魔術師と食堂の娘
港町の食堂で働くフィーネは、肩まで伸ばした茶色の髪と、ヘイゼルの瞳を持つ平凡な町娘である。
しかし笑顔を絶やさず、楽しく働いているのが一目でわかるような、そんな娘だった。
食堂の常連には「看板娘」などとからかわれたりするが、実際、フィーネ目当ての客は少なくない。
しかしその事実は、食堂の女将さんの鉄壁のガードによって握りつぶされ、本人は全くモテないと思い込んでいた。
まあモテなくとも、そもそも結婚願望が薄いので特に不都合はない。フィーネは毎日の生活に小さな幸せを見いだすような、穏やかな日々を送っていた。
「フィーネちゃん、これテーブル二番ね!」
「はぁい!」
調理場の女将さんに元気よく応じ、フィーネは出来立ての料理が乗った皿を運ぶ。
混みあった店内を、魚のようにすいすいとすり抜けるのも慣れたものだ。
「リンツさん、肉の煮込みとサラダです!」
「ありがとう、フィーネちゃん」
「どういたしまして。……あ、お客さんだ」
馴染みの客に笑顔を返し、顔を上げると、食堂の入口に客とおぼしき二人組が立っていた。
席に案内するためにそちらに向かったフィーネは、彼らの風貌を間近で見て、ヘイゼルの目を瞬かせた。
この辺りでは見かけない、奇妙な格好の二人組だった。
一人は鍔広の帽子をかぶった旅装の男で、不思議な幾何学文様のゆったりした上着を羽織り、節くれだった大きな木製の杖を背負っている。
もう一人は、灰色のマントのフードを目深に被った、見上げるような大男だ。晩夏だというのに、厚手のブーツと手袋を身に付けており、見るからに暑苦しい。
彼らの醸し出す空気は独特で、ひときわ異彩を放っている。
が、ここは港町の食堂だ。外国人や変わった風体の客もそう珍しくない。
風変わりな客の対応にも慣れているフィーネは、にこやかに「いらっしゃいませ、お二人ですか?」と声をかけた。
すると、帽子の男が驚いたように軽く目を瞪った。
「…………おや、お嬢さんにはこれが見えるのですか」
「これ?」
「いえ何でもありません。こちらの話ですよ、美しいお嬢さん」
男はニッコリと笑みを浮かべた。
この町ではまず聞かないようなキザな台詞に、フィーネの頬もつい、ひくりとひきつった。
だが近くで見ると、なかなかどうしてこの男の容貌は整っている。スカしたセリフもサマになるというか、するっと言われても、そういうものだと納得するような外見ではあった。
ただ、整った容姿なのになぜか印象が希薄で、存在感が薄く感じられる。
そして何より、笑顔が非常に胡散臭い。顔の良さとキザなセリフは、胡散臭さを引き立たせているだけのような気がした。
「お食事でしたら、こちらへどうぞ」
フィーネが当たり障りなく近くの席に案内すると、帽子の男はきびきびとした足どりで、フードの大男はのそり、のそりとついてきた。
「はい、メニューです」
「どうも」
二人がスツールに着席したのを見計らって、帽子の男にメニューを差し出す。次いで大男にメニューを渡そうとしたら彼は小さく首を振った。大男は何をするでもなく黙って静かに座っている。
ややあって、帽子の男がメニューから顔を上げた。
「……魚の香草揚げに、スープとパンを」
「二人分ですか?」
「いいえ、一人分で」
帽子の男は、またもニッコリと胡散臭い笑みを浮かべた。大男はうんともすんとも言わず、帽子の男一人だけ食事するらしい。
……怪しい人間とはあまり関わっちゃいけない。フィーネの本能がそう囁いた。
「ご注文ありがとうございます」と軽く会釈して、彼女はそそくさとその場を去った。
その後は次から次へとやってくる客の給仕に追われ、てんてこまいの忙しさだった。
そしてふと気づけば、食事を終えて出ていったのか、あの奇妙な二人組はいなくなっていた。
「お疲れさまでしたー!女将さん、私はこれで上がりますね」
「はいよ。フィーネちゃん、また明日!」
夕方、夜番の給仕係と交代する時間だ。その頃にはすっかりくたくたで、フィーネは奇妙な二人組の事など、きれいさっぱり忘れていた。
「あー……疲れたなぁ。今日もよく働いたわ」
店を出ると、頭上にはオレンジ色の夕焼け空が広がっていた。さぁっと吹く海風が心地よい。
「今日の晩御飯は何だろう」
今日の夕飯担当は母だ。好物の蒸し鶏だったら嬉しいなぁ、と思いながらてくてく家路を辿る。
フィーネの父と兄は船乗りだ。今は貿易船の船員として南方の国に赴いている。
父と兄は家を空ける事が多く、フィーネはお針子として働く母と、ほとんど二人きりで暮らしていた。
港町の家族というものは大体そんな感じで、男が海に出ている間、陸に残った女達が団結し、助け合って家を守る。
食堂の女将さんの夫も船乗りで、似たような境遇のフィーネを快く雇ってくれた。
そんな風に町全体で家族のように助け合って暮らしている。だから母と二人暮らしのような生活でも、フィーネは寂しいとは思わなかった。
だがその日常は、唐突に一変した。
──フィーネが異変に気づいたのは、それからすぐの事。
気がつくと、なぜか周りには誰もいなくなっていた。この時間、普段であれば家路につく人々が行き交う通りに、人っ子一人見当たらないのだ。
おかしい。
何かあり得ないことが起こっている。
耳が痛くなるような静寂のなか、恐怖で立ち尽くしたフィーネの肩を、誰かが後ろからポンと叩いた。
