第四話
しかし時代とは悲しいもので、その後、劉備は曹操に反旗を翻した。その旗の下には当然関羽と張飛も。
しかも曹操の暗殺計画に関わっていた証拠も出てきたがために、友人と思って優遇した劉備に怒り苦しんだ。
曹操は政治のために働き、人を導いた。その姿に多くの人は関心を寄せ付き従ったが、それは彼に嫉妬も集めたのだ。
その結果、曹操は生涯に悲しい裏切りを何度も受けることとなった。劉備もその一人。
大抵のことは先読みして想定している曹操であったが、この劉備の裏切りだけは彼に大きな打撃を与えた。
それでも家臣の前では強がり胸を張っていたが、妻の卞氏は早々にそれに気付いて慰めた。曹操も卞氏の前だけでは甘える一人の寂しい男であった。
そんな折、曹操は杜玉の部屋を訪れた。そして関羽が自分の元を離反したことを伝えたのだ。
「すまん。いずれ足下と関羽を一緒にしてやりたかったが、余の不徳のいたすところだ。もはや彼らは余の旗の下には戻ってこない」
杜玉はその言葉に悲しんだが、それを言った曹操も同じであった。
言葉にするとつい思いが溢れるものである。曹操は涙を見られまいと杜玉に背を向けた。
それは杜玉にとってはそんなつもりはなくとも、ついつい曹操に情を移した。同じく関羽を思うものとして、彼の背中に抱き付いたのだ。
「杜氏──」
「閣下。心中お察し致します……」
「うう。すまん……」
「申し訳ございません。私も……」
二人のそれは“好き”という感情ではなかったであろう。しかしいつの間にか曹操は彼女の寝台で枕を並べていた。
彼女の小さな頭に、己の腕を下にして胸に抱いたのだ。
その夜、曹操はふと目を覚ました。そして隣で小さな寝息をたてる杜玉の顔を微笑ましく眺めた。
その時だった。
「──長生……、長生……」
杜玉は夢の中で愛しい者の名を呼ぶ。曹操は眉尻を下げて寂しそうに微笑み、彼女の頭から腕をほどき、そっと自室へと帰った。
寂しさのあまり互いに身を合わせたが、杜玉の心の中には関羽が住み着いている。
それを追い出すことなどできないと思ったのだった。
◇
それからしばらくして、曹操は軍をおこして劉備を攻めた。しかし劉備は袁紹を頼ってさっさと逃げてしまった。
関羽は別な城を守っていたので、置いてけぼりとなり、曹操は関羽の城を兵士で囲んで逃げられないようにした。
関羽の元には劉備の家族もいた。劉備は信頼する関羽に家族を託していたのだ。
関羽は緊張の中、城壁に登って呵呵大笑した。
「はっはっはっは! さすが曹操見事、見事。この兵士の配置を見れば彼が非常之人だと分かる。古来の兵法にもかなっており、一寸の隙もない」
この非常時に際して関羽は笑い、曹操への尊敬の念を称えた。そのままそこにどっかりと座り込み、十重二十重に囲む兵士たちを嬉しそうに眺める。
「武人としてこれほどの敵と最後に会い対せるとは嬉しいことだ。曹操は儂に名誉をくれたのだ。よろしい。潔く斬り込んで、劉備の元に関羽があったと天下に知らしめよう!」
そう叫んで続けてポツリと呟いた。
「もはや未練だな玉。なぜこんなときにそなたの顔が浮かぶのか──」
関羽は城壁を降りて戦えそうな兵士をまとめた。若い者、家族がいる者は家に帰し、残った百騎ほどを背後に並べ、城門の係りに叫んだのだ。
「開門! 今より我ら死地に飛び込む! 存分に武名を轟かせよ!」
その声にわずか百騎が万兵の声をあげる。
「「「えい! えい! おうおう!!」」」
関羽はニヤリと笑った。城門の橋が音を立てて下がり、目の前には曹操の兵士がどこまでも広がる。
