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8-33

 まぶたの裏に、柔らかな光が差し込んでいた。

 ぼんやりと意識が浮上してくる。  

 寝返りを打とうとした右腕が動かず、カイは違和感に眉を寄せた。


「……ん……」


 喉が焼けるように渇いている。

 声もろくに出ない。

 けれど、そこが生者の世界だということは、肌に触れる布の質感で理解できた。


 重い瞼を開けると、白い天井がゆっくりと視界に広がる。

 

 ――病室だ。

 

 どこか無機質で、それでいて落ち着いた空気の漂う個室。

 淡い陽光がカーテン越しに差し込み、室内をやさしく照らしていた。


「……っ、ご主人様! ご主人様あぁーーよかったあぁーー!」


 突如として、何かがのしかかってくる。

 柔らかくて、温かくて、そしてなぜか痛いほど力強い。


「もうバカッ! ご主人様、無茶しすぎよ! 死にかけてたんだよ!?」


 鼓膜が揺れるほどの声と共に、カイの胸元にしがみついてきたのはキャロルだった。


「ちょ、キャロル……ぐ、ぐるじぃ……!」

「嬉しいのは分かるけど、それ以上はやめておきなさい。カイ様を本当に死なせる気?」


 声を振り絞ると、ようやく彼女が身を引いた。

 だが、目尻には涙が溜まり、普段の調子とは裏腹に、その瞳は確かに不安と安堵が入り混じっていた。


 そして――その左目は、眼帯で覆われていた。


「……きゃ、キャロル……お前、その目は!?」


 と、言いかけたところで、もうひとりの気配に気づいた。


 視線を向けると、そこにはフローラが椅子に腰かけていた。

 彼女の顔にも、言葉にできない安堵が浮かんでいた。

 

 わずかに目元が赤い。涙の痕が残っていた。

 それでも、彼女は微笑んでいた。


「お目覚め……ですね、カイ様」


 ゆっくりと、まるで壊れ物を扱うように立ち上がるフローラ。

 だが彼女の歩き方は、以前とは違っていた。

 重心が偏り、片脚を微妙に引きずっている。


 その理由はすぐに分かった。

 ――右足が、機械製の義足に置き換わっていたのだ。


「……フローラ……」


 呆然と呟いたカイは、ふと自分自身を見下ろす。

 そして気づく。


 ――右手がない。


 肘から先が、綺麗になくなっていた。

 あるはずのものが、存在しない。

 そこには、高密度バイオスキンと再接合パネルが覆っているだけで、かつて存在していたはずの手の痕跡は、何ひとつ残っていなかった。


 激戦の記憶が、鈍い痛みと共に脳裏を駆け巡る。

 フェアニヒターとの死闘。

 フローラの叫び声。

 ラングの最後――。


 全てが、遠い悪夢のようだった。

 だが、カイは不意に違和感を覚えた。

 ――何かが抜け落ちている。


 記憶が、曇った水面のように揺れる。

 だがその中から、確かに浮かび上がってくるものがあった。


「……最後、俺たちは……」


 カイは思い出す。

 フローラとともに地面に倒れ、視界が薄れていく中で、複数の足音が迫ってきていたことを。

 それは、確かに敵の到来を意味していた。

 自分たちは包囲され、最悪の結末を迎えるはずだったのだ。


「そうだ……あのとき、敵に囲まれて……!」


 カイの声に、キャロルとフローラが顔を見合わせる。

 だが、返答するよりも早く、病室のドアが軽快な電子音と共にスライドした。


「おおっと、間が悪かったか?」


 やや低めの声と共に、肩まで垂れた黒髪を無造作に揺らす男が病室の扉を押し開けた。

 口元には無精ひげ、鋭い目つきと軽薄な笑み。初めて出会ったときと変わらぬ風貌だった。

 ――ヴィンセント・ヴィッセル。

 

