬い表情のまま言葉を選び、促すようにカイを見つめる。
謝罪を受け止めてくれた彼女たちを前に、今度こそしっかりと相談をしなければならない。
カイは顔を上げ、二人をまっすぐ見据える。
エクリプス・オパール強奪の真相、クルト伯爵の動向、そしてリヒテンベルク選帝侯家が抱える謎――どれも切り離せない問題なのだ。
「……確かにアデーレ様から贈られた証を手渡すことで、伯爵に近づけるチャンスにはなる。でも、リヒテンベルク選帝侯家の遺伝情報なんていう、重要度の高いものを、あんな形で手渡してしまったデメリットも大きいと思うんだ。
俺も、例え思考誘導を受けていなかったとしても、この点だけは正直引っかかる。どう考えても危険すぎるし、俺たちが“裏切り者”扱いされる可能性だって否定できない」
カイとしては、この問題を最優先にクリアすべきと考えていた。
帝国内での活動停止はもちろん、最悪のケースではリヒテンベルク選帝侯そのものを敵に回す恐れもある。あの少女――アデーレの想いを踏みにじった責が問われれば、カイたちの今後の行動に大きな支障をきたすに違いない。
しかし、フローラはそれをあまり深刻には捉えていないようだった。
驚いたカイに向けられる彼女の眼差しは、どこか穏やかだ。
「その点なら、問題ありませんわ。私たちも当然、リスクを把握していましたから。カイ様が危惧なさっているような事態は、恐らく起こりません」
淡々とした口調で語るフローラを前に、カイは一瞬言葉を失う。
危険を承知のうえで、なぜ彼女たちがこれほど落ち着いていられるのか――その理由を問いたい気持ちが込み上げてくる。
「……今回ばかりは都合の良い盾がありますわ。ですのでカイ様が思っているほど、責任が降りかかるとは考えにくいのです」
フローラの言葉には、何か確信のようなものが宿っていた。
今回、クルト伯爵が密かに選帝侯家の娘の遺伝サンプルを欲している時点で、伯爵自身が大きなリスクを背負っているという点は、すでにカイも把握している。
もし彼の行動が公になれば、その立場を大きく揺るがす醜聞となる。それほどまでに、選帝侯の娘を“素材”扱いする行為は常軌を逸した罪だ。
つまり、何かあったとしても、伯爵側が必死に隠そうとするため、カイたちにまで咎が及ぶ危険は低いということだ。
「……なるほど。確かに伯爵が情報を漏らすはずがない。あくまで彼のほうから密かに『手に入れろ』と指示した形が残るだけなら、表立って俺たちを処罰しようがないわけか……」
カイはフローラの説明に思わず苦い息をつきながらも、ひとまず理屈としては筋が通っていると理解する。
それでも、アデーレがどう思うかを考えれば胸が痛む。だが、証は伯爵へ渡されるだろう。それを止めることはできないし、今は強奪事件の真実を掴む方が先決だ。
「……ごめんな、フローラ、キャロル。これまでの行動が裏目に出ていたらどうしようって、正直ビクビクしていた。まあ、どのみち伯爵との接触は必要だから、ここから先は腹を括るしかないよな」
カイがそう締めくくると、フローラは静かに微笑み、キャロルもうなずいてみせる。
三人の間には、先ほどまでの張り詰めた空気が少しずつ和らいでいくような感覚があった。誤解やすれ違いがあっても、結局は同じ方向を向いているという確信がここにある。
この星域に渦巻く闇と陰謀の中で、カイたちが踏み出す一歩。
その行く先には、さらなる嵐が待っているとしても――きっと、その先にしか答えは存在しないのだ。




