8-34 -epilogue-
天蓋付きのベッドに、磨き上げられた寄木細工の家具。
壁には、古の帝国時代の名工が描いた油彩画が掛けられている。
豪奢を極めた室内に、ただ一人、少女がいた。
腰まで伸びた黄金の髪が、わずかな空調の揺らぎにそよぐ。
まだあどけなさを残しつつも、均整の取れた面差しは、まるで天上から降ろされた彫像のように儚く完璧だった。
少女は表情を変える。
微笑。怒り。悲しみ。戸惑い。
一つずつ、仮面を被るように感情を試し、そしてすぐにそれを取り払う。
やがてすべての確認を終えると、少女の顔には再び、無表情の仮面だけが残った。
そのとき、控えめなノック音が室内に響いた。
少女は振り返らないまま、短く告げた。
「どうぞ入って」
扉が静かに開き、古びたスーツを着た男が現れる。
ブルーノ・ラング。
元特別情報局の影にして、ノイシュテルン星域を揺るがせた張本人だった。
その後ろには、一体の自律人形が控えており、無音でラングの背後に従っている。
ラングは少女の前で片膝をつき、深々と頭を垂れる。
「……アデーレ様。計画は……失敗致しました」
その呼び名だけが、この少女の正体をはっきりと示していた。
アデーレ・フォン・リヒテンベルク――リヒテンベルク選帝侯の末娘にして、帝国の名門貴族の血を引く存在。
「クルト伯爵の元でのセイレーン製造、および権力者たちへの普及までは、順調に進んでおりました。しかし……カイ・アサミなる男に介入され、ドッペルゲンガー計画は露見。挙げ句、皇帝の耳にまで届く始末……」
ラングの額には脂汗が滲んでいる。
低く、震える声で続けた。
「……せっかく、貴女様に助力を賜ったというのに、この体たらく。申し開きのしようもございません……」
だが、アデーレは何も言わなかった。
ただ鏡越しに、無表情のままラングを見下ろしているだけだった。
アデーレはしばし、鏡越しに無表情の自分を見つめ続けた。
だが――次の瞬間、ふっと空気が変わる。
まるで氷が溶けるように、柔らかな笑みが形作られた。
それは見る者を魅了せずにはいられない、美しく均整の取れた微笑だった。
ラングはその変化に気づき、思わず小さく感嘆の息を漏らした。
相変わらず……いや、むしろ以前にも増して恐ろしいほど美しい。
――この方のためならば、どんな困難も、どんな泥濘も踏み越えてみせる。
そんな熱情が、胸の奥から湧き上がるのをラングは確かに感じていた。
そうして、ゆっくりとアデーレが振り返る。
「顔を上げてください」
静かに、優しく告げられた言葉に従い、ラングは慎重に顔を上げた。
目の前には、柔らかく微笑む少女の姿があった。
だが、その瞳の奥に宿る光は、誰にも真似のできない冷徹さを秘めていた。
アデーレは、緩やかに言葉を紡ぐ。
「……今回の失敗は、確かに残念でした」
あくまでも穏やかに。
だが、その声には一片の甘さもなかった。
「せっかく、諸条件を満たすクルト伯爵を上手く手駒にできたというのに。結果に結びつかなかったのは、少し悔しい思いです」
ラングは膝をついたまま、神妙に頷く。
「でも――すべてが失われたわけではないでしょう?」
彼女の言葉に、ラングは即座に応じた。
「はい。エクリプス・オパールは破壊されましたが、第二世代型バイオロイドの量産技術はウィン・アサミの情報をもとに完成をみています。製造方法についても、私の手中にあります」
「それなら、また都合の良い駒を探して、やり直せばいいだけのこと」
アデーレは、何でもないことのように言った。
「もちろん、第二世代にはまだ不安定さが残る。調整は必要になるでしょうけれど――」
指先で金色の髪を一房、くるくると弄びながらアデーレは小さく目を細めた。
「それに、今回の一件で思わぬ“収穫”もありましたね」
ラングが眉をひそめる。
「――カイ・アサミ。彼を見つけたこと、それが何よりも大きいと思いませんか」
アデーレは鏡越しに、未だ膝をついたままのラングへと声をかけた。
「――例の物は?」
その問いに、ラングは無言で頷く。
背後に控えていたドロイドに視線を向けると、静かに一歩前へ進み出る。
その腕に抱えられていたのは、気密処理が施された小型の保存容器だった。
アデーレは、まるで聖遺物でも扱うかのような動作で両手を伸ばし、静かにそれを受け取った。
容器の蓋に触れると、一度だけ小さく息を吸い、慎重にロックを解除する。
中には、人間の右腕がひとつ。
切断面には滅菌と保存処理が施され、赤黒い縁が鈍く光を反射している。