 そのすぐ後ろから、ひっそりとした足取りで、少女のような小柄な影が続いた。

 淡い緑色のショートボブに、精巧な人形を思わせる整った顔立ち。

 クラリス――ヴィンセントの相棒にして、フローラたちと同じく第3世代型バイオロイドだ。


「……お、元気そうじゃないか。随分と長く寝てたから、ちょっとばかり心配したんだぜ?」

「目が覚めたんですね……カイ様。よかったです……」


 そして、その二人に続いて、更にもう一人の男が入って来る。


「カイさん! 目が覚めたんですね! いやーお見舞いに来たタイミングで目覚めてくれるなんて、運が良い」


 ラッキー・ストライカーズ団長、リカルド・フォルチュン。

 あの苛烈な戦場で、互いの背中を預け合った、傭兵団のリーダーだ。


「みんな! 無事だったんだな!」


 カイは思わず身を起こそうとするが、フローラが静かに肩に手を添えた。


「動かないでください。まだ安静が必要ですわ」

「そうだ、焦るなって。まだ半月しか経ってないんだしな」


 ヴィンセントの何気ない一言に、カイの目が見開かれる。


「――は、半月!?」


 思わず声が裏返る。

 倒れてから、どれだけの時間が過ぎ、何が起こったのか――カイはまだ何も知らない。

 けれど、その答えは、目の前にいる仲間たちから語られようとしていた。




 ◇◇◇

 

 

 

