5-12
夜の闇が広がる中、ルートヴィヒ・フォン・ヴァルデックは荘厳な執務室で、重厚な椅子に深く身を沈めていた。
高くそびえる天井には古めかしい装飾が施され、重厚な家具が整然と配置された室内には、歴史と権威が感じられる。
窓の外には、ヴァルデシアの夜空に広がる星々が静かに輝き、かすかな光が室内に差し込んでいた。
しかし、その美しさとは裏腹に、ルートヴィヒの胸中は重苦しい感情で満たされていた。
手元の机には精緻な装飾が施された報告書が山積みになっており、その紙に記された内容が彼の心を苛んでいる。
精緻な装飾が施された紙に記された内容が、彼の心に重くのしかかる。
幾度もその内容に目を通して確認したが、その事実にルートヴィヒは思わず怒りに任せて紙を握り締め、くしゃくしゃに潰してしまった。
この帝国において、紙というのはいたって一般的な情報媒体だ。帝国貴族の間では紙の文書が特権的な意味を持ち続けている。
紙に書かれた記録は不変であり、デジタルな記録よりも信頼性が高いとされ、改ざんや消去のリスクを回避するため、重要な報告や公式なやり取りには紙が用いられるのだ。それは、古くからの伝統を守り続ける貴族社会の象徴でもあった。
「誇りある貴族が海賊と繋がっていたとは……私の顔に泥を塗りおって……」
ルートヴィヒは低く呟き、報告書に記されたシュタインシュマル家当主の名に目をやった。
海賊と通じ、星系全体を混乱に陥れた首謀者として突き出されたのが、代々この星系を支えてきた名家と知った時は何かの間違いかと疑った。
だが、それを裏付ける決定的な証拠も多数報告されていた事から、シュタインシュマル家当主ヴィルヘルム・フォン・シュタインシュマル男爵が海賊バルタザールと裏取引をしていた事は認めざるを得なかった。
「兄たちと違って、ここまで愚鈍な男だったとはな……。教育に手を抜きおったか、オットー」
深いため息が執務室に静かに響いた。
数日前、独立パイロット、カイ・アサミによって星系防衛隊へ提出された証拠の山が、彼の目の前に積み上がっている。
この報告によってもたらされた情報により、星系を騒がしていた海賊騒動は急速に鎮静化し、多くの拉致された領民たちが解放された。
海賊たちの"市場"の存在も明らかになり、多くの賞金首や密売人を捕まえる事も出来た。しかし、その裏に残された傷は決して浅くはない。
経済は深い打撃を受け、星系防衛隊の信頼も揺らぎ、多くの課題が山積みだ。
さらに、すでに裏ルートで売買されてしまった領民の行方を追う必要もあった。
だが、それ以上にルートヴィヒの胸を締め付けているのは、シュタインシュマル家の当主が海賊と手を組んでいたという事実だった。
ルートヴィヒの脳裏には、シュタインシュマル家のこれまでに果たした忠義の数々が浮かび上がる。
だが、それが今、崩れ去ろうとしているのだ。
名誉ある家系の裏切りは、彼自身の統治にも大きな汚点を残すこととなる。
その時、側近が静かに執務室に入ってきた。ルートヴィヒは顔を上げ、側近と目を合わせる。
「お館様、この報告を上げてきた独立パイロット――カイ・アサミについて身辺調査が完了しました。結果から申しますと、白でございます」
「カイ・アサミか……」
何の前触れも無く一人の独立パイロットが星系防衛隊の本拠地でもあり、首都星にあたる惑星ヴァルデシアにやってきたのは数日前の事だ。
彼は星系を騒がす海賊騒動の裏で糸を引くものが居るといって、多数の物的証拠と、あろうことかその犯人を捕縛してきたという。
その犯人が名誉ある帝国貴族の男爵と判明した時、逆にカイが不敬罪として一時、拘束されるに至った。
