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第一話

 三国志の英雄、関羽は死して神となり、中国のあちこちに廟が建てられ祀られている。


 関羽の元の字は長生(ちょうせい)であった。字は通称で、日常的に呼ばれるのはこちらのほう。

 であるから、関羽の故郷では彼を見掛けると「長生、長生」「関長生」と呼ばれ親しまれていた。

 しかし長生はその字を捨てなくてはならなかった。それは罪を犯して逃亡するためであった。





 関羽は司隷州は河東郡、解県の産まれで、若い頃から長身の偉丈夫。百人力の豪傑ということで、解県の県令、杜超(とちょう)はわざわざ彼の自宅に足を運んで、県令の業務を手伝うようにと出仕を乞うた。


 関羽は元より大望ある人である。杜超の義心に応じたいものの、州牧や太守などの大きな地位の人ならよいが、県令の配下という安い地位には就けないと考え、一度目は断った。


 杜超はそれでも諦めず、再度赴いて自身の県令の地位の半分の権利を与えることを約束し、その印綬を渡すと、若い関羽は「若輩である自分をここまで認めてくれるとは」と大変に感じ入った。

 漢の高祖は泗水(しすい)の亭長(宿場役人)であったし、楚の項籍とて会稽(かいけい)の県令の下から天下を伺ったのだ。

 杜超の元で世直しするのも良いかもしれないと、それを受けた。


 そうなると杜超は関羽に県令の副官である県丞(けんじょう)に任じ、ことあるごとに「長生、長生」と関羽を呼び、治安維持や土木工事、上司の接待などに同席させ、そのノウハウを伝え、関羽もそれを受け継ぎ、一年経つと全ての業務を関羽一人で行えるようになったので、それを任せ、関羽もそうされることに誇りを感じた。


 さてこの県令の元に、杜玉(とぎょく)という娘があった。関羽より四歳年少の十五歳であったが、真面目で責任感のある偉丈夫な関羽に恋をした。


 しかし関羽は仕事一筋で杜玉のことなど見向きもしない。杜玉は一計を案じて関羽が歩いているところを木陰から呼び止めた。


「長生、長生」


 関羽が呼ばれるほうを見てみると、果たして杜超の一人娘である杜玉が木陰からこちらを見ている。

 関羽はそこで立ち止まって聞き返した。


「どうなされました、お嬢様」

「実は木の上から虫が落ちてきたようで背中にいるようです。とってくださいませんこと?」


「な、なるほど。それは難儀でしょう」


 若い彼女の元に行って、人に見られたら杜超の信頼を裏切るという気持ちよりも、困っている彼女を救ってやりたいという思いが先んじて、彼女の元に近づいて、背中を見てみると果たして何もいない。


「お嬢様。なにもおりません」

「あら、では前に回ったかしら」


 そう言って関羽のほうを見て胸を突き上げる。関羽が彼女の顔をよく見ると絶世の美女である。

 関羽とて石仏ではない。その美しさに息を飲んだが、すぐに持ち直して彼女の衣服を改めて見てみると、彼女は関羽の顔を押さえて強引に唇を奪った。


 関羽は顔を真っ赤にして驚いて、その唇を押さえながら彼女から身を離した。


「あら失礼ね。唇を押さえるなんて」

「お、お嬢様。お戯れはお止めください」


「戯れではないわよ」

「し、しかし、私は殿の部下でございます。お嬢様の身に触れたなどと殿に知れたら……」


「では黙っていたら良いのでしょう。長生、これはあなたと私の秘密よ」

「い、いやしかし……。なりません。殿の期待を裏切ることになりまする。私に変な思いを抱いてはなりませぬ」


「あら変とはなによ」


 関羽は顔を伏せたまま、彼女に背を向けた。


「失礼いたします」


 そういって赤い顔をますます赤くして執務室に歩き出した。杜玉はその大きな背中を見つめていた。


 その二人の様子を物陰から歯噛みして見ているものがあった。杜超の部下で兵を預けられている県尉(けんい)秦誼(しんぎ)という男である。

 彼は杜玉に密かに思いを寄せていたために、杜玉の行動に激しく嫉妬し、関羽を罰してもらおうと、すぐさま杜超の元へと急いだ。それは関羽を陥れる讒言(ざんげん)というものであった。