しかし先頭に張遼が立っており、片手を上げて兵士を制していた。
「む。張文遠!?」
「さよう。本日は軍使として参った。戦場の習いだ。話だけでも聞いてもらおう」
「む、むう……。分かった」
関羽は張遼を城内へと入れると、城門の橋を上げて敵の侵入を防いだ後、張遼を城の一室へと案内した。
「文遠、軍使と言ったな」
「さよう。見るところによれば戦えるものは百騎ほどだな。関羽とあろうものが無駄な戦をするわけがない。投降すれば配下も城の民も全てが無事だ」
「投降だと? 何を言う。曹操は儂に名誉をくれたのだ。そなたが帰ったら敵将をできるだけ討ち取って自刃する覚悟である!」
それに張遼は大きく頷いて「たしかに!」と言って膝を叩いて大笑するので、関羽も一緒になって笑った。
「たしかにその通り。武人とはかくあるべきだ」
「さすが文遠。分かってくれるか」
「分かるさ。だがな、私は惜しむ」
「うん?」
「私だけではない。劉備も張飛も惜しむだろう。彼らは九割キミのことを諦め、今も生死のほどは分からない。しかし生きているかもしれない。だがたとえ生きていたとしてもキミと離れたことで劉備の勢力は終わりだ。壊滅と言ってよい」
「む、むう……」
「君たちが戦場を駆け回った十数年間は無駄となるのだ。その勇名も木の葉の下だ。青史にも誰の名は残らない」
「うっ……」
「君が生きることで、劉備と張飛も生きるのだ。それに劉備は君に家族を託した。それらを残して死ぬというのか?」
「むう」
張遼は立ち上がって関羽の肩を叩いた。
「なあ。閣下は君に一目おいている。それは羨ましいくらいだよ。君が投降したとしても恥になることはない。むしろ王侯の待遇を受けるだろう」
関羽はしばらく考え、張遼を待たせて劉備の妻に確認した後、曹操に降ることを決めた。
しかし条件をつけた。
「もしも劉備が生きていたら、その元に行く」
というものだった。曹操はその条件も笑って許した。
そして以前のように関羽を重宝し、重役を与え、漢の侯爵に封じたのだ。
毎日のように宴会をしたが関羽の心はいつも空蝉のようで、曹操もそれを誰よりも感じた。
ある日、曹操は忙しいさなかに関羽に会いに行ったが、関羽は曹操に対して白眼視するので、曹操はとうとう抗議した。
「関羽や。余は足下を大事に思っている。余の部下になりたくない気持ちは分かったが、せめて友人になろうとは思ってくれないだろうか?」
それに関羽は答える。
「拙者の気持ちはいつも義兄弟とともにあります。閣下の気持ちは嬉しいものの、それになびくものではありません」
曹操は深くため息をつく。
「関羽。その節度を守る気持ちは大事だとは思うが、足下は相当な頑固者だ。足下に惚れたものが涙を流し、寂しい思いをしていても、まるで石仏のよう。余も杜玉もそんな足下に惚れたのが運のつきだ」
その言葉に関羽の動きがピタリと止まる。
「玉が? そんなことはございません。玉と拙者の縁は尽きました。彼女は女として夫に尽くす道を選んだのです」
「それは違うぞ関羽。玉は秦誼に騙されていたのを知らなかったのだ。今は毎日を悔やんで足下の昔の名を呼んでいる。足下こそ彼女の気持ちを分かってやれない粗忽者だ!」
曹操から指摘を受け、関羽は固まった。
「そうですか……。玉が拙者を──」
「さよう。あれ以来、我が家で保護をしておった。それを足下は話も聞かずに杜玉との再会に席を蹴って行ってしまったのだ。杜玉は悲しんだんだぞ。それでもいつかは会えると思っていたが劉備の裏切りで、もはや願いは叶わぬと余の妻になる道を選んだのだ」
「玉が、閣下の妻になったのでございますか……」