しかし、その後、情報を精査したところ彼が話していることが全て真実であることを裏付けており、なにより男爵自身の自白もあって一気に自体が進展した。
「思えば、彼の者を殺してしまっていれば良かったのではないか? さすれば、貴族が海賊と繋がっていた等という汚名は無かったことに出来た」
帝国には不敬罪という実に都合の良い法が存在する。
簡単にいってしまえば、貴族を嘗めたら殺しても良いという法だ。
「それは大変難しいかと。確かに彼の者が名誉ある帝国貴族を私人逮捕するという愚を犯したのは事実です。
ですが、それ以上の愚をヴィルヘルム男爵は犯したのです。まして、防衛隊の中にも海賊の被害を受けた者は少なくありますまい」
「そこで私が下命すれば更なる心証の悪化を招くか。……これ以上、貴族の信頼を地に落とすことは避けねばなるまいな」
「加えて、パイロット連盟よりもそのことで秘密裏に連絡が来ておりました。また、どうやら私費を投じて巡回依頼と海賊討伐も出していたようです」
「なんと……!」
その話を聞いてルートヴィヒは驚き目を見開いた。
単なる流れ者風情と思っていた人物が、思いのほか高貴な精神を持ち合わせていた事に驚きを隠せなかった。
知らなかったとはいえ、そのような人物の暗殺を一瞬でも企てた自分を恥じた。
そんな人物を、秘密裏に暗殺したとなれば貴族の――この星系を統治する侯爵への信頼は完全に失われる。
星系防衛隊の大半は債務奴隷である奉仕国民たちで構成されていたし、残る半数の多くは名誉国民で占められている。
彼らにも、今回の海賊襲撃によって身内に被害を受けた者というのは決して少なくはない。
そこへ来て、彼らに今回の首謀者を捕まえるという大金星を挙げた人物を、暗殺しろなどと命ずれば、最早信頼など築けようもない。
ルートヴィヒはしばし沈黙し、考え込んだ後、深く息をついて決断を下した。
「よし、一先ずそのカイ・アサミとやらと会うか。一度、直接話を聞く価値はあるだろう」
「それがよろしいかと。彼の者の功績は防衛隊内だけに留められており、市井の者には一切知られていない状況です。秘密裏に処理されている今こそ、面会を通じて真実を掴むべきでしょう。すぐに手配いたします」
側近は深々と頭を下げ、そのまま静かに執務室を後にした。
ルートヴィヒは再び椅子に身を預け、窓の外に広がる静かな星々を見つめる。
彼はふと感じた。星系の表面は平和を取り戻しているように見えるが、心の中ではまだ多くの問題が渦巻いている。
そして、それを解決する鍵を握るのは、カイ・アサミという男かもしれない。
彼は深い思索にふけりながら、カイとの面会を待ち望んでいた。
◇◇◇
「ああぁーー疲れたもおぉーー……」
オベリスクのブリッジで、カイ・アサミは疲れ果てた様子でシートに深く腰を沈めていた。
彼の表情は、まさに「戦い抜いた後」といった具合で、身をだらしなく投げ出している。それも無理はない。
カイは星系を混乱に陥れていた一連の事件の首謀者と、その証拠を防衛隊に提出した直後、逆に帝国貴族を私人逮捕した罪で捕縛され、36時間もの尋問を受けたのだから。
ようやく解放されたのはつい先ほどのことだった。
尋問の疲労が完全に体にのしかかり、カイは何もする気が起きないままシートに沈んでいた。
「ご主人様に何をしてくれちゃってるのよ! ああ、可哀想なご主人様……癒してあげないと!」
だらしなく口を上げて放心状態のカイを見て、キャロルは今にも飛び出そうとする。
しかし、そんな彼女の首根っこをフローラが捕まえて離さない。
「やめなさい、キャロル。そそられる気持ちは、まあ、理解出来なくもないけどやめなさい。流石にいま襲うのは酷ですわよ」
「でも、こんな……」
キャロルはフローラに説得されながらも、不満げに唇を噛みしめた。
