7-24
煌びやかなシャンデリアの光が、舞踏会の会場を優雅に照らしていた。
壁一面に飾られた豪奢なタペストリーや、磨き抜かれた大理石の床が、貴族たちの華やかな装いをより一層引き立てている。
会場では軽やかな音楽が流れ、グラスを手にした貴族たちの笑い声があちらこちらで弾んでいた。
けれど、その華やかさの裏には明確な階級の壁が存在していた。
いま集まっているのは下位貴族たち。
彼らは舞踏会の最初の賓客として会場に招かれたが、その役目は明白だ。下位貴族たちは、格式を整える装飾の一部に過ぎなかった。
ふと、重厚な扉の前に宮廷儀典官が歩み出る。
静寂が訪れ、緊張感が場を満たす。
「――ご入場!」
その声に合わせて、重厚な扉が静かに開かれる。
宮廷儀典官が厳かに名を読み上げるたび、威厳に満ちた高位貴族たちが優雅に姿を現した。
彼らの荘厳な衣装は灯りを受けて柔らかく輝き、その一歩ごとに会場には静かな驚きと尊敬のざわめきが広がっていく。
会場に集まる貴族や来賓たちは、それぞれの家柄や好みを反映した服装を纏い、まるで競い合うように美を主張している。
だが、その華やかな光彩の裏には、別の姿が隠れていた。
優美な衣装の陰で交わされるのは、様々な派閥間の駆け引きや内々の密約、あるいは上からの圧力といった、ねじれた利害が音もなく絡み合う思惑の数々――貴族社会特有の暗い水面下のやりとりだった。
それはまるで優雅な円舞曲のリズムに乗るかのように、会話の輪が形を変え、集い、そして離れていく。
その一挙手一投足にこそ、貴族たちが培ってきた狡猾さと狭量さが透けて見えるのだ。
だが、中にはそうした醜さとは無縁の者たちもいる。
一部の若い令息たちはスポーツや狩猟の話題で盛り上がり、対して年頃の令嬢たちは将来の相手を見定める絶好の機会ということもあって、主に色恋沙汰が中心だった。
その鋭い眼差しにとんと疎いのが令息たちであることは、貴族社会ならではの光景とも言える。
過去に似た経験を味わった貴族たちは、そんな若者たちの青春を微笑ましく眺めつつ、そこを肴に軽い冗談を飛ばす者もいた。
もっと現実的な面々は、新たな商談や事業の展開などの健全な話題で交流を深め、未来に向けた足がかりを作るのに余念がない。
そんな活気に満ちた談笑のなかで、一つの噂がひそひそと広がり始めていた。
話の口火を切ったのは、控えめな態度でありながら、穏やかな声で語る一人の貴族。
彼の“ちょっと風変わりな話”という前置きに誘われ、周囲にいた者たちが自然と耳を傾ける。
「今回の来賓の中に、少し特殊な出自を持つ人がいると聞きました。隣の星域の、ある侯爵星系での出来事らしいのですが……」
その話はこうだ。
とある侯爵領が、海賊の脅威に晒され荒廃の危機に瀕していた。そこへ現れたのが、無関係の身である独立パイロット――彼は大金を投じて傭兵を雇い、海賊の猛威から領民を守ろうと尽力した。
しかもそれだけで終わらず、海賊の首魁を自ら突き止め、領内で暗躍していた不正者たちまで暴いたという。そのうえ攫われた領民を短期間で救い出すほどの働きぶり。
結果、侯爵はその功績を称え、驚くべきことに星章士の位を与えたらしい――“今どき珍しい騎士道精神あふれる男”だというのだ。
この話題に、周囲の貴族たちは強い興味を示していた。
気づけば噂を語る男のまわりには、複数の者が集まり、「そんな英雄めいた話が本当にあるのか」「もしや誇張では?」とさまざまに感嘆や疑問を口にしていた。
しかし、これほど具体的かつ筋の通った逸話ならば、まるで作り話というわけにも思えない。
「昔の騎士道物語さながら、でしょうか……。それにしても星章士とは……大変な栄誉ですな」
「ええ、よほどの働きがなければ、侯爵家が星章士の位を与えるなど――いやはや、独立パイロットにしておくのは惜しい」
そんな折、新たな入場者の名を告げる声が、会場に朗々と響いた。
宮廷儀礼官が、さほど大声を出していないにもかかわらず、広い室内にくっきりと通る品の良い声で告げる。
「ヴァルデック侯爵家 星章士、カイ・アサミ殿。随行、フローラ・ベレス嬢、キャロル・ラウム嬢。ご来場になります」