 氷塊帯に無数に浮かぶ大小の氷塊――。

 その狭間を、巨躯を誇るデスアダー級航宙艦≪リベリオン≫が、まるで軽業師のように滑り抜けていく。


「よし間隙、クリア……! 行けるぞ、クリス!」

「撃ちます!」


 ヴィンセントの声と同時に、クラリスの指が火器管制盤を叩く。

 リベリオンの艦首主砲が細かく照準補正され、瞬間、白光のビームが隙間を正確に貫いた。


 一直線に放たれた光束が、敵駆逐艦のシールドを穿ち、装甲を焦がす。

 砕け散った破片が、無数の氷塊に反射しながら雪煙のように舞い上がった。


「撃破確認。残りは……あと二隻だな」

「はい、現在最後尾で逃走を試みている艦艇を追撃中です。ラッキー・ストライカーズ所属艦が追撃に回っています」


 クラリスは冷静に振る舞っていたが、手元の火器制御端末を握る指先には、微かな緊張が滲んでいた。

 ――無理もない。


 今、彼らが相手にしているのは、要塞≪ヴェクターの瞳≫の駐留艦隊――その残存部隊だ。

 旗艦はすでに撃破され、残るは駆逐艦三隻のみ。

 だが、たったそれだけでも脅威には変わりなかった。


 航宙艦とは比較にならない。

 敵駐留艦隊の駆逐艦は、一隻ごとに大型航宙艦十隻分に匹敵する火力と装甲を備えている。

 圧倒的な戦力差――それを覆しているのは、ヴィンセントの技量、そしてリア・スターレイが派遣したデスアダー級大型航宙艦十隻による援護があってこそだった。


 ギリギリのバランスで、戦線はかろうじて保たれている。


『ヴィンセントさん、こっちは問題ありません。このまま追撃を続けますよ!』


 通信に割り込んできたのは、ラッキー・ストライカーズの団長、リカルド・フォルチュンだった。

 落ち着いた声には、幾分か余裕が混じっている。


『さすがに、スターライト・ヴォヤージュから発艦してきた援軍は伊達じゃないですね。もう完全に押し込んでますよ』


 ヴィンセントは小さく笑った。


「だからと言って油断するなよ。最後に暴れられたら面倒だ」

『はは、分かってますよ。ここまで来て成功報酬を貰い損ねるような真似はしませんよ。ヴィンセントさんこそ、落ちないで下さいよ?』


 リカルドが茶化すように返す。

 だが、その余裕も――次の瞬間、氷のように凍りついた。

 主星に展開していた味方艦からの通信だ。


「ッ!? ヴィンス、主星軌道上にジャンプアウト反応です!」


 クラリスの声に、ヴィンセントは即座に顔を上げた。


「――SWSIはどうした?」

「……正常に稼働しているようです。なら、どうして……外部からのジャンプアウトは原理的に不可能なはずなのに……!」


 クラリスの報告は信じられないものだった。

 外部からのジャンプを防ぐため、特別に用意したジャンプ妨害フィールド――Stellar Witch-Space Inhibitor。

 それを掻い潜って、何者かが現れたというのか。


「正体は?」

「艦影解析中……識別コード有り。――ノイシュテルン星域所属、選帝侯リヒテンベルク家所属艦です!」


 ブリッジに一瞬、重い沈黙が落ちた。

 続いて、リカルドが呻く。


『よりにもよって……選帝侯の艦隊だって!?』


 ヴィンセントも眉間に皺を寄せた。  

 リヒテンベルク選帝侯――この星域を統べる、皇帝に次ぐ権威を持つ者たちだ。


(まずい、スターライト・ヴォヤージュの存在が知られたら……!)


 ヴィンセントは即座に決断した。


「クリス、至急スターライト・ヴォヤージュに通達。即時、撤退だ!」

「了解!」


 クラリスの指先が、通信コンソールを素早く叩く。

 開かれたチャンネルの向こうで、かすかなノイズを挟んでリア・スターレイの声が返ってきた。


『はい、状況は把握しています! こちらでも新たな艦影の出現を確認しました――ですが、今の所は問題ありません』


 リアは静かに言った。

 スターライト・ヴォヤージュが展開していた電子・光学ジャミングが功を奏し、未だ補足はされていないらしい。


『ただ……このままでは、いずれ見つかっちゃいます。なので、私たちの支援はここまでです……。すでにそちらへ派遣していた艦艇は星系外へジャンプするよう指示を出しています。残る私たちも、すぐにこの宙域を離脱します』


 その声音には、迷いはなかった。

 だが最後に、一瞬だけ溜めるように、リアは続けた。


『……カイさんに、別れを告げられないことだけが心残りですが。ヴィンセントさん、クラリスさん――必ず、また会いましょうね』


 淡い通信の揺らぎと共に、チャンネルは閉じられた。

 ヴィンセントは短く息を吐き、椅子にもたれかかる。


「……さて、俺たちはどうする?」

「退避しかありません。……残っても勝ち目はない」


 クラリスがコンソールを睨みながら告げた。

 そこへ、すぐにリカルドから通信が続いた。


『こちらも撤退準備に入ります。……ヴィンセントさん、あなたはどうするんですか?』


 通信越しに聞こえるリカルドの声は、どこか渋かった。

 だが、ヴィンセントの答えは迷いがなかった。


「カイを拾ってから逃げるさ」

『……やっぱり、そうですよね』


 通信の向こうでリカルドが苦笑する気配が伝わる。


『けれど、今から首都星へ降下するってのは、幾らなんでも無茶ですよ』


 リカルドの懸念に、ヴィンセントは即答する。


「だが、ここで誰かが迎えに行ってやらないとダメだろう。幸いにもリベリオンは弾薬補給と簡易修理を済ませた後だ、やれないことはないさ」


 そのやりとりの最中――

 クラリスがコンソールを睨み、緊急通知を上げた。


「……味方艦から中継通信です。主星宙域から!」


 報告と同時に、通信チャネルが強制開放される。

 

『こちら、ヴィッテルスバッハ選帝侯家臨時艦隊。司令ヴァルデック侯爵である。そちらの所属艦に告ぐ――安心して欲しい、我らは貴様らの救援に来た』


 艦橋に、妙な沈黙が落ちた。


「救援、だと……?」


 ヴィンセントは眉をひそめる。

 敵とばかり思っていた貴族艦が、救援を名乗る――一体どういうことだ。


 さらに追い打ちをかけるように、クラリスが報告を重ねた。


「主星宙域に、さらに艦艇がジャンプアウト! 複数です!」


 索敵データのモニターが、次々と新たな艦影を描き出していく。

 その数は十や二十などではない。桁が違う。

 

