05 悪役令嬢とヒロイン
繊細な鉄細工の隙間から差し込む柔らかな日差しと、鼻孔をほのかに擽る花の香り。
入り口から続くよく磨かれた石畳は仄かにオレンジ色に染まり、傍らの植木が色濃く影を落としている。そこを真っ直ぐに進んでいけば、温室の中央に位置する小さな広場に辿り着くのだが――そこではニ十分ほど前から、苛立つ私と冷静なカミルが待ちぼうけを喰らっていた。
アイアンチェアに腰かけた私は、溜息をついて両腕を組む。先程から貧乏ゆすりが止まらない。
「お嬢様、それはお辞めください。品がありません」
「いいのよ、あなたしか見ていないから。それより、この私を待たせるだなんて、どういうこと?」
苛立ちを多分に乗せた私の声が、カミルを除いて無人の温室に虚しく響く。
――放課後、温室でお話しませんか。フローリアにそう言われ、私に指図するなんてどういうつもり? ともちろん思ったけれど、時間も場所も守ってここへ来た。だと言うのに、フローリアは未だにやって来ない。
更に五分程度が経過して、もう無視して帰ってやろうかしら、と考え始めた頃、ようやく入り口のガラス戸の向こうにぼんやりと人影が浮かび上がった。それから程なくして、一人の少女が慌ただしくドアを開ける。
「すみません、お待たせしましたー!」
「遅いわよ」
肩で息をしながら入って来たのは、当然ながらフローリアだ。栗色のミディアムヘアを下ろして、サイドの髪を編み込んだ、可憐な印象を与える少女。記憶の中のフローリアは、その見目に違わず、朗らかだが控えめな少女だった。
どうぞ座って、と促せば、フローリアは向かいのアイアンチェアに「失礼しまーす」と言って座った。やっぱりおかしい、この女は誰だ。露骨に怪訝な顔つきになってしまう私に、呑気な様子で「まぁまぁ」と笑うフローリアが憎らしい。
「で、何の用? あなたには聞きたいことが山ほどあるけれど、まずはそちらの話から聞いて差し上げるわ」
「ありがとうございます。……もうなんとなく察しはついてると思うんですけど、話っていうのは、ダイアナ様のお身体のことです」
私の身体。昼間に食堂で「あなたがダイアナだと知っている」と話したことも踏まえると、何故だか知らないが事情をほとんど知っているらしい。私が体を奪われる前もまともな関わりは無かったし、それどころか私に対して悪印象しか無いだろうに、はっきり言って気味が悪くて仕方ない。しかし、そんな私の様子など気にも留めず、フローリアは続ける。
「結論から言うと、ダイアナ様は転生されちゃったんですよ。異世界の人に」
「は?」
「元々、ダイアナ様の体の中にはずーっと別の人間の魂が眠ってたんです。で、ある時そっちの魂が目覚めちゃって、それまでのダイアナ様の魂は押し出されてしまった。それが眠っていたローザ様の中に入って、目を覚まして、今に至るってわけです。理解できました?」
「できないけど? 何?」
やっぱりこの一ヵ月で頭がおかしくなったのだ、そうに違いない。
目の前に座る一見無害そうな少女が異常者であることを確信した私は、頭の中で彼女を金輪際私の半径五十センチ以内に近づけないための方法を考え始める。あるいはこれに乗じて彼女を学院から追い出してもいいかもしれない、以前から目障りではあったから。
そうだわ。今度の夜会で彼女がおかしなことを言っていたとそれとなく教師に伝えて、精神に異常を来しているということで学院を――
「駄目ですよ。私を学園から追い出したら、あなたは体を取り戻せなくなります」
「そうかしら? 芋娘の手なんて借りなくても、……待ちなさい、なんで」
……なんで、私が考えていたことが分かるの。
唇を震わせながら私が問えば、フローリアは悪戯っぽく笑った。その笑みが、私の目には、ひどく不気味に映った。
「私も、よその世界から転生してきたんです。ここは私にとって物語の世界なので、これから起きることは大体わかります」
「物語の世界……!?」
思いもよらぬ彼女の答えにカミルは息を呑むが、構わずフローリアは続けた。
「ちなみにダイアナ様は今度の夜会で私のマナー違反を指摘し、以前から問題視していたとかなんとか言って私を学院から追い出そうと画策しますが、失敗に終わります。物語ではそうでしたが、どうですか?」
それも、いつやろうとしたか、その結果まで知っているなんて。
いよいよ怖くなって、私は傍らに立つカミルの袖口を掴んだ。ついでにこれからあなたは死にます、なぜって私が復讐するから! などと言われてナイフを突きつけられたら、どうすればいいのか分からない。普段ならこんな被害妄想で怯えるなんてまず有り得ないのに、それ以上に有り得ない現実を前にすれば恐怖だってする。
しかし、フローリアはもちろんそんな私の反応もさっくり無視して、あくまで自分のペースを保ったまま話を続けた。
「ここ、乙女ゲームの世界なんですよ。VRとか、キャラがリアルタイムに応答してくれる人格AIとか、いろんな技術が搭載された最新のやつ……って言っても、何も分からないですよね。乙女ゲームっていうのは――うーん、この世界、ゲームブックってあります?」
ゲームブック。名称からして、本の一種なのだろうか。