一瞬にして、先ほどまで“星章士の噂話”で盛り上がっていた貴族たちの目が、いっせいにエントランスへ向けられた。
そこには若い男が入場してくるのが見え、その両隣を、豪奢なドレスを纏った二人の女性が伴っている。
カイ・アサミ――噂を聞いた者たちは皆、その名に秘められた英雄譚と、いま目の前にいる彼の姿とを結びつけようとするかのように、一様に視線を送り続けた。
カイたちが会場に入ってすぐ、噂を聞きつけた多くの貴族が、わらわらと彼らの周囲に集まってきた。
当初は、独立パイロットでありながら星章士の称号を得たという話に興味を持ち、珍獣を見るような気軽な好奇心で近づいてきた者たちだった。
が、ふたを開ければ、まず二人のパートナーを同伴している事実に目を見張る。
しかも、その二人が驚くほどの美女――純白のドレスを纏ったフローラと、青紫に金糸の刺繍をあしらったドレスを着こなすキャロルだった。あまりにも絵になる三人組の姿に、さらに衝撃が広がっていく。
「星章士で独立パイロット……しかも、まさか女性を二人もパートナーとして連れてくるとは」
「ほら、あの白いドレスの淑女……胸元があれは……すごい……」
「いやいや、青紫のほうも十分に華やかだぞ。どちらが正妻で、どちらが愛人なんだ?」
にわかに興味を募らせる貴族たちが、次々にカイを取り囲み、噂になっている“英雄譚”の詳細を求めたり、カイの冒険話に耳を傾けたりした。
さらには、どうやってあの二人を射止めたのかといった私的な話題までもが飛び交い、広い会場の一角がちょっとした人だかりになっている。
カイを取り囲む貴族たちの波は、初めこそ好奇心旺盛な者たちばかりだった。
しかし、噂の英雄譚に加えて、独立パイロットの星章士という得体の知れなさ、そして二人の目を奪うような美女を両脇に従えた光景。
そうした異質さが、ある者は興味を、ある者は嫌悪や妬み、そしてある者は下心を抱かせ――いつしかその人だかりは百花繚乱のごとく雑多な様相を呈し始める。
そこで頼りになるのは、カイにとってフローラとキャロルという二枚の盾だった。
フローラは深い胸元を強調した純白のドレスで、男の本能を刺激するかのように振る舞いながらも、露骨な肉欲で近づいてくる男たちを笑顔でかわす。
それどころか、まるで上品な壁でもあるかのように会話の主導権を握り、煙に巻くように軟着陸させていく。
たとえば、胸元に視線を落としつつ意味ありげに声を掛けてくる男がいれば、彼女は艶やかな微笑みを湛えながらも軽やかに返してみせる。
「フフ、視線が熱いですわ。ですが、それはもっと親しい間柄になってからにいたしましょう。それより、せっかくですし、あなた様のお話をお聞かせいただけますか?」
一方、キャロルは青紫の壮麗な装いで、貶めてやろうと目論む者や相手を試そうとする輩を軽快にいなす。
ときには言葉巧みに翻弄し、意図が外れたタイミングで、あくまで無害であるかのように微笑むのだ。
「まぁ、もしかしてわたくしの秘密を暴きたいんですか? いい度胸ですわね。でも残念、教えて差し上げるほど暇じゃありませんの。せっかくの舞踏会なんですもの、ここは華麗に楽しむのが貴族の嗜みじゃなくて?」
二人は時折、カイの背後で目を合わせ、ごく僅かなアイコンタクトだけで次の動きを取り決めていた。
もしフローラが肉欲にかられた視線を感じれば、彼女自らが前に出る。
もしキャロルが陰険な策を察知すれば、さっと横入りしてさりげなく相手を丸め込む。
こうして、彼女たちが問題ないと判断した者だけが、カイと直接言葉を交わすチャンスを得るのだった。
カイはその“二枚の盾”の働きぶりに感嘆しつつも、少なからぬ安堵を抱えていた。
これまでは自分がひとりで受け止めるしかなかった矢面にも、いまはフローラとキャロルがいてくれる。華やかな場に慣れた二人がしっかりフィルターをかけてくれるおかげで、自分が対応すべき相手はぐっと絞り込まれるのだ。
(まったく大したもんだよ……。まあ、その分、二人にも苦労をかけてるけど)
人混みの隙間越しにちらりと視線を交わし、二人が微笑で合図を送ってくる。