 ――もう、逃げ切れる状況ではない。


 ヴィンセントは小さく息を吐き、無線でリカルドに呼びかけた。


「……状況が変わった。もう腹を括るしかないな」

『そう、みたいですね……。こりゃ、最後の最後に運を掴み損ねたかな』


 静かに、リベリオンは出力を絞りながら進路を変えた。

 ――主星に現れた、謎の艦隊との交信のために。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 時間は再び、カイのいる病室へと戻る。


 いまだ重く鈍い身体を引きずるように、カイは断片的な記憶を繋ぎ合わせる。

 ヴィンセントたちから聞かされた現在の状況が、静かに胸に沈み込んでいった。


 ――ここは、ノイシュテルン星域の中枢。

 リヒテンベルク選帝侯家の治める星域本星、シュテルンハウプト。


 シューマリオンの一件を受け、リヒテンベルク選帝侯自らが星域統合艦隊を率いてきた。

 さらに、遠方からはヴィッテルスバッハ選帝侯が臨時艦隊を派遣していた。

 その艦隊を指揮していたのは――カイが手紙を送ったヴァルデック侯爵だった。


 彼らの到着により、シューマッハー伯爵星系は完全に掌握された。

 ヴェヒターの瞳、駐留艦隊の残存戦力、そして首都星シューマリオンまでも――全てが制圧下に置かれた。


 カイは胸の奥に、鈍い安堵を覚えた。

 どれだけ傷つき、どれだけ倒れようと、戦いは意味を成していた。


 だが同時に、思い出す名があった。

 ――クルト伯爵だ。


 事件の一角を担った彼は、ヴェヒターシルトの戦闘で重傷を負い、昏睡に陥っていた。

 目覚めたときには、すべてが露呈していた。


 今、クルト伯爵は捕らえられ、素直に罪を認めているという。

 その供述により、取り調べは順調に進んでいるらしかった。


「……あの伯爵が、素直に……」

「ああ。指名手配犯であるラングを匿っていた件や、ニューロイドであるセイレーンの違法輸出なんか、すべてを洗いざらい話しているみたいだな。奴の家臣たち曰く、憑き物が落ちたみたいだと専らの噂みたいだ」


 カイは静かに目を伏せた。

 想像とは違う結末に、かすかな胸の疼きを覚えながら。

 あの伯爵のことだ、きっとそう簡単に口を割るような真似はなしないとカイは考えていた。


 だが、事態はそれだけでは終わらなかった。

 首謀者のうち、二名に大きな問題が残されていた。


 一人は――ウィン・アサミ。

 元連邦軍の高級士官にして、天才技術者。


 だが彼は、脳転写の途中で強制中断され、脳に不可逆的な損傷を負っていた。

 蘇生も復元も叶わない。

 知識も、記憶も取り戻す術は失われた。

 彼が持つ高度なバイオロイド関連技術について、帝国軍部が欲したようだったが、それは無意味に終わった。


 そして、もう一人。

 ブルーノ・ラング。


 カイたちが戦ったあの場所には、両断されたリモート義体だけが残されていた。

 駆け付けた部隊は、すぐに包囲と捜索を行ったものの、当人を発見することは叶わなかった。


 彼が画策した計画は完全に瓦解され、陰謀は打ち砕かれた。


 だが、それでもなお――

 黒幕の手は、まだどこかに潜んでいる。


 その事実だけが、冷たい鉛のようにカイの胸を押し潰していた。

 

