8-32
排水が進む。
中央に聳えていた培養槽が、まるで巨大な脈動器官のように震え、内部の液体を轟々と吐き出していく。
白濁していた培養液が次第に透明へと転じ、内部の構造体が露わになっていった。
そこに、彼女はいた。
浮かぶように沈んでいた少女――それは、“人形”の枠を超えた存在だった。
肌は陶磁のように滑らかで、瞼は閉じられたまま。
だが、その身体全体から発せられる微細な波動が、空気を震わせていた。
神経伝達用のコードが一本一本切り離され、最後の排液が足元を濡らして流れ出ていく。
その瞬間、ラングの網膜にあり得ない文字列が浮かんだ。
【起動コード:認証完了】
【ユニットNo.01 パーソナリティ・フレーム:展開中】
【意識ブートプロセス:進行率87%……93%……100%】
「――馬鹿な……ッ! 起動認証が行われているだと!?」
ラングの顔から血の気が引いた。
なぜ彼女が起動されようとしているのか、それが全く理解出来なかった。
その場に設置されている全ARログを呼び出し、認証フローを解析する――
いや、それよりも先に、介入元だ――!
「誰だ……誰がこんな……!!」
ラングは慌てて介入元を追跡し、愕然とした。
そこに表示されたID――それは、ウィン・アサミのものだった。
「……何……だと……?」
思わず言葉を失った。
ウィン・アサミ。それは今は亡き、天才技術者の名。
彼自身が、フェアニヒターの基礎システムと第4世代バイオロイドの開発を担当していた張本人――そして、ラングが実験のために脳転写を試みた被験体だ。
ラングは顔をゆっくりと寝台の方へ向けた。
そこには、剃り上げられた頭皮に神経接続用のニューロケーブルを幾重にも絡ませたまま、静かに横たわるウィン・アサミの姿があった。
皮膚は青白く、微動だにしない。
脳転写の途中で強制的に中断された彼の身体は、もはや反応を返すことのない器と化していた。
呼吸だけは、人工呼吸器によって機械的に維持されている。
そのたびに胸郭がわずかに上下し、接続されたケーブルがかすかに揺れた。
――だが、意識が戻ることはない。
それはラング自身が最もよく理解していた。脳転写を行えば元となる脳は死を迎える。
故に動くはずなどない。
「バカな……そんなことが……!」
だが、ログには確かにウィンのIDが表示されていた。
正規のIDによる認証、明らかに内部からのアクセス――偽物ではない。
(では……IDだけが、何らかの手段で盗まれた……?)
ラングの眉が、ひとりでに吊り上がった。
ウィンのIDが外部に持ち出された形跡はない。
――だが。
その瞬間、思考が線を結んだ。
あの侵入者たち。
――そもそも、あの二人はどうやってこの中央区画へ辿り着いた?
製造プラントは完全に封鎖されていたはずだった。
どんなハッキングも受けつけない、ラング自らが構築した“鉄壁”だ。
だが一つだけ入る方法がある。
それは――正規のIDだ。
「まさか……!」
ラングの視線が、ゆっくりと前方に戻る。
傷だらけの身体で膝をつき、なおも立ち上がろうとする青年――カイ・アサミ。
その男は、血の滲んだ唇を引き上げて、無言のまま不敵な笑みを浮かべていた。
言葉はなかった。
だがその笑みが、全てを物語っていた。
「お、お前えぇ……!」
怒りに駆られたラングは、再びフェアニヒターに命令を送ろうと手を上げた。
だがその瞬間、カイが叫ぶ。
「契約だ――リリー・セラフ! 俺がお前のハンドラーだ!!」
その名が空気を切り裂いたかのように響いた。
時間が、わずかに滞ったように感じられた。
まるでその名が、何か遠くに封じられていた“鍵”を解いてしまったかのように。
培養槽の中の少女が、ゆっくりとその瞼を開いた。
瞳は――紫紺。
夜の底に沈んだ宝石のように、微かな光を内に宿しながら、静かに輝いていた。
ラングはその光景に一瞬、声を失った。
だが、すぐに我に返り、顔を歪めて怒鳴りつける。
「いや、まだ仮契約だ! う、撃てッ! 今すぐ奴を消し去れ!!」
ラングが叫ぶと同時に、フェアニヒターの背部砲が唸りを上げて駆動した。
砲身が発光し、膨大なエネルギーが収束する。
そして、放たれた――。
空間が軋むような音を立て、光の奔流がカイとフローラを包み込む。
だが直後、それは唐突に砕けた。
奔流は空中の一点に衝突し、まるで壁に叩きつけられた水流のように四散する。
高密度のエネルギーが弾かれ、拡散し、光の残滓だけを残して消えた。
「な……に……?」
ラングの顔から、血の気が引いた。
