薔薇の名前
フロウがいなくなってから2カ月が経ち、世の中はすっかり春めいて来た。
俺は近衛隊を辞め兄さんの代わりに当主として奮闘することになった。
デスクに座って書類と格闘するのはかなり苦痛だったが、仕事に没頭している間は辛いことを忘れられた。
政務の合間、ぶらぶらと散歩をしながら温室へ入って行き、中を見て歩いた。
奥には作業台があり、ハサミやふるい、薬剤などが沢山置かれていた。作業台の引き出しの中から1冊のノートが出てきた。ノートにはバラの育種についての考察がびっしり書き込まれていた。
背後でドアが開きベンの声がした。
「それはレナード様のノートでございます。レナード様が切望されていたバラがまだ未完成で…」
俺は振り返りベンにこう言った。
「このノート、しばらく借りるよ。それから後で圃場を見せてくれ」
「かしこまりました。どんな事でもお尋ねください。それとこれはレナード様が使っておられたハサミでございます」
ベンは顔をしわくちゃにして笑った。
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あれから10年近くの歳月が流れた。
俺は慣れないバラの育種に、失敗を繰り返しながらも挑んでいった。兄さんの残したバラを改良していく一方で、自分のオリジナルの交配も試みた。だがやはり兄さんの腕の方が確かで、改良に改良を重ねてやっとほぼ理想と言えるバラを作り上げることに成功した。
「ウイリアム様、これは素晴らしいですぞ。本当に、これは素晴らしいバラです」
年老いて現役の庭師からは退いたベンだったが、育種の手伝いはずっと続けてくれていた。
「そう思う? これが兄さんの目指した理想の形だと?」
「はい、申し分ありません。今年のコンテストに出品しましょう」
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リムジー修道院から一番近い賑やかな下町。
秋の日差しに包まれたバザーのテントは多くの人で賑わっていた。今日は秋の収穫祭だった。
「今年のりんごは甘いよ~おひとつ如何ですか~」
「このカボチャ! 持ってみてびっくりのこの重さ! パンプキンパイにぴったりだよ~」
あちこちから威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
「あ、シスターいらっしゃいませ。今年はいいバラが入って来たんですよ!」
「いい香りね」
「ええ! 今年のコンテストで最優秀賞を取ったバラですからね」
白い薔薇だった。こんもりとした形の良い木はトゲが少なく、真っ白な花びらがぎっしり詰まった中大輪の花を咲かせていた。
花びらは細かいフリルが沢山入っていた。葉はグレーがかった濃い緑色をしており、濃い葉色を背景にすると白い花が輝いているように見える。花はダマスクローズの強い香りを放っていた。
「ある侯爵様がね恋人の為に作ったバラだそうですよ。侯爵様は若くして亡くなられたそうですがね、その弟が兄の意思を引き継ぎ作り上げたそうなんです。いやぁロマンチックな曰くまで付いてるなんて最高ですよね」
花屋の主人は快活な笑い声をあげた。
白い薔薇の花びらにぽたぽたと水滴が落ちてきた。花屋は、あれ? っと空を見上げたが雨の気配は無く、いいお天気だった。
薔薇を見ていたシスターが顔を上げて尋ねた。
「この薔薇はなんていう名前かしら?」
涙を流すシスターを見て、うろたえながら花屋は答えた。
「これは、『天使のドレス』という名前ですね。シスター」
「そうですか。本当に美しい薔薇ね。これを見ることが出来て本当に良かったわ、ありがとう」
そのシスターは優しく笑って花屋のテントから出て行った。
その翌日、フランシスは修道院のベッドでひっそりと息を引き取った。
安らかな死に顔は美しく、31歳になったばかりだった。
完