「結局、主要人物の中で捕まったのはクルト伯爵だけか……」

「はい。彼以外は、一人は死亡。もう一人の首謀者たるラングは、未だに行方不明です」


 続けてキャロルが、少し顔をしかめながら付け加える。


「でもさ、クルト伯爵への処罰は、ついさっき下ったってさ」


 カイは目を細め、耳を傾ける。


 クルト伯爵は今回の一連の事件において、指名手配犯であったラングを匿い、さらには私的な目的でバイオロイドを製造し、それを非正規ルートで流通させていた罪を認めていた。

 加えて、リヒテンベルク選帝侯の末娘アデーレの遺伝情報を不正に入手していた件も、事実として認めたという。


 ただし――

 彼自身はラングの進めていたドッペルゲンガー計画については一切知らされていなかった。

 彼は単なる私的な欲望のために利用されていたに過ぎなかったことが、事情聴取で明らかになっていた。


「……罪は重いが、計画には関与していなかったってわけか」


 カイがそう結論づけると、フローラが静かに頷く。


 このクルト伯爵の行いに対し、リヒテンベルク選帝侯が下した処分は厳しいものだった。

 一つ、伯爵位の一時凍結――実質的には剥奪に近い。

 二つ、一部領地の返還。加えて、財産の没収。

 三つ、残る領地も、選帝侯家から派遣された監察官の監督下に置かれ、自由な運営は許されなくなった。

 そして最後に、星域評議会への無期限の出席停止処分――これは貴族社会において致命的となる処分だ。


 クルト伯爵家は、これにより名目こそ保持されるものの、貴族社会での地位は著しく低下――否、没落が確定することとなった。


「……妥当、か?」


 カイは小さく呟いた。


 だが、事態はそれだけに留まらなかった。

 今回の件で、隣星域のヴィッテルスバッハ選帝侯家にもドッペルゲンガー計画の存在が知れ渡った。

 ヴァルデック侯爵が事の顛末を報告し、最終的には皇帝の耳にも届く事態となった。


 帝国は、かつて特別情報局が極秘裏に進めていた闇の研究――連邦製バイオロイドの開発と、脳転写実験を「暴走」として認定した。

 これにより全帝国を挙げて、特別情報局の残滓を徹底的に捜索・回収する方針を打ち出したのだ。


 その過程で、一般には知られていなかった次世代型バイオロイド――

 つまり第2世代型、そして第3世代型の存在も明るみに出た。


 新型バイオロイドの性能は、軍部に大きな衝撃を与えた。

 だが、肝心の製造施設はカイたちによって破壊され、製造方法の詳細を知るウィンは死亡。残るラングも行方不明。


 さらに、製造に不可欠なコア素材――エクリプス・オパールも完全に破壊されていた。


「ご主人様がエクリプス・オパールを壊しちゃったからね。驚異的な技術でも、当事者の一人は死亡。さらに、コアとなる素材も入手不可能に近いとあって、クルト伯爵の罪はある一定に留まったって感じ」

「だから、か……」


 カイは苦笑しながら、脱力するように天井を仰いだ。


 ――存在は明るみに出たが、量産は不可能。

 結果として、次世代型バイオロイドは再び、深い闇の中へと葬り去られる運命にあった。


 そこでふと、カイは大事なことを思い出して青ざめた。


(そういや……エクリプス・オパール、あれ壊しちゃったんだったなあ……)


 そう――

 エクリプス・オパールは莫大な落札額で競り落とされていたはずだ。

 その額、五百億クレジット。

 

 当初の予定では、その落札額を頼りにヴィンセントや、ラッキー・ストライカーズへの報酬に割り当てる予定だった。


「……そのエクリプス・オパールだけどさ。あれ、成り行きで壊しちゃったけど、その場合ってスター・バザールからの支払いってどうなるかな……?」


 ぎこちなく視線を巡らせると、フローラがすっと口を開いた。


「ふふ、ご安心を。スター・バザールからの支払いは、正式に打ち切りとなりました」

「えっ……」


 思わず変な声が出る。


「エクリプス・オパールは――カイ様自身の手で破壊されたわけですから。バザール側も支払い義務が消失するのは当然のことです」


 フローラは淡々と続けた。


「本来であれば、逆に違約金や賠償金の請求が発生してもおかしくなかったのですが……。今回の件は、スター・バザール側にも強奪という不正行為の責任がありました。そのため、交渉の結果、和解金として一億クレジットで手打ちとなりました」