フローラは淡々とした表情で、しかしどこか呆れた様子でキャロルを抑え続けている。
「そもそも、今回の件がこんなにややこしくなったのは、カイ様とキャロルが原因ですのよ」
今回の混乱の根本的な原因は、カイとキャロルがヘルガだけでなく、ヴィルヘルム男爵まで捕縛して連れてきたことにあった。
もともと計画していた通り、倉庫内に略奪品があることを確認し、ヘルガを事情聴取して、防衛隊に証拠と共に引き渡せば終わるはずだった。
ところが、貴族であるヴィルヘルム男爵をも捕縛したことで、事態が大きく変わってしまったのだ。
帝国の厳格な階級制度において、いくら悪事を働いていたとはいえ、独立パイロットごときが貴族を捕縛するというのは大きな問題だった。
それが二人には理解されていなかったのだ。
カイもキャロルも、男爵を連れてきた時点で、事の重大さに気付いていなかった。
それを見たフローラは、内心頭を抱えるしかなかった。
事態の複雑さに加え、彼らが貴族を捕縛したことで、カイの命が危険に晒される可能性も増した。
帝国では、貴族の面子を潰すことは許されないことであり、口封じのための暗殺が行われても不思議ではない。
フローラはその危険を感じ取り、急いでパイロット連盟を通して対策を講じたのだった。
「独立パイロットが帝国貴族を捕縛するなんて、いくら正当な理由があったとしても大問題ですわ。ましてや、彼が男爵だったからなおさらのこと」
「でも、あの男爵は悪事を働いていたじゃない! そんな人間を野放しにしておくわけにはいかなかったはずよ!」
「そうかもしれないけど、帝国の貴族制度はそんなに単純じゃありませんわ。どんなに悪事を働いていても、貴族は特権階級。彼らを私人が捕まえれば、それだけで大きな波紋を呼ぶことになりますわ。
だから、私が急いでパイロット連盟を通じて手を打たなければなりませんでしたのよ。全く、仕事を増やしてくれて……」
キャロルは一瞬黙り込んだが、やがて理解したように小さく頷いた。
カイはそんな二人のやり取りをぼんやりと聞きながら、疲れ果てた体をさらにシートに沈めていた。
その時、カイの端末が静かな音を立て通信が入ったことを知らせる。
疲れで朦朧とした意識の中、カイはぼんやりと端末に手を伸ばし、内容を確認した。しかし、画面を読み進めるにつれ、その瞳は驚きで大きく見開かれ、カイは勢いよくシートから飛び起きた。
「ど、どうしたの? ご主人様」
キャロルが驚きの声をあげ、フローラも眉をひそめてカイをじっと見つめた。
カイは言葉に詰まりながらも、喜びに満ちた声を振り絞った。
「侯爵との謁見が決まった……ルートヴィヒ・フォン・ヴァルデック侯爵との面会が!」
その瞬間、キャロルとフローラは驚きに目を見開き、互いに顔を見合わせた。
この謁見こそ、カイがこの事件の報酬として最も狙っていたものだった。帝国の高位貴族と直接話す機会は、独立パイロットにとって極めて貴重なチャンスであり、その意味は計り知れない。
カイが長らく待ち望んでいた、絶好の瞬間が訪れたのだ。
「まずは、おめでとうございます、カイ様」
フローラは感心したように呟き、その声には驚きと尊敬が込められていた。
キャロルも抑えきれない興奮を隠さず、声を上げた。
「わぁ! これで本格的に情報収集が出来そうだね、ご主人様!」
カイは二人の反応に少し微笑みつつも、胸の中では感情が渦巻いていた。
これまでの苦労が、ついに報われる時が来た。
カイは自分の端末を見つめ、心の中で大きな歓喜を覚えた。当初の狙いは、もう少し低位の貴族に繋がることだったが、思わぬところで大物のルートヴィヒ・フォン・ヴァルデック侯爵との謁見が叶ったのだ。
そもそも、カイがこの帝国に来た大きな理由は、奪われたエクリプス・オパールを取り戻すためだった。