今のところ、敵意や邪な思惑のある輩は巧妙に弾き出されており、話しても差し支えないという人物だけがカイの前に進んでくる。
その流れはスムーズに、さながら洗練された舞台劇のように、ちょっとした談笑から始まり、互いに失礼のない距離感でやりとりが交わされていた。
「英雄譚と伺っておりますが、本当のところはどうなのでしょう?」
「独立パイロットとして各地を旅されてきたとか。ぜひその冒険談を……」
当然、そうした貴族たちの好奇心は“普通の人間では味わえない世界”を求める気持ちが根底にあるのだろう。
カイは彼らにとって隣国であり敵対国家でもある連邦の宙域を回った思い出や、海賊との遭遇談など、差し障りのない程度に語って聞かせる。
こうして、まるでポルカやワルツを踊るようにクルクルと人の輪が移ろう時間帯、カイはこの舞踏会が単なる社交の場ではなく、様々な思惑が交錯する戦場であることを改めて認識するのだった。
だが実のところ、カイはこの盛況ぶりに内心で溜息をついていた。
ここへ来た目的は、リヒテンベルク選帝侯の第二息女――アデーレ・フォン・リヒテンベルクの遺伝子サンプルを極秘に入手するためであって、本来は目立たないほうが断然都合が良かった。
だというのに、フローラとキャロルの華やかすぎる存在感が結果的に注目を集め、それに加えて自身の海賊撃退英雄譚などという噂話まで伝わっているのだから、もはや隠密行動とはかけ離れた状態となってしまっている。
「はあ、予想通りに目立ってるなあ……ん?」
そんな中、ひときわ大きく響く宮廷儀礼官の声が、会場の熱気を新たな段階へと引き上げた。
その言葉に耳をそばだてた人々は、忽然と周囲の雑談を切り上げ、視線を一斉に扉のほうへ向ける。
「――ブラウンシュバイク公爵、ならびに、リヒテンベルク選帝侯家 第二息女、アデーレ・フォン・リヒテンベルク様のご入場でございます」
音楽がより盛大に鳴り響き、広いホール内で軽くざわめきが起きた。
開かれた扉から姿を現したのは、このパーティーの主催者であるブラウンシュバイク公爵と、その隣に寄り添うように腕を取る美しき貴賓――“神聖の姫君”ことアデーレ・フォン・リヒテンベルクだった。
公爵は威厳に満ちた姿で、行く先々へ笑顔と視線で応える。
その貫録はさすが公爵と称されるにふさわしく、周囲の者たちは自然と畏敬の念を払っているように見える。
そして、その隣で白のドレスをまとったアデーレの姿は、一段と眩く映った。
腰まで伸びた黄金の髪が胸元でふわりと揺れ、まだ少女の面影を残す均整のとれた面差しは、まるで天上の造形をそのまま人の形に落とし込んだかのような儚い美を宿している。
そのあまりの神々しさに、カイは思わず見惚れるように視線を奪われていた。
淡く微笑むアデーレは、ブラウンシュバイク公爵の手を引かれながらゆっくりと会場を歩いていく。その歩みにはあどけなさと気品が同居し、純白のドレスはまるで透き通ったオーラを放っているかのようだ。
「……噂には聞いてたけど、本当に姫君って感じだな……って痛ッ!?」
ぼうっと眺めるカイの両手に、不意にきつい痛みが走った。
驚いて左右を見れば、そこにはにこやかな笑みを浮かべるフローラとキャロルが、それぞれ鋭い圧力を加えるように手を握りこんでいた。
僅かな嫉妬を含んだ眼差しを向けながら、フローラはカイの耳元へそっと囁く。
「カイ様、対象が出てきましたわよ。いつまでもぼんやり眺めていないで、切り替えてくださいまし。……任務、忘れたわけではないでしょう?」
ついでキャロルも、「ほらほら、ご主人様。今こそ頑張り時よ? ちゃんと集中して」と小声で畳みかける。
二人の応援と、どこかほんのりした敵意が混じった様子に、カイは苦笑しながら思い切り意識を切り替える。
「あ、うん。分かってるって、お姫様をただ眺めに来たんじゃない。これからが本番だな……」
そう呟いて、深く息を吐く。
カイは目の前の人混みを見渡し、アデーレとの距離を測るように考えを巡らせた。この華やかな場は単なる舞台ではなく、自分にとっての戦場だ。
己の内から奮い立つ緊張と共に、今宵の舞踏会に隠された本当の目的――アデーレの遺伝子サンプルを入手することへ気持ちを向ける。




