第三話
それからの劉備一家はしばらく不遇続きであったが、曹操と共に連合で劉備は徐州の下邳城にいる呂布を攻めることとなった。
連合といえども、劉備の勢力は小さい。ほぼ曹操の客将である。しかし曹操はなぜか劉備と関羽をいたく気に入っており、二人に一軍を預けた。劉備は張飛に兵の指揮を命じ、張飛はその期待に応えて城攻めを行い武功を上げた。曹操はことのほか喜んで張飛を呼んで漢の中郎将に任じたのだ。
しかし呂布はこの時の猛攻には野戦では対応できないと籠城に切り替えた。
呂布の指揮のもと下邳城は難攻不落の城と化し、おいそれと落城することができなくなった。
これに曹操は参謀を集め、うまい知略はないかと訪ねると、果たして水攻めが有効であると決定し、川の水を城に流し入れることに成功した。
城の中は膝上ほどまでに浸水し、兵の士気は大きく下がり、投降者が相次ぎ、とうとう城の門が開かれ落城となった。
呂布の部下は彼を縛って曹操に献じたのだ。
曹操は喜んで、劉備旗下の関羽を呼んで褒賞は何がいいか尋ねた。
「拙者に褒賞ですか?」
「さよう。足下の義弟は中郎将となった。足下も呂布攻めに大きく貢献した。さらなる任官を受けるべきだが、今なら城を落としたところだ。城中の宝でよいものを選ぶがよい。何がよかろう」
「閣下。なんでもよろしいので?」
「さようである。余に叶えられぬものなどなにもない。なんでも申せ」
「では呂布の部下である秦誼の妻、杜氏を頂戴しとうございます」
「なに? 女だと?」
「は。閣下に叶えられぬものはございませんでしょう」
「その通りだ。余に出来ぬことはない。しかし知勇兼ね備え、仁義に頼れる足下が女が欲しいなどと、英雄色を好むとはこのこと。それほど良い女か。ふむう」
「………………」
普段は国のことを考えている関羽が一番欲しいものが女だと知った曹操は、関羽もまた普通の男と感じ、その女がどれ程のものかと興味を持った。関羽は曹操の言葉に静かに笑って答えた。
◇
そう決まると関羽は久しぶりに愛しき妻に会えると心がはやり、なだれ込む兵士に紛れて下邳城へと入り秦誼の屋敷を探した。
劉備は曹操の近くに侍っていたが、張飛は関羽が気になってその後を追った。
関羽は下邳城の民に秦誼の屋敷を聞いて見つけると、そのまま門を潜って杜玉を探す。
すると杜玉は屋敷の中にいた。
しかし、怯える秦誼を連合軍に渡すまいとかばう形で抱いていた。それを目の当たりにし、前の主君の仇を抱く主君の娘の姿に困惑したが久しぶりに会えたことに声をつまらせて語りかけた。
「玉。久しかった。会いたかったぞ」
しかし杜玉は美しい柳眉を吊り上げて叫んだ。
「何を言う、父を殺した賊め! 力で私を奪おうと言うのか! 天が許しても私は許さん!」
それは悲しい言葉。愛しい人は仇を胸に抱き、自分を敵だと罵るのだ。
「玉……。それは違う」
「何が違う! 私の良人に近づくな不義不忠者!」
関羽は泣きそうになった。仇であり、妻を寝とった秦誼を良人と呼ぶ杜玉に、もはや縁が切れたのだと深くため息をついた。
そこに二人の子供である秦郎が駆け付けて、父と母にすがり付いて怖いと泣き出すので、関羽はそれらに背中を向けて呟いた。
「秦誼よ……。敵将であるそなたは早々に出頭し、沙汰を待て」
そう言って屋敷の外に出ようとするところに杜玉の声が追いかけてきた。
「長生! この恩知らず! 父は天で泣いておろう!」
と伏して泣き出しているようだったが、関羽は屋敷の外へと出ていった。
関羽出た後、秦一家は曹操によって離ればなれになってしまうだろうと名残を惜しんでいた。
しかし今までのやり取りを影で聞いていた男がいた。張飛である。
張飛はこんなことがあっていいものかと怒りに震えながら現れ、秦誼の胸倉を掴み込んで殴り付ける。
突然のことに杜玉や息子の秦郎は唖然としたが、張飛はさらに秦誼を殴った。
「な、なにをするのです! この狼藉もの!」
杜玉が声を張り上げる中、張飛は秦誼を掴んで凄んだ。
「自分で言え!」
