7-18
フローラは、当初この場に同席するにあたって「飾りとして徹する」と心に決めていた。
カイがヴァルデック侯爵から星章士の位を授かった時点で、いずれ帝国貴族と広く関わっていくのは必然――そう、彼女には分かっていたからだ。
にもかかわらず、カイ自身は未だ「貴族に対してどう振る舞うべきか」という自覚すら薄い。
帝国貴族たちがどのような思惑を抱き、何を狙い、何を価値とするのか。それを殆ど理解できていない。
だが、それには原因があった。
カイが初めに親しくなったヴァルデック侯爵は、帝国貴族の中でも稀に見る誠実な人格者であった。
その経験がカイの内面に「貴族とは侯爵のような人間なのだ」という無意識の思い込みを与えてしまっていた。
この大きな勘違いに気付くことなく、カイは帝国貴族たちは自分たちと同じ常識を持つと思い込んでしまっていたのだ。
(帝国貴族はそんな甘いものではありませんわ……)
フローラは淡い微笑みを浮かべながら、隣で背筋を伸ばすカイの横顔をそっと盗み見た。
シュポンハイム子爵と対面したとき、カイは少し緊張していたようだが、それはまだ表面だけのものでしかない。
彼の視線はまっすぐ子爵を捉えているものの、貴族という存在の“本質”をどこまで警戒しているかは疑わしいところだ。
――この先、彼は否応なく多くの帝国貴族と関わることになるはず。そのたびに翻弄されていては、取り返しのつかない事態を招くかもしれない。
だからこそ、ここで少しでも練習を積ませてあげたい。
自分が上手く陰からサポートして、カイには“自力でやり切った”という手応えを味わってもらう。
フローラは密かにそう腹を決めると、穏やかな表情を崩さないまま、子爵とカイのやり取りに意識を集中させた。
今回の対談は、その最初の試金石にぴったりだとフローラは判断していた。
幸い、キャロルのように場を荒らすお調子者もいない。自分の裁量で適度に立ち回り、時に手を貸せば、カイにはいい経験になるはず。
そこで今日は、「副操縦士として随行する淑女」という役を演じつつ、必要に応じて口を挟む心づもりでいたのだ。
だが、実際に対談が始まってみれば、案の定――。
シュポンハイム子爵は初対面の挨拶こそ丁寧にこなしていたが、その眼差しには卑猥な欲望が色濃く滲んでいた。
フローラが軽くお辞儀をしただけで、視線は胸元から腰のラインまでを舐め回すように追いかけてくる。
それでもフローラは動じず、優雅な振る舞いを保ったまま微笑みかけた。
(肉欲に支配された雄は本当に素直。高慢でプライドが肥大化した男より、よほどコントロールしやすいですわ)
そうして、子爵が荷の“問題”なるものをちらつかせはじめた時、フローラは「やはり」と思った。
この“問題”というのは荷運びの不備ではなく、フローラ自身を手に入れるための大義名分に過ぎない――それを見破るのは容易だった。
そして、カイは……予想どおり、まんまと子爵の言うままに話を進められてしまっている。
(まだまだ甘い。ヴァルデック侯爵が特別だっただけだと、そろそろ実感してもらわないといけませんわね)
フローラはカイが言い淀む姿を横目に見やりながら、あえて静観する。
“練習”のために、多少は窮地に追い込まれたほうが学びが深まる。
彼が引き際を心得ず、どこまで粘れるのか――それを見極めようと考えていたのだ。
しかし、さすがにこれ以上放置すると危ういと判断したフローラは、タイミングを見計らって口を開く。
「それで、どのようにすればよろしいのでしょう?」
穏やかな笑みを浮かべて問い返すと、子爵は目を輝かせながら「フローラ殿にご協力いただきたい」と言い募る。
(やはり狙いは私ね。こういった男は、ほんの少し擦り撫でるだけであっという間に果ててしまいますし、さっさと済ませましょうか……)
カイが渋りながらも必死に体面を守ろうとする裏で、フローラは子爵に媚びるような視線を向け、わざとらしく舌なめずりをしてみせた。
ほんのわずかな艶めかしい仕草に、彼の中年太りの体が反応するのが手に取るように分かる。
鼻息を荒くする彼を尻目に、フローラはひとり思う。
(さて、誘惑はこのくらいにして……今日の所はカイ様に貸しを作りますか)
このとき、カイがどんなに慌てふためこうとも、すでに子爵の視線はフローラに釘付けだ。