「なんと。長生が娘と逢い引きしておったと!?」

「はい。それはもう長生から一方的なもので、嫌がるお嬢様を無理やり木に押さえつけてですな、それはそれはひどいものでした」


「ふむ。そうか」

「ええ、左様でございます。長生の奴め、お嬢様を手懐け、いずれ杜家を奪うつもりであります」


「なるほど。すぐに長生を呼べい!」


 関羽は執務室で仕事をしているところに使いの者がきて、県令さまが呼んでおられるのですぐに来るようにとのお達しである。

 関羽はなんの仕事であろうと、机の上を片付けて杜超の部屋へと向かうと、そこには中央の席に杜超が座り、その後ろには秦誼が立っていた。

 それには別に不思議に思わずに杜超に近づくと彼は話を切り出した。


「長生。お主、余の娘と陰ながら逢い引きしていたと聞いたが本当か?」


 それに秦誼は杜超の後ろで嫌らしく笑う。関羽は杜超の信頼を裏切ったと顔をうなだれ答えられなくなった。杜超は続ける。


「どうした長生、黙っていては分からぬ」


 秦誼はそれに重ねるように言った。


「長生! そなた、お嬢様を押さえて口を吸っていたではないか! か弱い婦女子になんたる暴行だ!」


 関羽は跪いて大きく頷いた。


「我が君。この長生、身分違いの恋を致しました。殿のお嬢様に恋をしてしまったのです。本気の恋でございました。殿の期待を裏切りました。どうぞご存分にご成敗ください」


 そう言い終わると関羽はひれ伏して杜超に詫びた。本当に関羽は杜玉に恋をしてしまったのだ。

 杜超は関羽に近付いて、自分の上着を脱いでかけてやった。


「長生。なにを言う。そなたが余の息子になることは余の常々なる思いであった。そなたが娘を思ってくれておるならば幸いだ。ふつつかな娘であるが、もらってくれるか?」


 その言葉に関羽も秦誼も驚いた。


「我が君、本当でございますか!?」

「本当だとも。娘をこれへ!」


 そう指示された使用人が、杜玉を連れてくると、杜超は杜玉へと命じた。


「玉よ。余は長生を大事に思っておる。息子として県令の地位を世襲したい。そこでお前には長生に嫁いで貰う。依存はあるまい」


 そう言われると杜玉の顔がパアッと明るく輝き、関羽の横に座った。


「お父様、本当でございますか?」

「本当だとも。お前は長生に仕えるのだ。この父の命令は不服か?」


「いえ、とんでもございません。玉は幸せものでございます」


 と、そこまで聞いて秦誼の報告と娘の態度は全然違うなと杜超は思ったものの、二人を祝福した。


「ではこれより二人は夫婦である。東にある屋敷を与えよう」


 と言われ、二人は手を握りあって喜んだ。

 関羽は杜玉に惹かれたのだ。自分にはないはつらつとした彼女の姿に。杜玉は関羽に嬉しそうに微笑んだ。





 二人は与えられた屋敷に入って、まだ生活の様子のない家の真ん中でただ棒立ちになった。

 まだ結婚した実感もないのだ。しかし顔を見合わせて微笑む。杜玉は関羽の大きな胸に飛び込んで顔を埋めた。


「お、お嬢様──」

「お嬢様は止めて。もうあなたの妻なのよ。玉と呼んで」


「お、おう。玉……」

「はい。あなた」


「う、うん」

「うふふ。豪傑なのに、初心(うぶ)ですのね」


「その通りだ。女性(にょしょう)は慣れぬ。苦手だ」

「まあ、そうでしたの?」


「しかし玉は不思議だな」

「どうして?」


 そう言って、グイと顔を近づけてくる。体の大きい関羽だが、気圧されてのけ反る。杜玉は面白がって顔を近づけた。


「まったく。お嬢様には敵いませんな」

「うふふ。長生は私のことをどう思いますか?」


「可憐な花のような人だと思います」

「ま。うふふふ」


「はっはっはっは」


 それは、若い二人の恋の始まりであった。


 しかし、その日の晩である。関羽と杜玉が、いざ寝室で夫婦の契りを交わすというところに、二人の屋敷に訪れるものがあった。

 使者は杜超からのもので、関羽はすぐに衣服を整えた。それを杜玉が何があったか聞く。


「あなた。どうなさいましたの?」

「うむ。殿からすぐ来て欲しいとのことだ。急ぎ行かねばならん」


「お父様から?」

「ああそうだ。こんな時間である。大方県の役人の訃報かもしれん」


 そう言って関羽は屋敷を出て杜超の元へと急いだ。


 杜超の部屋では灯りがついており人影があった。関羽は部屋の外から自分が来た旨を伝えたが返事がない。

 おそらく何か読み物に没頭しているのかも知れない。部下であるなら無礼だが、今の自分は杜玉の婿である。杜超の義理の息子だ。部屋に入っても大丈夫だと思い、入る旨を伝えて戸を開けた。