「……い、一億かぁ」


 カイはその額を聞いて、天を仰いだ。

 たしか、ヴィンセントに提示した報酬額は百億クレジットだったはずだ。

 ――全然、足りない。


 焦るカイの様子を見て、今度はキャロルがにやりと笑いながら言葉を継いだ。


「大丈夫だよ、ご主人様。あたしが言うのもなんだけど……ちゃんと何とかしてくれてる人がいるから」

「……何とか?」


 キャロルは小さく頷き、続ける。


「リヒテンベルク選帝侯は、今回の件をすごく重く受け止めてくれたわ。だから、ヴィンセントとラッキー・ストライカーズへの報酬分については、全額を公金から支払ってくれることになったの」

「え……本当か!?」


 カイは言葉を失った。


「それだけじゃありませんわ」


 フローラも静かに続ける。


「もともと、エクリプス・オパール強奪事件の発端は、クルト伯爵による命令でした。あの事件を許した責任は、この星域の統治者であるリヒテンベルク家――つまり、選帝侯自身にもあると……。そう判断されたのです」

「えーと、つまり……」


 カイは飲み込んだ。

 ――自分たちの行為は、本来なら死罪に値する。


 帝国貴族の治める星系に、正規の許可なく侵入し、封鎖を強行し、防備部隊と交戦した。

 どれを取っても、独立パイロットの分際では許されるはずもない、大罪となる――だが。


「リヒテンベルク選帝侯自らの裁可によって、今回の件は――すべて、不問とされました」


 フローラの声が静かに病室に響いた。

 その瞬間、カイは身体の奥に張り詰めていたものが、音を立ててほどけていくのを感じた。


「……はぁ……」


 自然と、深い息が漏れる。

 同時に、緊張の糸がぷつりと切れた。


 ――助かったのだ。

 自分だけでなく、全員が。


 それを実感する間もなく、隣からぼそりと呟きが落ちた。


「やれやれ、ようやく肩の荷が下りたみたいだな」


 ヴィンセントだった。

 揶揄うような、しかしどこか安堵を滲ませた声だった。


「いやぁ、選帝侯のお陰で命拾いしましたよ。俺たちラッキー・ストライカーズは今回は本気で覚悟してましたからね」


 隣でリカルドも笑う。


「今回の作戦に乗った時点で、俺たち全員、指名手配確実だったわけだからな。それが予想より早期で赦されたのは本当に大きい」

「ええ、俺たちは後ろ暗い傭兵団ですから。まあ、いざとなりゃ地下に潜ってでも生き延びるつもりでしたが。……でも、今回の一件で大手を振って歩ける上、箔も付きましたよ」