それはビームが外れたわけではない。
確かに止められたのだ。
――目に見えぬ、何かによって。
意識のどこかが、その可能性を告げるより早く、ラングは背後にある気配に気づいた。
恐る恐る、振り返る。
そこにいたのは、リリーと呼ばれた少女。
滴る水音とともに、濡れた床の上に立ち尽くし、片手を無言でかざしていた。
「ひ、ひいぃ! そ、そいつを殺せえぇ!」
ラングは半狂乱になって叫んだ。
フェアニヒターの砲身が再び駆動音を立て、リリーを狙ってエネルギーを収束しようとする。
だが突如として――砲身が、ねじれるように歪んだ。
ギチギチと金属の悲鳴が響く。
そして、砲身はまるで捻り潰された空き缶のように、らせん状に圧壊した。
そこに衝撃波が走るわけでもなく、爆発があったわけでもない。
ただ、不可視の力がその構造を根本からねじ伏せたかのように。
ラングは目を見開いた。
だが、その悪夢はまだ終わっていなかった。
今度はフェアニヒターの機体全体が、まるで見えない巨大な力に握り潰されるかのように、軋み音を上げながら動きを止めた。
関節部がぎしぎしと悲鳴を上げ、駆動モーターが回転を強行しようとするたび、内部から鈍い衝突音が響く。
サーボは稼働しようとする。だが、それは叶わなかった。
目には見えぬ力場が、機体を封じ込めていた。
「な、なんだ……動け、撃て!」
ラングの声はもはや哀願に近かった。
その様子を見ていたフローラの表情が変り、息を呑んだ。
彼女は、過去にこの光景を目にしていた――
(あれは……間違いない。ハヤト・ソウマと同じ……いいえ、それ以上のESP能力!)
確信が胸に刻まれたのと同時に、リリーは静かに手を下ろした。
そして、何の予兆もなく、フェアニヒターは床へと叩きつけられた。
機体全体が跳ね返ることもなく、吸い込まれるようにして地面へ沈む。
重い音が響く。
そのまま、信じがたい圧力が加えられた。
床材が鋭く裂け、四肢は関節から不自然な角度に折れ曲がった。
そして、内部の制御核が鈍い圧力に軋みながら崩れていく。
やがて機体は、見えない何かに引きずり込まれるように地面へと沈み込み、最後には深く沈黙した。
ラングはその光景を前に、まるで自分の理想そのものが握り潰されたかのような錯覚に襲われた。
膝が勝手に震え出し、呼吸が浅くなる。
「……バカ、な……!」
掠れた声が漏れる。
――想定していた。ESP能力も、肉体的特性も、強化された演算力も。
だが、これは違う。
これ程の能力を発揮するなど、想定を超えている。
「俺が……設計したはずだ……! こんな……こんな異常な出力があるはずがないんだッ!」
冷や汗が頬を伝い落ちる。
目の前で起こった事象は、誤差の範囲を遥かに超えていた。
逃げねば――そう思った次の瞬間、背筋が凍る。
少女がこちらを見ていた。まるで自分の創造主を見下ろすように。
「くそ……っ、くそぉ……!!」
怒声は、哀れな混乱にしか聞こえなかった。
ラングはその場を振り切るように踵を返し、逃げ出す。
頼みのフェアニヒター二体は撃破されてしまった。
カイとフローラの二人も致命傷を負っているが、第4世代バイオロイド――リリー・セラフがカイの支配下にある以上、もはや勝ち目など無い。
ラングは恐怖に駆られるまま、逃げ出していた。
その背に、誰よりも知っていたはずの被造物の目線が、鋭く突き刺さっていることなど知らずに。
カイはそれを見て、思わず声を張り上げた。
「待て、リリー!」
だが、リリーの手はすでに動いていた。
静かに、空を薙ぐように横一線をなぞる。
同時に、空間が一閃した。
見えざる刃が放たれ、ラングの身体がぴたりと停止する。
そして、音もなく、崩れ落ちた。
上半身と下半身が、明確に切断されていた。
呆気なかった。
あれだけの狂気と執念を見せていた男が、何の叫びも残さず、目の前で確かに死を迎えた。
「くっ! ……遅かったか」
カイは思わず唇を噛んでいた。
内心では、その余りにも簡単すぎる死を受け止められずにいた。
これまで幾重にも策を張り巡らせ、他者を嘲り、そして命さえ弄んできた男が――
たった一閃で、その幕を閉じたのだ。
妙に現実味を帯びて見えない。
まるで、映像をそのまま再生しているだけのように思えた。
「……終わり、ましたわね」
フローラが小さく呟く。
カイは頷こうとして――言葉に詰まった。
何かが胸につかえていた。
確かにラングは倒れた。だが、それは“終わり”を意味するのだろうか。
二人の間に、しばしの沈黙が落ちた。
地下施設の遠くから、かすかに液体の滴る音が響いていた。