 杜超は関羽に背中を向けて机に突っ伏していた。多忙であるから疲れて仮眠をとっているのだろうと思い、しばらくそこで起きるのを待ったが疲れが祟って熟睡されても困る。

 呼ばれた用事が火急のことでは間に合わないかもしれないと思い、杜超の肩に手をかけて揺らした。


「義父上、義父上」


 そしたら、「おお長生か」と眠い目を擦りながら起きるかと思ったが違った。杜超の体に、まったくというほど力がない。


「我が君!」


 関羽は驚いて杜超の両肩を掴んで引き上げると、杜超の首は力なくだらんと垂れ、顔色は青白かった。

 見ると腹部が割かれており、完全に絶命している状態だった。


 襲ってくる驚きと悲しみ。自分を認め、義理の父となった男が自分の腕の中ですでに事切れている。しかもこれは殺されていると思ったところに、部屋の戸がガラリと開いた。


 そこには秦誼と兵士が立っていた。


「殿が殺されておる! 犯人は長生である! 捕えよ!」


 との言葉に、関羽は謀られたと思った。犯人は秦誼で、己に罪を被せたのだと真っ赤になって怒ったが、兵士も秦誼も武器を持っており、自分は丸腰に鎧も着ていない。

 だが無実の罪で恩人の杜超の無念も晴らせぬまま捕まってはいられない。

 関羽は、この兵士の囲みを破って杜玉と共に逃げようと思い窓を突き破って外へと飛び出したが、自分たちの屋敷への道のりはすでに兵で固められている。


 関羽は「秦誼め!」と歯軋りするものの、すぐさま逃げなくてはならない状況である。

 騎馬に乗る兵士を蹴り落とし、馬を奪うとさっと県庁を飛び出して、杜超の仇を討つことを月に誓った。


 だが秦誼は早々に手を回しており、県だけでなく河東郡の兵士まで道をおさえており、関羽はもうすぐ郡を抜けれるというところで兵士に囲まれてしまった。

 それを率いる兵長が訪ねる。


「拙者は郡兵の(はん)と申す。今は解県令殺害の罪で関長生という男を探している。見ればそなたは関長生の風体にそっくりだ。そなたの名は何と言う」


 すかさず関羽は答えた。


「私は関雲長と申す商人でございます。今から商用で幽州のほうに参ります」


 それを聞いた范であったが、彼はすぐさまこれは関羽だと気付いていた。しかし、郡のほうでも関羽の名声は届いていたので、なんとなく関羽が犯人だとは思っていなかった。

 そして出会ってなかなかの丈夫(ますらお)だと感じたので逃がすことにした。


「左様か。幽州はここから真っ直ぐ北だ。気を付けて行きなされ」

「お気遣い感謝致します」


 こうして関羽は幽州へと無事に落ち延び、劉備の旗の下に合流したのであった。





 しかし関羽の妻の杜玉である。彼女は父の死と、その犯人は関羽であると聞き、愛するものを二つ失った思いで、泣いて気を失い、しばらく言葉を話せないほどの状況に陥ったが、そこに近づいたのは秦誼であった。


「お嬢様。あなたの父親は愛する夫に害されましたが、もう忘れてしまいなさい。あなたの面倒は私が見ます。元々私はあなたのことが好きだったのです。一生あなたを幸せにしますよ」


 最初は悲しみにくれるだけだったが、秦誼の優しい言葉にほだされ、ついには彼についていくことに決めたのだ。


 なんということであろう。己の父を殺し、愛する夫に嫌疑をかけた男に嫁ぐことを選んでしまったのだ。


 関羽は幽州にいたが、いつも杜玉のことを気にかけており、この話を人づてに聞いたとき気が狂いそうになり、ますます秦誼に復讐を誓った。

 関羽の義兄弟である、劉備と張飛も、この信義のない義兄弟の仇を深く恨むのであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] こうして改めて見ると、関羽はなろう主人公みがありますね( ˘ω˘ )
[良い点] なんという悲劇。 もうすでに泣きそうです。
[良い点] うわっ。なんて言う引きで始まったお話.酷いやつにはめられた関羽っ.どうなるんでしょう。気になります。
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