「ひゃっ!?」
「やあ、美しいお嬢さん。またお会いできて光栄です」
飛び上がらんばかりに驚いたフィーネがおそるおそる振り返ると、そこには昼に食堂を訪れた、あの奇妙な二人組が佇んでいた。
「あなたは、昼間の……?」
「あぁ、僕らを覚えていてくれたんですね。嬉しいなァ」
帽子の男は胡散臭い笑みを浮かべ、一歩フィーネに近づいて、機嫌のよい猫のように目を細めた。
「……やはり君は、非常に僕と波長が合うようですね。この亜空間にうっかり入り込んでしまうくらいに」
「あくうかん……どういう意味ですか……?」
「説明するのはやぶさかではありませんが、まずはアレを倒さねばなりません」
フィーネには理解不能な言葉を口にすると、男は笑みを顔に張り付けたまま、背中から杖を抜き取った。そして通りの向こうを目で示す。
つられてそちらを見たフィーネは思わず悲鳴を上げそうになった。
──そこにいたのは、見たこともない異形。
闇がわだかまったような黒い体。
そこから蜘蛛のような長い四本の腕が生え、その先に人のような五本指の手があって、湾曲した刃物のような鉤爪が伸びている。
頭には真っ赤な二本の角が生えており、耳元まで裂けた口には尖った牙がノコギリの歯のように並んでいた。つり上がった目は金色で、額の辺りに人の拳ほどの炎が燃え盛っている。
──どう見てもこの世のものではない。
ギロリ、と異形の金色の目が動いた。
「ひっ!」
フィーネの背中が、冷水を浴びせられたようにひやりとした。
あの化物がこちらを獲物と見なしたのを理解したからだ。いや、強制的に理解させられた、というべきか。
おぞましい化物との遭遇に、フィーネは恐怖で固まっていたが、帽子の男は落ち着いた声で言った。
「大丈夫です、すぐ終わりますから」
彼が低く何かを呟く。
瞬間、沈黙していた灰色のマントの大男が、化物に向かって勢いよく突進した。
その手には、いつの間にか大きな戦斧が握られている。彼は戦斧を上段に振りかぶると、化物に向かって振り下ろした。
だが、化物は素早く後ろに回避し、地面を蹴って大男に反撃する。
振り回された鉤爪を大男がのけぞって躱した。が、尖った爪がフードに僅かに引っ掛かった。
布が引っ張られ、大男の顔が顕わになる。その頭を見てフィーネは息をのんだ。
大男の額には──血のように真っ赤な角が二本。
それが、天に向かって真っ直ぐ生えていた。
男の顔はお面のように平坦で、鼻や口がない。
その代わり目の位置に丸い穴が開いていて、ぼうっと金色に光っていた。
ブン、と唸りを上げて斧が振り回される。
避け損ねた異形の右肩が抉り取られた。腕が一本と肩の肉がごっそり削られ、化物は怒りの咆哮を上げる。
空気がビリビリと震え、フィーネは思わず耳を塞いだ。
カサカサと虫のような動きで大男から距離を取った化物は、「グゥゥ……」と低い唸り声を上げながら、フィーネと帽子の男の方を向いた。
そして間髪置かず、高く跳躍し、こちらに襲いかかってきた。
離れていた距離が一気に詰められる。
乱杭歯の並んだ顎が大きく開くのを見て、フィーネは恐怖で思わず目を瞑った。
だが。
隣の帽子の男が何事か呟いて、杖を化物に向けた。
すると、杖の先から光の矢が生じ、真っ直ぐに化物の胸を貫いた。光は化物を貫通し、黒々とした体に風穴が空く。
そして……どさり、と音を立てて地面に落下した化物は、それきり動かなくなった。
──周囲にざわめきが戻ってくる。
気がつくと、フィーネはいつもの帰り道の雑踏に立っていた。
「……今のは何……?」
白昼夢でも見たのだろうか。
呆然としていると、「ほらね、すぐ終わるって言ったでしょう」と隣から声がした。
声をたどった先にいた帽子の男は、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。その隣には、いつの間に傍に来たのか、フードの大男が静かに立っている。
彼のフードに小さく切れ目が入っているのを見て、さっきのおそろしい出来事は幻覚ではなかったのだ、とフィーネは悟った。
フィーネの視線に気づいた男が、「そう、君が見たのは夢ではありませんよ」となぜか楽しげに口を開いた。
「……というわけで、僕は君に結婚を申し込みたいと思っています。これでも稼ぎはそこそこあって、顔も悪くないでしょう。いかがですか?」
「……は?」
「僕の使い魔が見えて、なおかつ、悪魔を倒すために作り出した亜空間に入ってこれるほど波長が合う女性なんて、二度と見つけられないと思うんですよね」
「………」
「だから僕と結婚しませんか?」
「……………ぜったい、いやぁぁぁぁぁ!!!」
夕暮れの町に、フィーネの絶叫が響き渡った。
◇◇◇
この帽子の男が、"流浪の賢者"と呼ばれる大陸最高峰の魔術師だとフィーネが知るのは、それから一週間後の事である。
波長だけで結婚してたまるかと断り続けたフィーネであったが、国王陛下に泣きつかれ、最後の方は必死に愛を請う男に絆され、最終的に二人はめでたく結婚する運びとなった。
そしてフィーネは不本意ながら、大陸でもっとも知られた元「食堂の看板娘」になったのだった。
おしまい。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
得体の知れないうさんくさい男と、化物バトルが書きたかったみたいです。