無数の命が眠っていた培養槽。そこに閉じ込められていた“声なき叫び”を思えば、この結末が本当に報いになったのか――答えは出なかった。
カイは深く、息を吐いた。
「……でも、今はそれより……」
言い聞かせるように呟くと、彼はゆっくりとリリーへと視線を移した。
悔しさが滲んだが、それでも命を救ってくれたリリーには礼を述べずにはいられなかった。
顔を上げると、リリーがほんの少しだけ小首を傾げてこちらを見ていた。
無表情のままだが、不思議と敵意もない。
カイは軽く頭を振り、気を取り直す。
「……助かった。本当に……えっと」
言葉は途中で途切れた。
だが、リリーは静かにその言葉を受け止めているようだった。
ただ無言で、まっすぐにカイの目を見ていた。
その視線の奥に、叔父の影を探そうとする自分に気づいて――カイは、静かに息を吐いた。
――違う。
たしかに彼女の内部には、ウィンの手による何かが残されているのかもしれない。
だが今、目の前に立っているのは、ウィン・アサミではない。
カイははっきりと理解していた。
ウィンは、あの瞬間に死んだ。
この少女――リリー・セラフは、転写の残滓ではなく、新たに生まれた意志を持つ存在だ。
だからこそ、彼女は彼女として、感謝を伝えるべきだとカイは思った。
「ありがとう、リリー」
リリーはやはり表情を変えなかった。
ただ、ほんの僅かに――彼女の瞳が、柔らかく揺れたように感じた。
応急処置を終えた二人は、リリーと共にラングの倒れた場所へと歩を進める。
せめて、彼が死んだという証拠だけは、記録に残しておかなければならなかった。
しかし、そこで彼らは思わぬ真実に直面することになる。
倒れているラングの胴体――その裂け目から流れ出ていたのは、血ではなかった。
真紅ではない。
濁りのない、冷たい――白。
一瞬、誰も言葉を発せなかった。
まるで時間が凍りついたように、その場の空気だけが異様な静寂に包まれる。
「まさか……」
カイが絞り出すように呟く。
「アンドロイド……ですわね……」
だが、それが現実だと言わんばかりに、両断されたはずの肉体がぴくりと動いた。
機械音が微かに走り、焦げた残骸の中から、笑みがこぼれる。
それは、明らかに自分の死を恐れていない顔だった。
「……襲撃され、ていると分かっテいて……生身のまま、こんな所に来ルと……思っタか……?」
声はくぐもっていた。
だが、その一言には、妙な熱と確信があった。
ラング――否、“それ”は、まだ負けたつもりではなかった。
低く、だが確かに届く声で、吐き捨てるように呟く。
「こ、の借リは……必ズ、返す……」
その言葉を最後に、瞳の光がふっと消える。
白い血が床に広がり、ラングの仮初の身体は完全に機能を停止した。
カイは、その場に膝をつきそうになる身体を必死に堪えた。
ぐらつく視界の中で、拳を床に打ちつける。
「……まだだ……終わってなんか、ない……!」
「カイ様……」
呻くように、だが確かな意志を込めて言葉を吐き出す。
「本物のラングは……まだこの施設のどこかにいる……!」
血に濡れた左手を、壁にかけて身体を支えながら、カイは歯を食いしばった。
このまま倒れれば、きっと奴を取り逃がす。
だが、それは絶対に――させない。
「ここで……逃がすわけには、いかないんだ……!」
全身が悲鳴を上げる中、それでもなお彼は立とうとした。
だが、もう身体は限界だった。
足元から力が抜け、膝が崩れ落ちる。
視界が揺らぎ、世界の輪郭が滲み始めていた。
呼吸は浅く、喉は焼けるように乾いている。
止血を試みた右肩からは、じわじわと赤黒い液が滲み出していた。
「……っ……く……」
カイは歯を食いしばり、最後の一歩を踏み出そうとした。
だが、その足が、まるで地面に縫いとめられたかのように動かない。
意識が遠のく。
音が消えていく。
そんな中で――遠くから、足音が聞こえた。
複数。重い軍靴のような、規則正しい踏み込み。
だが、姿は見えない。
カイは、顔を上げようとした。
けれど、それすらできなかった。
頬に触れたのは、ぬくもり。
誰かが自分を支えてくれている。
だが、目を開けることはできなかった。
(……まさか……キャロルがやられたのか……)
そんな考えが、脳裏にちらついた。
――自分たちは、結局ここまで来て……負けた。
「カイ様ッ、駄目です! お願い……意識を……!」
フローラの叫びが、霞むように耳に届いた。
しかし、その声を最後に――カイの意識は、深い闇の中へと沈んでいった。