細身ながら鍛えられた筋肉の線が美しく、関節や指先の一つひとつに、確かに「彼」の生が宿っていた痕跡が残っていた。
それは、紛れもなく――カイ・アサミの右腕だった。
アデーレは両手でそれをそっと持ち上げ、うっとりとした表情でその肌へと頬を寄せた。
「ああ……これが、カイ様の手……」
囁くような吐息が、指先に触れる。
その声には、陶酔にも似た熱がこもっていた。
彼女は頬擦りを繰り返しながら、やがてその指を一本一本、愛おしげになぞる。
そして、唇を寄せ、まるで記憶を吸い上げるかのように、舌でそっと関節をなめる。
その仕草は愛撫を超え、もはや崇拝に近い。
アデーレの白い頬が赤く染まり、目元には濡れたような光が滲んでいた。
その美貌に浮かぶ恍惚は、天使の微笑みにも、悪魔の悦びにも見えた。
「ふふ……ハアァァー……んっ……」
ラングはその様子に視線を逸らしきれず、しかし同時に、胸の奥に燃え上がるような嫉妬心を押し殺していた。
(……この方が微笑む相手が、なぜ私ではなく、あの男なのか)
唇を噛みしめながらも、ラングは報告を続ける。
「カイ・アサミの件ですが……リモート義体を通しての接触中、彼の生体反応、脳波、行動パターンを可能な限り観測いたしました。その結果、判明したのです。彼は……長らく理論上のみで存在が示唆されていた、特殊なESP能力者である可能性が高いと」
アデーレが興味深そうに目を細め、手の動きを止める。
「ああ、やっぱり……」
その囁きには、確信を得た者だけが持つ微かな歓喜が滲んでいた。
そして――彼女は再び腕を抱きしめる。
今度は、胸元にぎゅっと押しつけるようにして。
まるで大切な恋人を抱きしめるかのように、唇を腕の甲に落とす。
その瞳は潤み、呼吸が浅くなる。
「はい。極めて稀な――確率操作型の能力者。言い換えれば、運に恵まれるという異能。理論的には存在してもおかしくないとされてきましたが、今まで一度も実在が確認されたことはありませんでした。それが……」
「……実際に存在していた」
「ええ。彼の介入によって、我々の計画は崩壊しました。それも、彼にとって都合の良い形で、です。全てが――あまりにも、出来すぎている」
アデーレの瞳が、さらに深い光を宿す。
「つまり……彼の望みが叶う形で世界が動いた、と?」
「その通りです。しかもその能力は能動的にではなく、無意識下で常に発動している。所謂、パッシブ型に該当するかと」
アデーレは微笑んだ。
温もりすら感じるその“かけら”を胸に当て、陶酔していた。
「ふふ……それなら納得がいきます。あの時、会った瞬間から感じていた。あの方の周囲には、世界が引き寄せられていましたもの」
そしてアデーレは静かに立ち上がり、柔らかな口調で続けた。
「私もまた、似たような力を持っているからこそ分かります。けど――あの方は、特別」
アデーレは、初めてカイを見た瞬間に気づいていた。
――この人は、私と同じ“異能”の側にいる。
アデーレ自身もまた、パッシブ型のESP能力者だった。
幼い頃から、異常なほど周囲に愛されることに気づいていた。
最初は家族だけと思っていたが、やがてそれは使用人にも、教師にも、果ては見知らぬ者にまで及んだ。
欲しいと言えば、誰もが全力でそれを与えようとする。
どんな命令も、願望も、周囲は自発的に叶えたいと願い、行動する。
それは偶然ではない。
確かに、彼女の異能が原因だった。
支配ではなく、崇拝。命令ではなく、奉仕。
その力を自覚したアデーレは、自分を取り巻く全てを試した。
父を、母を、兄姉を――そして、家そのものを。
結果は完璧だった。
リヒテンベルク家は今、彼女の理想に従って静かに勢力を拡大しつつある。
だが、そこに現れた例外が――カイだ。
彼の周囲だけ、法則がねじれる。
世界が彼の望む形で動いてしまう。
アデーレは、それを理解していた。
だからこそ、彼を強く欲した。
世界を動かす“異能の王”と、自分の“支配の女王”が並び立つことで、理想は完成するのだから。
彼女が見据える理想――それは、支配者となることだ。
だが、皇帝の座などには興味はない。
あれは制度に縛られた象徴。自由も快楽もなく、ただ帝国の機構に奉仕するだけの存在に過ぎない。
彼女が望むのは、もっと軽やかで、もっと都合のいい支配だ。
自らの欲するままに世界が動き、人々が笑顔で従い、すべてが幸福の名の下に手に入る――そんな甘美な楽園。
その構想を実現するために、アデーレは幾つもの“駒”が必要となることを認識していた。
その駒の一つが、目の前にいるブルーノ・ラング。
彼を初めて見たとき、アデーレはまだ幼かった。