秦誼はこれは関羽の義弟張飛だと知っていたので、つまり自分が杜超を殺したことを言えと言っているのだと察したが、今さら言えないと首を振って拒否したが、さらに張飛に殴られた。
「言わねえか!」
板間に転がされた秦誼は、恐怖に怯えてとうとう観念した。
「分かった! 言う……。言うよ……」
すると張飛は今度は杜玉の着物を掴んで秦誼の前に座らせる。杜玉は怯える秦誼を慰めた。
「あなた……。大丈夫? こんな賊の言うことなど聞くことないわ」
しかし張飛は仁王のような顔で秦誼を睨み付けていたので、秦誼は杜玉から目を反らして白状した。
「俺だ……」
「どうしたの、あなた……? なんのこと?」
「俺だ。俺がお前の父を殺したんだ。関羽にお前を渡したくないばかりに……」
それを聞いた杜玉は目から生気を失いその場にへたり込んでしまった。張飛はそれを言った秦誼の体を引っ付かんで空中に浮かした形で陣中へと引っ立てて行った。
杜玉は今まで関羽に抱き続けてきた憎しみが間違いだったと分かった上、父の仇である男に身を許していたことを悔やんで床に伏して泣き出した。
そしてこの十数年間、父の仇を倒すことと自分を忘れずにいてくれたことに、世間の関羽に対する「仁義の人」の噂は本当だと思った。
「長生……! 長生!」
しかし、その声は関羽に届くわけがなかった。
◇
曹操は関羽が陣中に戻ったところで、どんな美人をつれ来たのだろうとワクワクしながら側近を引き連れて幕舎を訪ねた。
関羽は曹操の来訪に驚き、平伏して向かえたが曹操は興味のものを探すのに忙しかった。
しかし、どこに目をやっても目的のものはないので関羽に訪ねた。
「関羽よ。足下の願いの品はどこだ」
「え? ああ杜氏でございますか。もうようございます」
「ん? 城中に置いてきたと?」
「御意にございます」
寂しそうに笑う関羽に、分けも分からずに幕舎を出た。そして考える。
きっと関羽は美人と何かあったのだ。それならばその仲介をしてやりたい。自分は関羽を一人の男と認めている。
そうだ、それがいいと思い、日を改めて杜玉に会いに行くことにした。
◇
この戦の戦後処理の中、曹操は近侍を連れて杜玉を訪ねていった。
杜玉の屋敷はすでに使用人も離れ、母子の二人だけである。二人は曹操の訪れとあって抱き合って震えていた。
曹操は杜玉を見るなり、中年増なれども容色の衰えない姿に息をのみ、なるほどこれが関羽の欲しがった女かと納得した。
杜玉は要件を言わずに微笑んでいる曹操を訝しんで訪ねた。
「閣下直々のお出ましとあらば、我々は夫の連座で処刑でしょうか?」
しかしそれに曹操は首を横に振った。そして杜玉の息子である秦郎へと目を移す。杜玉はそれに理解して秦郎へと声をかけた。
「これ郎や。閣下は私に話があるようです。お外で遊んでらっしゃい」
「う、うん」
曹操はすかさず近侍に目をやると、近侍の二人が秦郎へと笑いかけて外に連れ出していった。
「さあさあ。向こうでおじさんと遊ぼうね」
「おじさんたちは悪い人じゃないの? お母様は大丈夫なの?」
「大丈夫さ。さあいこう」
「うん!」
秦郎が外に出るとようやく曹操は話し始めた。
「秦誼は恋しいかね?」
しかし杜玉は涙を流して首を横に振った。
「ほほう。それはなぜかね? 秦誼は足下の連れ合いだろう?」
それに杜玉は答える。
「私は秦誼の前に夫のいた身でありましたが、ある時、その夫は私の父を殺して逃げました。それを慰めてきたのが今の夫であった秦誼だったのです」
「ほほう。そうかね」
「しかし先日、前の夫が閣下の配下となり城攻めを行い、落城後に私の元に会いに来ました。しかし私は前の夫を“父殺し”となじりました。ですが前夫が出ていった後に、実は秦誼が私と前夫との仲を妬み、本当の父殺しだと知ったのです」
それに曹操は大きく頷いた。この前夫とは関羽のことで、関羽は義の人だから、たとえ自分が父の仇と言われても、杜玉の幸せを思って身を引いたのだと結論付けた。
「なるほど。それは関羽のことだね」
「は、はい。閣下」