落ち着きを取り戻した私は、何か思い当たるものがないか考える。少なくとも私は聞いたことがないし、庶民の間で流行っているものなのかもしれない。そう思い、ちらりとカミルの方へと視線を向けるが、彼も首を横に振った。なるほど知らないらしい。その様子を見守っていたフローリアが「ないかぁ」とぼやく。続けて彼女は、ゲームブックなるものの説明を始めた。
「簡単に説明すると、読者が主人公になりきって展開を選べる本、って感じですかね? 朝が来て、あなたは目を覚ました。部屋で過ごすなら次のページへ、町へ行くなら十ページへ、みたいな」
「……指定されたページに、異なる物語が書かれているということ? 部屋で過ごす物語と、町へ行く物語が」
私が問うと、フローリアはぱぁっと表情を明るくした。当たっていたらしい。
「そうですそうです、さすがダイアナ様。それがどんどん繰り返されていって、なんかもっと複雑な――親密度とかステータスとかそういうのも絡んでくるんですけど、とにかく! ここはそういう、主人公の選択で変化する物語の世界だと思ってください」
確かに、そういう本があったら流行るかもしれない。実際私も興味を持ったし、彼女の世界でオトメゲームが一つの娯楽として受け入れられていったことも理解できる。
そして彼女は、転生前――つまり前世で、オトメゲームの読者だった。私やカミルが生きているこの世界は、その物語の世界。彼女は一度読み終えているから、これから起こることが全てわかる。
私はチェアを引き、黙ってその場に立ち上がった。カミルに目配せしてから口を開く。
「有り得ないわ。話はそれだけ? 帰るわよ、カミル」
「お嬢様、私たちは帰る方向が逆ですよ。私はひとまずハルトリングの屋敷に戻ります」
即座に返された答えに、私は思わず固まってしまう。自分がダイアナではなくローザになってしまっていることが、すっかり頭から抜け落ちていた。カミルの言う通り、私と彼の帰る場所はもう違うのだ。
当たり前のように彼と共に帰ろうとしたのは、昨日……ではなく一ヵ月前まで、私が常にそうしていたから。ハルトリング家の屋敷は彼の家でもあるのだから当然のことだ。馬車を使っているとは言え、防犯の面もある。
ということは今日も、ダイアナと帰るはずだったのでは?
「……あなた、ダイアナと一緒に帰らなくて良かったの?」
「ダイアナ様は図書室に立ち寄ってから帰られるそうです。六時頃にお迎えに上がる予定です」
「図書室? 何の用があるのかしら」
六時まで、まだ一時間以上ある。そんなにも長い時間、ダイアナは一体何をしているのだろう。
まるで心当たりがなくて、どうにも訝しんでしまう私にカミルは淡々と答える。
「ご友人とご歓談を楽しまれるとか。ヴェルナー・アインフェルト様です」
――ヴェルナー・アインフェルト。クラスは違うが同じ三年生で、隣国から来た交換留学生だ。
ほとんど関わりのない、それどころか会話をしたことがあるかさえ定かではない相手の名前が挙がり、私は眉を寄せる。その瞬間、フローリアが「あ~」と声を上げた。
「その人、攻略対象の一人ですよ。ちょっと怖い一匹狼系の。推しだったのかな?」
また訳の分からないことを言い出した。オシって何? それに攻略対象って、まさか攻め落とすつもり? 相手は要塞でなく人間なのに。
両腕を組んでフローリアを見下ろすと、彼女は再び語り始める。
「さっき、ここは物語の世界だって言いましたよね? この物語のテーマは主人公の恋で、分岐があるってことはもちろん相手も選べるわけなんですが、その恋の相手を攻略対象と総称するんです。ヴェルナー様もその一人なんですよ」
「……ふうん。攻め落とす対象という解釈も、あながち間違いじゃないってわけね」
「あながちっていうか正解ですね、主人公から攻めないといけないし。で、攻略対象は他にも居て――」
……フローリア曰く、この物語の攻略対象は全部で五人いるそうだ。
まず一人目に、このルーンベルグ王国の第二王子であるフェリクス・エーベルヴァイン。
次に、先ほども名前が出たヴェルナー・アインフェルト。隣国であるグロウシュタイン王国の侯爵家の嫡男だ。
三人目、フーバルト・アレンス。大商人の息子で、私にとっては昔馴染みの存在でもある。
そして四人目は、一つ下の学年ののギルベルト・ベッセル。ルーンベルグ王国騎士団長の次男坊。
そこまで紹介を終えると、フローリアは笑顔でカミルを指さした。「人に指をさすなんて」と口を出す間もなく、彼女は続ける。
「最後に、カミルくん。この五人が攻略対象で、主人公はこの中から一人を選ぶことになります」
「はぁ」
カミルは興味がないのか、あるいは思考が追い付いていないだけなのか、ぴくりとも表情を変えない。
しかし一か所、恐らくは私と同じところが気になっているのか、うきうきとした様子で話すフローリアへと視線を向けた。
「ちなみに、主人公っていうのは誰なんだ?」
……そう。カミルとフーバルトはともかくとして、他の三人の立場を考えると、この物語の主人公の地位は相当のものだ。この国の第二王子、隣国の侯爵家の嫡男、王国騎士団長の次男、その全員と釣り合っている女性。はっきり言って、真っ先に浮かんだのは私、ダイアナ・ハルトリングだった。
と言うか、考えるまでもない。何故って、第二王子のフェリクス様は私の婚約者なのだし――
「フローリアだよ。つまり私」
「嘘おっしゃい!」
温室中に、私の悲鳴にすら近い絶叫が響き渡った。