 こうして、カイが懸念していた問題は解決した。


 ヴィンセントとラッキー・ストライカーズへの報酬の支払い。

 そして、自分たちに課せられるはずだった罪の赦免。

 カイは改めてヴィンセント、クラリス、リカルドの三人へと向き直った。


「……ありがとう。みんながいなければ、ここまで辿り着くことはできなかった」


 率直な言葉だった。

 それはカイの胸の奥から自然に溢れ出た感謝だった。


 ヴィンセントは、わざとらしく肩をすくめる。


「礼を言われる筋合いじゃないさ。こっちも覚悟の上で手を貸したんだ」

「そうですよ、カイ様。契約と同意の上で、私たちは参加しました」


 クラリスは静かに頷き、リカルドは豪快に笑った。


「ほんと大変でしたよ。だけど、こうして生きてる。無罪放免にもなった。結果オーライですよ!」


 軽口を叩きながら、リカルドはカイに向かって拳を突き出す。

 カイも小さく笑い、左手でその拳に応えた。


「それじゃ、また縁があれば!」

「ああ、ぜひ頼むよ。今度はもっと割のいい話を紹介するからさ」


 そんな冗談を交わしながら、三人は病室を後にした。

 扉が閉まると、わずかに空気が静かになる。


 カイは再び天井を仰ぎ、深く息を吐いた。  

 重しのように胸にのしかかっていたものが、ようやく消えていくのを感じる。

 静かに目を閉じ、言葉にならない安堵を噛みしめた。

 

 ヴィンセントたちが病室を後にすると、室内には再び静かな空気が戻った。

 カイは、しばらくその場に座ったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。

 

 けれど、すぐに視線を横に向ける。

 そこには、フローラとキャロル。

 二人は自分と同じように、傷つきながらもこうして生きている。


 フローラは義足を装着し、キャロルは左目に眼帯を巻いていた。

 そして、カイ自身も右手を失っていた。


 ――それでも、俺たちは助かった。


 その事実が、じわじわと胸に広がっていく。

 誰一人としてこの戦いで欠けることなく、ここにいる。

 その奇跡に、カイはふと小さく笑った。

 

 だが、同時に思い出す。

 この生存が、自分たちだけの力ではなかったことを。


 絶体絶命だったあの時。全てが終わると思ったあの瞬間。

 ――手を伸ばしてくれた存在がいた。


 カイは、自然と口を開いた。


「そうだ……リリーは? 彼女は、どうなったんだ?」


 その問いに、フローラとキャロルが互いに視線を交わし、穏やかに頷いた。

 そして、フローラが小さな声で呼びかける。


「リリー。入ってきて」


 すぐに、病室の扉が音もなく開いた。

 そこに立っていたのは、あの少女――リリー・セラフだった。


 どこか危うげで、それでいて揺るぎない存在感。

 陶磁のように滑らかな肌に、紫紺の瞳が静かに光を宿している。


 フローラとキャロルは、リリーを見ると、どこか複雑な表情を浮かべた。


「カイ様……リリーについて、少しお話ししなければなりません」


 フローラが静かに口を開く。


「彼女は、この世にたった一体しか存在しない、第4世代型バイオロイドです」

「しかも、帝国軍の極秘技術をいくつも組み込まれてるわ……。だから帝国軍に知られたら、色々と大事になったの」


 キャロルが肩をすくめながら言葉を継ぐ。


「だから、リヒテンベルク選帝侯とヴィッテルスバッハ選帝侯の手によって、リリーの存在は隠匿されることになったわ。まあ、これも今回の事件に関して特別な恩賞ってところかしらね」