「では関羽と添い遂げたいかね?」
「そ、それは……。私は仇の子を身籠り産んだ哀れな女です。長生のほうでそれは許さないでしょう」
「何を言うかね。関羽はそんな小さい男ではないよ。余が仲人をしよう。足下はご子息を連れて余の屋敷にいらっしゃい。余の妻の一人である卞氏は面倒見のいい女でね、彼女を頼れば上にも下にもならない生活が送れるよ。それから改めて関羽と話をしよう」
その言葉に杜玉の顔はパァっと華やいだ。
「本当でございますか、閣下」
「ああ、本当だとも。余は関羽ともっと仲良くなりたいのだ。関羽の妻であった足下を悪いようにはせんよ」
こうして杜玉は息子の秦郎ともども曹操の屋敷へと入った。
曹操の妻の卞氏は、曹操の期待どおり、杜玉を客人として扱い、秦郎は曹操の子供と同じように扱った。
◇
時を見計らって、曹操は関羽を酒宴と称して屋敷へと呼んだ。関羽は劉備が自分の主人であるので、主人を差し置いて行けないと断ると、曹操は自ら馬車に乗って屋敷へと迎えに行った。そこには丁度、劉備も張飛もいたので、曹操はそっと自分の計画を劉備に伝えると、劉備は笑って関羽に酒宴に行くように命じたので、関羽は渋々ながらそれを受けた。
曹操が、馬車に陪乗するよう勧めるが、関羽はこれも受けようとしない。それも劉備が咎めてようやく馬車へと乗り込んで、曹操の屋敷へと向かった。
酒宴には、曹操の近侍たちが下座へと座り、芸妓たちが歌や音楽を披露する、なかなか楽しいものだった。
時が経ったので、曹操は関羽へとにこやかに話しかける。
「実は下邳城での戦利品が足下と会いたがっていてな。この屋敷にいるのだ。その部屋を案内させよう」
関羽はそれに思い立った。自分に会いたがっているのは、呂布の一将であった張遼、字を文遠のことであろうと勘違いしたのだ。
関羽は張遼に一目おいていたので大変に喜んだ。
「閣下! まことでございますか?」
「ほほう。さすが関羽。気付いたか」
「はい。私も会いたかったのです!」
「であろう。これで余の肩の荷もおりたわい」
「さすが英邁なる閣下にございます」
「はっはっは。よいよい」
関羽は喜んで部屋の場所を聞き、急ぎ足でそこに向かう。部屋の中は灯りがついていたので、中にいるのは張遼と思い込んで思い切り戸を開けた。
中の人物は嬉しがって関羽の名前を呼ぶ。
「長生……!」
杜玉の言葉に、関羽の頭は状況に追い付けずに固まっていた。その間に杜玉は関羽との距離を縮めていた。
しかしその白く細い腕が関羽の胸へと届く前に関羽は杜玉に、背中を向けた。
「……失礼。部屋を間違えたようです」
そう言って関羽は部屋を出て立ち去った。
曹操は部屋の近くまで来ており、関羽がこちらに来るのを見て嬉しくなって声をかけた。
「関羽、どうした。妻との感動の対面はもう終わりか?」
しかし関羽は憮然とした態度で答えた。
「閣下。拙者の歓心を買おうと権力を用いて杜氏を得ても、拙者の心は動きませぬ。もはや杜氏とは縁が切れましたので」
そういうと、足を鳴らして屋敷を出ていってしまった。
杜氏は間違いとはいえ、関羽の心を離してしまったのは自分だと深く悲しんで泣き伏してしまったところに曹操がやって来た。
「どうしたのかね? 関羽は怒っているようだったが?」
それに杜玉は深く頭を垂らして曹操に詫びた。
「もはや長生には私など眼中にないようです。それもそのはず、全て私のせいなのです。私が父の仇の妻となり、長生を恨んだ十数年間は、彼の心を深く傷つけたに違いありません。閣下にはこのような場所を提供してくださったにも関わらず、長生との関係も拗らせてしまって申し訳ございません」
それに曹操は答える。
「何を言う。関羽はそんな男ではないと言ったではないか。急に誤解は解けん。きっと分かりあえる時が来るさ」
「閣下……」
「それに余もな。きっと関羽と分かりあえると思っているぞ」
その言葉に杜玉は涙を拭いて微笑んだ。
「ええ、そうですわね」
二人は信じた。きっと関羽に振り向いてもらえるその日を。