01 悪役令嬢の目覚め
「旦那様! ローザ様が、……ローザ様が、目を覚ましました!」
感極まった涙混じりの声が、起き抜けの鼓膜を揺らす。脳内は未だ微睡に包まれていて、視界には靄がかかり、「んん」と漏らした声は僅かに掠れている。喉がひりついていて、体はひどく重い。久しく味わっていなかった、つい昼過ぎまで眠ってしまった日の目覚めのような。
もう随分長い間聞いていない名前を必死に呼ぶ女性の声で、徐々に意識が覚醒していく。緩慢な動作で上体を起こせば、私物とは明らかに違うネグリジェの色と袖口の形状に、ようやく違和感を覚えた。
「ローザ! 目が覚めたのか! ああ、よかった……!」
顔を上げると、やつれた表情で目に涙を浮かべる、親ほどの年齢の男性が視界に飛び込んできた。何度か目を瞬かせてから、ゆっくりと周囲を見回す。知らないネグリジェ、知らない男性、……そして、知らない部屋。
壁に立てられた姿見に視線を移す。鏡に映るウェーブのかかったミストグレーのセミロングヘアは、丸く柔らかい印象を与えるスカイブルーの瞳は、確かに記憶の中にあって、けれど久しく見てはいなかったそれだ。私は鏡の中にいる少女を知っている。そう、彼女は――
「……っ、ローザ・ファインハルス……!?」
うん? とベッド脇で屈んでいた男性が怪訝そうに眉を顰める。
「どうしたんだ、ローザ。自分の名前をぼやいたりして」
自分の名前。
頭の中で、その言葉を反芻してみる。
(……私の、名前?)
そんな筈はない。ローザは休学中のクラスメイトの名であって、私の名ではない。
――私の名は、ダイアナ・ハルトリング。名門貴族であるハルトリング家の侯爵令嬢だ。
ローザ・ファインハルスは、ファインハルス子爵家の令嬢である。学院の教師は休学の理由を曖昧にしか語らなかったが、彼女が屋敷に押し入った賊に襲われ、今も昏睡状態が続いているという話は瞬く間に学院中へ広がった。ファインハルスの屋敷は学院からそう遠くない場所にあったから。
……なのに、何故。
いや、違う。たった今、ローザは目を覚ましたのだ。起き抜けに聞いた侍女の声と、部屋に飛び込んできたローザの父――ヨーゼフ子爵の反応からして、きっとその推測は当たっている。
どう反応すればいいのか分からなくて、私は米神が鈍く痛むのを感じながら「お父様、今の時刻は?」と問う。返された答えに私はほっと息を吐き、ふらつきながらもベッドを降りて立ち上がった。
「ロ、ローザ!? まだ安静にしていた方が……」
「そんな余裕はないわ。学院へ行くから、馬車の用意をしてくださる? 迎えは結構よ、用事があるから」
「ええ~? 今日はゆっくり休みましょうよ、お嬢様。まだ体調も万全ではないでしょう?」
「何度も言わせないで、すぐに馬車の支度をなさい。お父様、身支度をしますから、一人にしてください」
侍女は肩をびくつかせて「は、はい!」と部屋を飛び出し、ヨーゼフ子爵も困惑しきった様子で部屋を後にする。扉が閉まる音を聞き届けて、私はクローゼットのハンドルに指を掛ける。決して冷静な訳ではないが、まずは自分が、ダイアナがどうなっているかを確認することが最優先だ。
制服がかけられたハンガーを手に取り、紺のワンピースを手早く身に纏う。ドレッサーチェアに座ってリボンを結んでいると、背後からノック音がして、返事を待たずに侍女が入ってきた。勝手に入って来るなんて有り得ない、と指摘しようと思ったが、先ほどの口調といい気心の知れた間柄なのだろう。ローザがその振る舞いを許していたのが信じられないけれど。
侍女は後ろに立って、器用に私の髪をセットしていく。ローザと私では髪の長さが大きく異なり、うなじの少し下を擽る毛先にどうにも違和感があったが、セミロングの髪は侍女の手でサイドテールにまとめられた。蝶を象った金細工の髪飾りに、そう言えば彼女はこんなものを付けていたな、と思い出す。
黙ってドレッサーの鏡をじっと見つめる私に、侍女は心配そうな面持ちで声を掛けてきた。
「お嬢様、本当にどうされたんですか?」
「……別に、何でもないわ」
――それから、私はあなたのお嬢様じゃないわよ。
なんて言っても、きっと正気を疑われて終わるだけだ。私は鏡の中にいるローザを見たくなくて、両の目を固く瞑った。