 カイは小さく息を呑んだ。

 そこまでの措置を取らせる存在――それが、今目の前にいる少女だったのだ。


 カイはベッドに座ったまま、リリーに向き直る。


「……改め、助けてくれて、ありがとう。リリー」


 素直な言葉だった。

 それにリリーは何の感情も浮かべず、ただ一歩だけ近づいた。


 カイはそっと、その瞳を覗き込む。

 紫紺の光は、どこまでも静かだった。


 ――そこに、ウィン・アサミの影はなかった。


 リリーは、カイの視線を受け止めながら、その疑問に応えるかのように淡々と口を開いた。


「私は、ウィン・アサミではありません」


 無表情なまま、だが言葉には揺るぎない確信があった。


「彼の記憶情報の一部は、確かに受け継いでいます。しかし、人格の転写は行われていません。私は、リリー・セラフ――新たに生まれた存在です」


 その宣言に、カイはただ静かに目を閉じた。

 頭では理解していた。

 だが、今、その言葉によって初めて、心の底から叔父の死を実感することができた。


 カイは、静かに悲しみを飲み込むように息を吐く。

 そんなカイを見て、フローラとキャロルが顔を見合わせた。


「カイ様……」


 フローラが、そっと言葉を紡ぐ。


「バイオロイドは、ハンドラー無くしては生きていけません」

「リリーは、すでにご主人様と仮契約を結んでるわ。……もう、他の誰かを新たなハンドラーにすることはできない」


 フローラは、真剣な瞳でカイを見つめた。


「お願いです。カイ様。この新たな妹を……リリーを、受け入れてあげてください」


 カイは、その視線を真正面から受け止めた。

 自分には、荷が重すぎるかもしれない。  

 だが、リリーもまた、この世界にたった一人で生まれ落ちた存在なのだ。


 カイは、ゆっくりと息を吐き、そして頷いた。


「……ああ。分かった。受け入れるよ」


 その瞬間。

 リリーの無表情だった顔が、ほんのわずかに綻んだ。


 微笑んだのだ。


 それは、まるで、ずっと氷の中に閉じ込められていた心が、初めて温もりに触れたかのような表情だった。

 リリーは、静かに歩み寄ると、カイの頬にそっと口づけた。


 そして、囁く。


「……ありがとう、お兄様」


 その声は、どこまでも澄んで優しかった。

 カイは、どこか擽ったいような心地を覚えながら、リリーを見下ろした。


 だが――次の瞬間、異変に気づく。


 リリーは頬にキスを一度だけで終わらせず、何度も、何度も繰り返していた。

 柔らかな唇が、触れるたびに熱を帯びる。


 やがて彼女は、舌先を這わせるようにして、カイの首筋へと移動し始めた。


 ――これは、スキンシップの範囲を超えてる!


 鈍いカイでもさすがに理解できた。

 これは、単なる感謝や親愛の表現ではない。

 ほとんど愛撫に近いものだ。


「ちょ、ま、待って!」


 カイの脳裏に、ある言葉がよぎる。


 ――リリーは、まだ仮契約の状態。


 本来、バイオロイドの契約は仮契約から本契約へと至ることで初めて完成する。

 そして、本契約はハンドラーとバイオロイドの間で()()()を結ぶ儀式を必要とする――。


 そこにカイは気付き、ハッと顔を上げた。

 だが、その時にはすでに遅かった。


 病室の出入り口では、フローラがテキパキと動いていた。  

 嫉妬に顔を歪めたキャロルの首を無理やり抱え込みながら――


「はいはい、カイ様は忙しくなるから、出ますわよキャロル」

「ううぅーー! いいわね、三時間よ! いや、やっぱり一時間! それだけだからね、リリー!」


 そんな台詞と共に、キャロルを抱えたまま病室の外へ消えた。

 だが扉が閉まる直前、フローラはリリーに向かって親指を立て、エールを送っていた。


「――!!」


 カイは、ようやく理解した。


(完全にハメられたッ!!)


 そう叫びたい衝動を必死で押し殺す。

 そして、目の前にいる少女。その表情が、先程までのあどけないものではないことに気づいた。


 紫紺の瞳は爛々と輝き、口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 それは無垢な微笑ではない。

 まるで獲物を捉えた肉食獣のような、獰猛な輝きだった。


「リ、リリー……っ! ちょ、ちょっと待てっ……!」

「優しく……しますね。お兄様」


 カイの悲鳴は、もはや情けないほどだった。

 だが、リリーは一歩も退かない。

 逃げ場も、猶予も、もはやどこにもなかった。


 こうして、カイ・アサミの静かな闘争が――幕を開けた。

これにて長らく続いた8話は終わりとなります。

ここまで読んで頂きありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
人格未継承で良かったな笑 せめて退院してからにしてあげてwww なう(2025/06/28 01:11:01)
やっぱり、スペオペの主人公は片腕損失しなきゃね!(I am your fatherならぬuncle 全てが解決したわけではないけど、エクリプスオパールを巡る冒険は一旦解決して大団円かな 新メンバーも…
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