だが、その瞳の奥に潜む野心、愚かさ、そして何よりも扱いやすい忠誠心を一瞬で見抜いた。
梯子を外され、失脚の淵に立たされた彼を、アデーレは密かに父へ命じて保護させた。
彼女は直感していた。
この男は使える――どこまでも、自分のために動くだろうと。
そう判断した時点で、すべては始まっていた。
長い時間をかけて、ラングの心を染め上げていったのだ。
魅了の力を操り、忠誠を深く刻みつけたその結果が――ドッペルゲンガー計画だった。
だが計画は失敗に終わった。
駒の一つであるクルト伯爵も失ってしまった。たが、それは数ある駒の一つに過ぎない。
そして、代わりに得たものは大きい。
(それが、彼――カイ・アサミ)
アデーレの胸が疼く。
自身と同じ“世界を歪める”力を持ち、しかも異性としての魅力を備えた存在。
あの日、舞踏会で出会った瞬間に理解した。
この男は、自分の“理想”に不可欠だと。
(私の“支配”と、あの人の“運”が重なれば、帝国――いいえ、銀河の完全な支配など容易い)
あの時、すぐにでも手を伸ばせばよかった。
だが――そこには邪魔な存在がいた。
彼の傍には常に、二体のバイオロイドがいたのだ。
あの、忌々しい存在たち――フローラとキャロル。
人間とは異なる脳構造を持ち、精神感応系への耐性も異常に高い。
アデーレの魅了が届かない存在だ。
彼女たちが傍に居たからこそ、カイに触れる隙がどこにもなかった。
辛うじて彼の精神に種を植え付ける程度が精いっぱいだった。
その現実が、何よりも歯痒かった。
想えば想うほど、焦がれれば焦がれるほど、遠ざかる感覚。
彼のことを思い出すだけで、自然と身体が熱を帯びる。
アデーレはあの日以来、夜ごとカイを想い、自らを慰め続けていた。
そして、これは間違いなく恋なのだと、確信した。
(けれど、やっぱり無理やり魅了するなんて野暮なことをせずに良かった。それじゃダメ……彼自身に私を選んでいただかなければ……)
だからこそ、今は準備の時となる。
もっと強く、美しく、誰もがひれ伏すような存在にならなくてはならない。
そのときが訪れたなら――彼は、紛れもなく自分だけのものとなる。
アデーレは視線を落とした。
胸元に抱かれた、保存処理されたカイ・アサミの右腕。
冷たくなったその指先に、彼の名残を感じ取るように、そっと頬を寄せる。
たったこれだけでも、今の彼女には十分だった。
この腕が彼の一部である限り、彼は決して遠くにはいかない。
――すでに、自分の中にいるのだから。
その時、不意にラングの声が耳に入った。
「……そして次に計画すべきは――」
「ありがとうございます、ラング。でも、もう結構です。今日はお帰りになって」
アデーレは右腕を抱いたまま微笑すら浮かべず、静かな声で告げた。
「し、しかしアデーレ様、次の手筈についてはまだ――」
「ええ、それもいずれ伺いますわ。ただ……今は、静かに過ごしたいのです」
その声音は柔らかいままだったが、明確な拒絶の意志が込められていた。
ラングは言葉を継ごうとしたが、その一歩を踏み出す前に再び制される。
「……ですから、帰ってください。今すぐに」
その一言は、まるで冷気のようにラングの背筋を撫でた。
ラングはぎこちなく動きを止め、口を開きかけては閉じた。
その顔には、どうにかこの場に留まろうという未練と、断ち切られたことへの屈辱が入り混じっている。
だが――それでも彼は、逆らえなかった。
唇を噛み締め、やがて低く頭を垂れるとラングは静かに部屋を後にする。
足音を立てぬように気を配りながらも、その背中はどこか名残惜しそうだった。
彼の背後にいた自律人形も、無言のまま従って扉の方へ向かう。
扉が閉まる音が妙に静かに響き、やがて室内には完全な沈黙が訪れた。
アデーレはひとつ、長い吐息を吐いた。
「……ふぅ。やっと静かになりました」
そう呟くと、アデーレは腕をより深く抱きしめ、頬をすり寄せながら指先を愛おしげに撫でた。
そして、唇をそっと押し当てる。
「さあ、カイ様。今日から、ふたりきりの時間を過ごしましょうね。ふふ……あなたの全てを、私のものにして差し上げますね」
囁きと共に、ドレスの肩紐が滑り落ちていく。
その白い肌を夜気が撫で、アデーレの顔には天使の微笑と悪魔の悦び――両方が重なっていた。
これにて、一旦この物語は終わりとなります。
構想としては第2部、第3部とあるのですが、今の所ちょっと他に書きたい話があるので
一先ず、ここで一旦締めさせて下さい。
更新の際には、再び第9話として再開する予定です。
長らくお付き合い頂き、ありがとうございました。