「そうだ。だが毎日足下に会えることを望んでいるし、足下さえ良ければ余はいつでもそれを許すつもりだ」
関羽はうなだれて脱力したままだったが、小さい声を発した。
「……会わせてくだされ」
その言葉に曹操は微笑んだ。
「ああ構わない。君たちは元々夫婦だったし、これからも夫婦になって構わないのだよ」
関羽は膝をついて曹操に礼を述べた。
◇
曹操はそれを杜玉に伝えると杜玉は大変喜んだ。
「そうかそうか。そんなに嬉しいか」
「はい。閣下。なにからなにまでありがとうございます!」
「関羽はいずれ余と離れてしまうだろう。その時は君とも別れなくてはならないのは残念だが、君たちが嬉しいならばそれでいいのだ」
「閣下……」
わずかであったが夫婦だった二人だ。杜玉は曹操の恩に深く感じ入り、その身を強く抱き締めた。曹操もそれに抱き返して応えたのだ。
そして曹操は自らを嘲笑する。
「どうも余は自分が好きになってしまったものを手放す傾向にあるようだな。張邈、陳宮、劉備に関羽。そして杜玉。そなたも──」
二人の名残はなかなか尽きなかったが、曹操は関羽の屋敷に杜玉を送るよう部下に命じた。
◇
やがて杜玉の乗る馬車が関羽の屋敷に到着する。
関羽は威厳をもって迎えたが、いつもの赤い顔が少しだけ赤みが増していた。
関羽は杜玉に今までのことを詫び、また夫婦になれることを喜び、それを伝えた。
杜玉も喜び、その場に泣き伏した。
やがて再会の宴を終え、二人は本当の夫婦になるべく寝所に向かおうとしたところ、杜玉は青い顔をして厠に行くことを願ったので、関羽はそれを許し、部屋で杜玉を待つことにした。
やがて杜玉は部屋に現れたが、顔色は青いままで、心ここに有らずである。関羽は不思議がって訪ねた。
「どうした? 本当の夫婦になれるのが嬉しくはないのか?」
杜玉はそれを聞いて涙をこぼす。そして床に伏して関羽に詫びたのだ。
「玉よ。一体どうしたのだ?」
「実は、実は……」
となかなか言葉にならない。だがやがてそれを口にする。
「今、厠に行って気付きました。私はどうやら妊娠しております──」
関羽は困ったような顔をして壁に寄りかかった。
妊娠──。
それは曹操の子だろう。しかし曹操は杜玉を手篭めにしたわけではない。
時機だ。全ては時機なのだ。
杜玉と縁が切れたと思い込んだ自分。曹操はそれでも杜玉を保護していた。だが自分が反旗を翻したところで杜玉を妻としたのだ……。
誰が悪かろう。それは時機なのだ。
関羽は、ただ天を仰いでため息をつくことしか出来ない。そこに部下が廊下から報告してきた。
「関羽さま。関羽さま」
「どうした?」
「我が君が見つかりました。どうやら袁紹の元にいるようです」
「なに? まことか?」
「はい。曹操に悟られる前に早くこの場を去りましょう」
関羽は杜玉の手を取り、立たせた。そして伝える。
「玉よ」
「はい」
「儂は劉備の殿のところにいかねばならん」
「存じております」
「君は身重で苦しい旅には堪えられんだろう。どうか曹閣下を頼ってくれたまえ」
「はい……。それが一番いいのかもしれません」
そう言って杜玉は長い袖で涙を拭う。関羽はその頭に自分の額をつけ、しばらくそのまま。
「一つわがままを言ってもいいかな?」
「ええ。私に出来ることなら」
関羽は優しく微笑んだ。
「二人の別れにふさわしい歌を歌ってくれたまえ」
杜玉はそれに微笑み、自分が持ってきた胡弓を取り出してイスに腰を下ろした。
そして悲しみのこもった声で歌を歌う。
「行行重行行 與君生別離
相去萬餘里 各在天一涯
道路阻且長 會面安可知?