オパールを奪った犯人が貴族と関わりを持つ者であるため、貴族の情報網を使って調査を進めることが、カイの目指していたところだ。
今回の謁見で、その目的に大きく近づくことができる。
カイは自分の功績を侯爵にうまく伝え、情報網の利用を許してもらえれば、調査は格段に進むだろうと考えた。
そして、エクリプス・オパールを取り戻すための道筋が見えてくるはずだ。
カイは改めて気合を入れ、フローラとキャロルに向き直った。
「侯爵との謁見が決まった。これでエクリプス・オパールの調査も大きく前進する。俺たちの功績をしっかり伝えて、見返りとして侯爵の伝手を使わせてもらうように交渉する」
フローラは優雅に微笑んで頷いた。
「星系統治者ともなれば、そのネットワークはさぞや広大でしょうね。あとは交渉の場を制する事が出来れば、大きく進展出来ますわ」
片やキャロルは興奮気味にカイの言葉を聞き、目を輝かせた。
「よかったね、ご主人様!」
カイは二人の反応に頷き、再び心を引き締めた。
これまでの苦労が報われる時が来た。彼は万全の準備を整え、ヴァルデック侯爵との謁見に備えることにした。
◇◇◇
「それでは、こちらで少々お待ちください」
カイたちは使用人に案内され、格式ある面会室に通された。
部屋に足を踏み入れた瞬間、見事な調度品が目に飛び込み、カイは思わず息を呑んだ。
豪華な絨毯が床一面に広がり、重厚な家具や歴史的な絵画が壁に整然と並んでいる。この部屋が、ヴァルデック侯爵の威厳をそのまま映し出していることは明らかだった。
カイは自然と肩に力が入る。
しかし、いつもとは違う服装だから、妙に窮屈な感じがした。そんな様子を見たフローラが、クスッと微笑み、カイに近づいて声をかける。
「カイ様ったら、そのスーツ、完全に服に着られているように見えますわね。フフ、お似合いですわよ」
「えー? ちゃんと似合っててカッコイイと思うわ! ご主人様」
そんな二人の言葉に、カイは恥ずかしそうに肩をすくめた。
急いで準備したフォーマルスーツが、普段の活動服とは大きく違っていて、どうにも居心地が悪い。
その一方、フローラは白のドレスを優雅にまとい、キャロルも紫のドレスで身を包んで着こなしている。
二人は堂々とした姿で、貴族の邸宅に違和感なく溶け込んでいたが、カイは慣れない服装に少し戸惑っていた。
「まあ、急いで準備したんだから、こんなもんだって。とにかく、失礼がないように振る舞うことだけ考えるよ」
フローラは穏やかに微笑みながらも、カイの緊張を感じ取っていた。
「大丈夫ですわ。きっとうまくいきますわ」
そんなやり取りが終わると、しばらく静かに待つ時間が続いた。
カイたちは、今回の面会がどれほど重要かを心の中で再確認していた。
というのも、今回カイたちを呼び寄せたのは、他でもないヴァルデック侯爵自身だ。エクリプス・オパールの件で、貴族層の協力を必要としていたカイにとって、この面会は大きな一歩となる。
しばらくして、廊下から足音が響き始めた。
カイは反射的に姿勢を正し、気持ちを整えた。フローラもキャロルも、扉に視線を向けながら緊張感を感じ取っている。
重々しい扉がゆっくりと開き、煌びやかな衣装をまとった初老の男が姿を現した。
彼は見事なカイゼル髭を蓄え、厳格な表情を浮かべながらも、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。その男はゆっくりとカイたちを見回し、静かに口を開いた。
「私がルートヴィヒ・フォン・ヴァルデックである。このヴァルデック侯爵星系の統治者だ。君たちをここに招いたのは他でもない。さあ、話を始めようではないか」