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蚕の私

 桑の葉に隠れた蚕のように、私は有象無象に埋もれた女だった。


 暗い影の下でのそのそと動き、時間は自分のために流れていく。


 勉強の得意な子、美形でモテる子、実直でリーダーシップのある子、ユーモアセンスに恵まれて人気を集める子。


 彼らを照らす光は、私にとっては遠すぎて、世界、次元、果ては種族すらも異なるのではないかと思っていた。


 でも、転機は突然訪れた。


 地元の短大に進学したその春のこと。


 手芸サークルで、私は彼と出会った。

 そして見つけた。

 彼も私と出会い、私を見つけた。


 彼は私を覆う桑の葉をかき分け、独りよがりの暗闇から引っ張り出してくれた。


 ようやく私に光の雨が降り注いだ。

 私が見ていた光は、葉の隙間から漏れていた一部の光だけだったのだ。


 陰が無いほどに、彼との世界は光に満ちていた。

 輝きを自然と放つもの。

 輝きを故意に向けるもの。

 眼光という名の、不自然な光まで。

 数多の光にさらされた私は、焼きつくようなまぶしさに狼狽え、やがて光の中が怖くなり、これまで私を覆っていた葉の下に潜り込もうとしていた。


 だけど、彼の言葉が私を光の中に繋ぎ止めてくれた。


「俺は、君だけを愛している」


 彼の囁きは、私の頭の中に赤い糸で固く結び付けられた。

 私を覆っていた葉を全て取っ払い、私は彼と一緒に光の中を歩き続けた。

 そして、純白の繭が私たちを包み込み、二人きりの世界で、どろどろに溶けるほど愛し合った。

 

 幸福とは、光ある場所。

 だが、光あるところに陰は表裏一体として存在している。

 大きな桑の葉が、またしても私を覆い始めた。


 彼は私に暴力を振り始めた。

 一縷のような、ほんの些細なきっかけからだった。


 でもこの始まりが、彼の中で密かに煮やしていた闇を爆発させた。

 

 暴力、酒、ギャンブル、借金、浮気。

 

 彼の闇は底なしに転落し続けた。

 表裏一体のはずだった陰は、いつの間にか表の全てになっていた。


 それでも私は彼を捨てることができなかった。


「俺は、お前だけを愛している」


 荒れ果てた私たちに、手品のようにかけられる彼の囁き。

 たとえ偽りの言葉だとわかっていても、光への愛着は終わらなかった。


 だから、私はとにかく働き続けた。

 彼のために、金を稼ぎ続けた。


 蚕は、繭から生糸を作るために品種改良を重ねた結果、成虫の飛翔能力を失った。


 私は蚕だ。

 桑の葉の下から見つけ出されて、閉ざされた繭の中で交わって、やがて羽化した私は、飛べないまま苦しそうに地を這いつくばっている。


 彼はヒモだ。

 私から紡がれる生糸を頼りに生きる、救いようの無いヒモ。


 そんな私たちに子供が生まれた。

 元気な男の子だった。

 名前は蝶太。

 蝶のように光溢れる空の中で、自由に飛び回ってほしいという私の願いからつけられた。

 

 子供が生まれてから、私の生活は多忙を極めた。

 男二人も世話しなきゃならないからだ。

 

 子供ができれば夫は心変わりしてくれるかもしれない。

 でも、それは淡い期待のまま私の胸に燻るだけで、陰の覆う現実はどこまでも無慈悲だった。


 夫は子供にまで暴力の矛先を向け始めた。

 私はストレスと疲労で限界を迎え、雑務すらろくにこなせなくなり、無用の長物ということで勤め先をクビになった。

 

 蚕だけに解雇、なんちゃって。


 でも、苦笑する余裕すら私になかった。

 お金が無く不健康で、寝たきりの私を見て、彼はただ一言。


 「男に尽くせない女は女じゃ無い」


 彼は残酷な言葉を残して去っていった。


 そうして私は最愛の息子と一緒に暮らし始めた。


 身も心もズタボロの状態だったが、両親や近所の心優しい人たち、社会のセーフティネット、たくさんの人の手を借りながら、蝶太を立派な成人に育て上げることができた。


 成人式で蝶太は涙ぐみながら、育ててくれた全ての人に感謝の言葉を述べていた。

 私の体に刻み込まれた苦労の傷跡が、一つずつ摘み取られていき、人情のぬくもりが、ばぁっと私の中に散らばった。

 息のできないくらい咽せ泣いて、たまらずその場に崩れた。

 蝶太は、桑の葉の下敷きになっていた私を、そっと抱き上げてくれた。



 蚕である私はすっかり飛べない成虫となって、見窄らしくのたうち回っているのだと思った。

 でも違う。

 私はまだ、繭の中にいたんだ。

 羽化は、これからなんだ。



「母さん」

 

 日暮の街道を散歩していると、長期休暇で帰省した蝶太が手を振り声をかけてきた。

 もう片方の手にはキャリーケースが見える。


 私は跳ねるように蝶太に駆けつけて、手を握った。

 私たちは肩を並べて歩き出した。


「ねえ。蝶々と蛾って、交雑できるのかな」

 

 何気なく尋ねた私に、息子は無垢な笑いを上げる。


「はははっ。流石に無理でしょ」


「うん、そうだね」


 私は彼の手をちょっとだけ強く握って歩き続ける。


 軽工業の発展に伴い、品種改良を経て家畜化された蚕は、自然界で生きられなくなった。

 彼らは、人工的に管理された環境の中で、外の世界を知らぬまま、一生を終える。

 蚕の私だって、きっとそうだ。

 でも、そんな身内だけの世界でも、光は一切の陰を駆逐して、私たちに幸福をもたらしてくれる。

 そして、どろどろの繭を破り、立派な翼を広げて、光と幸福に満ちた空へと飛び立つんだ。


 夜に向けて灯り始めた街灯には、早くも数羽の蛾が群がって、踊るように飛んでいた。

 

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