胡馬依北風 越鳥巢南枝
相去日已遠 衣帶日已緩
浮雲蔽白日 游子不顧反
思君令人老 歲月忽已晚
棄捐勿復道 努力加餐飯」
杜玉は歌い終わると胡弓を置いて立ち上がる。関羽は近づいてその身を強く抱いた。
「ああ玉……。今生の別れだ」
「ああ、長生……。長生──」
やがて夜も更ける頃、関羽率いる一団は劉備のいる冀州に向かって行った。
杜玉は曹操の屋敷へと戻っていったのだ。
曹操は、帰ってきた杜玉を迎え入れ、関羽が去ったことを残念がった。
そして、この杜玉をちゃんとした妻の座を与えることとなったのだ。
杜玉はこの後、曹操の子を三人産んだと史書は伝える。決して彼女を無下に扱わなかったのだろう。
そして関羽は劉備の元に再度合流した。
この時の劉備一家は未だに土地を持たない流浪の一団であったが、この八年後に諸葛孔明を幕下に加え、曹操に対抗していくのであった。
◯このストーリーは、『蜀記』にある徐州攻めの折りに関羽が曹操に対し「私は秦誼(秦宜禄)の妻、杜氏を頂きたい」と願い、曹操はそれを許したものの、関羽に杜氏を与えず、自らそれを娶ったというエピソードから着想を得ました。
というのも、この部分にすごく違和感があったのですよね。その時代の女性の地位が低いといえども、義の人関羽が人妻をください。というのも関羽らしからぬですし、関羽のためならエンヤコラな曹操が、たとえ美人だとしても関羽の欲しいものを横取りするものだろうか? と思い、関羽にも曹操にも、「らしさ」を出したストーリーにしました。
杜氏の名前の「玉」は昔知り合った彼の地の女性のお名前の一字をもらいました。当時の名前は一字が多かったので、「玉」です。女性らしくていい名前だと思ってます。
◯この杜氏は相当な美人だったらしく、貂蝉のモデルになった人でもあります。曹操は彼女を夫人(妃の上位)の座につけ、曹林、曹袞、金郷公主の二男一女を産ませました。秦誼との子の秦郎も曹操は重用し、後に驍騎将軍となりました。
◯秦誼のその後は、曹操も妻を奪ったとバツが悪かったのか、彼を徐州の一県令の座に据えましたが、劉備が袁紹のところに逃げる際に、張飛に同行せよと言われ、同行するものの、やはり帰りたいとヘタレたので、張飛に殴り殺されました。
◯杜玉の歌とタイトルの「行行重行行」は「詩経」にある詩の一つです。
杜玉の気持ちは次のようなもので、この詩を歌いました。
◇
あなたは離れて行く。さらに離れて離れて──。
互いに生きているのに別れてく。
二人の距離は一万里。それぞれ天の果てと地の果てにいるようです。
我らの間には険しい道のりがあって、次に会える時など来ないでしょう。
馬や鳥でさえ故郷を懐かしむというのに(あなたは帰る場所を必要としない)。
私たちの距離は日に日に遠くなり、あなたを思う気持ちに痩せ細り、私の帯は緩む一方。
でも私の気持ちは重いもので、雲が太陽を隠すようにあなたの足枷になってしまう。
あなたはもう振り替えることはないでしょう。
私はあなたを思いながら歳をとるのでしょうね。その歳月はあっという間に過ぎていくでしょう。
あなたに別れを告げられたと嘆くのはやめておきます。
あなたも私を忘れてちゃんと食べるのですよ(元気でいてください)。
◇
最後までお読みくださりありがとうございました!