カイの提案を交わしながら子爵は「ではフローラ嬢、早速別室へ」と側近たちに指示を出し、支度を急かしている。
フローラはちらりとカイを振り返って微笑み、「すぐに終わらせて戻りますわ」とでも言うように目で伝えた。
実際のところ、この程度の低俗な雄ならばほんの少し“味見”をさせるふりをして転がせることなど造作もない。
――しかし、その瞬間だった。
重厚な扉が激しく開き放たれ、廊下からのざわめきが一気に応接室に流れ込んだ。
フローラは思わず舞台袖から突如闖入した役者を見るような視線を扉のほうへ向けるのだった。
◇◇◇
重厚な扉が勢いよく開き放たれ、廊下から駆け込むようにして姿を現したのは、子爵同様に恰幅の良い妙齢の女性だった。
トーガ風の礼服を纏い、赤毛を後ろで纏めてシニヨンにしている。
彼女の登場にまず反応したのはシュポンハイム子爵だった。
「ベルタ……なぜ、ここに!?」
子爵の驚愕に満ちた声が応接室に響く。
さしもの飄々とした子爵も、この女性――“ベルタ”と呼ばれた人物を前にすると、まるで尻尾を巻いて逃げ出したい様子がありありと伺えた。
「何故も何もありませんよ。今回、わたくしが楽しみにしていた“ゼノレギオン”を送り届けてくださった方々に、一言お礼を申し上げようと思ったの。それでここに来たまでよ」
ざわついていた側近らも、夫人の登場に困惑しているようだった。
ベルタはそんな周囲の動揺をものともせず、カイとフローラを順に見やる。
すると、視線がフローラに留まった刹那、子爵の目が一瞬泳いだ。
それを見逃さなかったベルタは、すぐに“すべてを理解した”と言わんばかりに小さく溜息をつく。
「はあ……。またなの、ゴットフリート。あなたという人は、本当にどうしようもないわね」
子爵がビクリと肩を震わせる。
先ほどまでフローラに欲望を剥き出しにしていた男とは思えないほど、その姿は幼い子供が悪戯を見つかったときのように萎縮していた。
それを見届けると、ベルタはあきれ顔のままカイのほうへ振り返る。
「突然押しかけまして失礼いたしました。どうやら主人が無理を言ったようですわね。何せ根っからのスケベですから、大方フローラ様を見て“抱かせろ”だのと要求したのでしょう?」
あまりにあっけらかんとした物言いに、カイは思わず言葉を失う。
フローラもまた、ベルタのあまりに率直な発言に微かな驚きを覚えたが、次の瞬間には思わず口許に笑みを湛えていた。
なにしろ、妻である夫人がここまでハッキリ物を言うとは想定外だったからだ。
呆然とするカイに向かい、ベルタは軽く一礼して続ける。
「わたくしの名はベルタ・フォン・シュポンハイム。ご覧のとおり、ゴットフリートの妻にございます。あなた方がわざわざこの辺境まで大切な荷物を届けてくださったのだとか。心から感謝いたしますわ」
その声には先ほどの溜息交じりの呆れとは違う、はっきりとした謝意が込められていた。
一方、カイはようやく我に返ったように姿勢を正す。
「こ、これは……ご丁寧にありがとうございます。私の名はカイ・アサミ、こちらのフローラ・ベレスは副操縦士です。ご要望の品を無事に届けられたようで、何より――」
カイが口早に自己紹介を続けている最中、ベルタ子爵夫人はまるで何かを思い出したように瞳を輝かせると、カイの言葉を遮るようにしてずいとフローラのほうへ踏み出した。
そしてそのままフローラの手を取り、興奮した様子ではずんだ声を上げる。
「ああ、フローラ殿! 今回の荷に添えられていたレポート、読ませていただきましたわ。あれは素晴らしい出来栄えでした!」
思わぬ方向から褒められたフローラは、一瞬驚いたように瞳を瞬かせる。
だが、すぐに品の良い笑みを浮かべ、ベルタの手を取り返すようにして優雅に頭を垂れた。
「まぁ、それはご丁寧に。ご覧いただけたのでしたら、光栄ですわ。あまり大したことは書いておりませんが……」
「いいえ、大したことどころではないわ! ゴブリンとオーク、それぞれの生態をここまで詳細にまとめたレポートなど、わたくし初めて拝見しましたもの! 特にゴブリンに関する記述はとても参考になりましたわ――ええ、あの……『ゴブリンとヤる十の心得』が、何より興味深くて……!」
そこまで勢いよく言い切った後、ベルタははたと口元を押さえ、少し頬を染めたように見えた。
周囲の視線を気にしたのだろうか、少し声を落としながらもなお熱っぽい口調を続ける。
「その……細やかな観察と、非常に実践的なアドバイスが盛り込まれていて……ああいう記述を求めていた方は多いと思いますわ。わたくしの趣味に合致していると言いますか、そう、ほんとうに大変参考になりまして……」
妙に熱のこもったベルタの言葉を耳にして、フローラはそれとなく微笑みを深める。
実際のところフローラは、移動中のゴブリンやオークの生態調査を自主的にまとめていた。
もとより彼女自身、未知の生き物や種族を観察するのが好きな性分ということもあったが……どこか「研究」の域を超えた熱意を感じさせる内容だったのは否定できない。
一方、そのやり取りを横目で見ていたカイは、ベルタの浮き立った口調を聞くうちにすべてを理解した。
子爵のあからさまな下心とは別のベクトルで、ある意味ベルタ夫人もまた同じタイプの人間だったのだと。
(あー……この夫人、フローラと同類だったのか)
呆気にとられるカイをよそに、ベルタ夫人はフローラをすっかり気に入った様子で、その“研究内容”をさらに熱心に問いただしていた。
ゴブリンやオークをどのように観察し、どうやってあの具体性を伴うレポートをまとめたのか――興味は尽きないらしく、二人はまるで旧知の仲のように盛り上がっている。
その声のボリュームや身振り手振りはもはや“貴婦人の会話”というよりは“共通の趣味を見つけた同志の対話”といった雰囲気に近い。
カイもまた、その熱気に当てられるようにして立ち尽くしていたが、ふと偶然目が合ったシュポンハイム子爵と視線を交わし苦笑いを浮かべ合う。
子爵は夫人の登場によって完全に毒気を抜かれてしまったようで、先ほどまで見せていた卑猥な色気もすっかり影を潜めている。
まるで狼狽えた獣が大人しく尻尾を巻き、牙を引っ込めたかのようだ。
「はは……いや、まいったな。まさかベルタのやつが出てくるとは。お前さんたちには、いろいろと失礼をしてしまった」
子爵はそそくさとカイのそばへ移動し、小声で話しかけてくる。先ほどとは打って変わって、どこか気さくな態度になっている。
とはいえ、さすがにあれだけ露骨な欲望を向けられた直後だ。
カイとしては少し複雑な心境だったが、子爵が頭を下げるように謝罪してくるので、やむを得ず言葉を返す。
「気にしないでください、子爵」
隣ではまだまだ盛り上がる“同好の士”たちの談義。
ちらりと見やれば、フローラは穏やかな微笑みを浮かべつつも、相手の質問をいちいち楽しそうに受け答えている。カイが心配するほど、彼女は気にしていないようだ。
「いや、わたしが調子に乗りすぎたのは事実だ。あんなに美しい女性が目の前にいたものだから……ついな」
子爵は照れ隠しのように言い訳を並べつつ、先ほどの尊大な様子はすっかり消え失せている。
カイが苦笑交じりに応じる。
「そうですね……実際のところ、もしあのままフローラを別室に連れて行っていたら、喰われていたのは子爵のほうでしたよ」
カイが冗談めかしてそう言うと、子爵はひゅっと息をのみ、それから小さく肩をすくめて笑う。
「はは、まったく、今考えればその通りかもしれん。あの眼差しや仕草は、ただの艶めかしさとは違う、得体の知れない何かを感じるからな。あれは……危険な女性だ」
そう言って、子爵はどこか開き直った表情でベルタとフローラのほうをちらりと見やる。
夫人とフローラは、まだまだゴブリンやオークの生態や生殖行動に関する話題で盛り上がっているようだ。
おそらく両人とも、この場に男性がいることすら意識の外なのだろう。
少なくとも、その怪しげな盛り上がり具合はカイや子爵が介入する余地をまったく与えていない。
まだまだ会話の熱気が冷めないフローラたちの様子を横目に、カイは以前から抱いていた疑問を思い切って子爵にぶつけてみることにした。
シュポンハイム子爵――ゴットフリート・フォン・シュポンハイムは、この惑星グリューンハイデのテラフォーミングをどんな目的で行っているのか。そしてなぜ、わざわざ大量のゼノレギオンを必要としているのか。
――しかし、子爵の口から語られた“ある計画”は、カイの予想を大きく裏切るものであった。




