子育ては果てなき戦い
出産から約一週間。産褥も落ち着いて退院し、久々の家だ。20代前半にしては立派な都内2LDKマンションのドアを久々に開け、買ったばかりのベビーベッドに寝かしつける。
「空ちゃん~、ここが空ちゃんのお家だよ~」
「キモい喋り方するな。クソ勇者」
相変わらずつっけんどんな魔王。
「あのさ……そういうのやめね? 空がお前の喋り方を真似したら絶対幼稚園で苛められるぞ」
「……それも一理あるな。勇者の言うとおり、子供の前では罵詈雑言は控えるようにしよう」
「いい加減俺の事を勇者って呼ぶのもやめろ。空がそれで俺の事を覚えたらイタい子供みたいになるだろ」
「……わかったよ……燐」
「昔みたいに『燐くん♥️』って呼んでくれてもいいんだぞ」
萌菜が閻魔業火を纏わせている。やばい。調子に乗りすぎた。
「……ごめん」
「わかればよろしい。燐」
この瞬間、我が家の序列が完全に決まった。
「あと燐。私、明日から職場に復帰するから」
━━━え?
「お前みたいな福利厚生の充実した税金泥棒と違って私の会社は育休制度もないベンチャー企業なのだ。人手も足りないし、お前が育休を取るのなら私が復帰しても問題ないだろう」
なにその警察官に対する偏見は……あ、前世では取り締まられる側だったからか。
「何も明日からじゃなくても……せめてもうちょっと休んでからでもいいんじゃないか」
「お前は何もわかってないな。産休すらも有給休暇で消化している私がこれ以上休めばいざというときの有給すら無くなってしまう。それに、お前のしょっぱい育休手当だけじゃ貯金も積立てもろくに出来ないだろう。この子が大学に進学するまでにどれだけの費用がかかると思っているのだ。これ以上無能さをひけらかすのはやめにしろ」
罵詈雑言じゃなくなった分、理詰めで心を追い詰めようとする感がエグい……。でも確かに子供の将来を見据えたらそうなるか……まぁ魔王こと萌菜と四六時中一緒でギスギスするよか空と二人きり、の方が良いかもしれない。
「そこにやるべき家事とミルクの作り方、風呂の入れ方、オムツの変え方など、入院中にまとめたノートがある。明日からそれを参考に励むように」
「はい」
………………………………………………
そして翌日。
「いいか。空にもしものことがあったらお前を焼き付くすからそのつもりで育休に励め」
「はいはい。忘れ物とかないか?」
「腑抜けのお前と違って昨日から入念にチェックしている。あと、溜まった仕事があるからしばらく遅くなるからそのつもりで」
「了解しました。いってらっしゃい」
「━━━……マジで頼んだからな?」
萌菜の姿が消えるなり、さっそく空につきっきりになる燐。ずっとすやすや寝てる。かわいいなぁ。と、思ったら目が覚めて泣き出した。うわあ、どうしたら、いや、これはオムツか? 授乳か? オムツをめくるが湿っていない。ということはミルクか。さっそくミルクを作って飲ませる。産まれて間もない赤ちゃんは首が据わってないから抱っこするときも要注意だ。ミルクを飲み終えると、またすやすやと寝息をたて始める。赤ちゃんとの距離が近いと父親になった実感が湧くなあ。……そうだ、やることリストをチェックしないと焼き殺される。
・掃除、洗濯、炊事
・風呂、トイレ、排水溝の掃除
・曜日ごとのゴミ出し
・消耗品の補充←トイレットペーパー、ティッシュ、洗剤類の残量を確認!
・観葉植物の水やり
・水出し茶の作成
・冷蔵庫の整理←要・期限切れ食品の処分
・布団干し
・買い出し←近所のスーパーでチラシ参照の特売品を買うこと。無駄な支出は控えるように
・etc……
……多すぎだろ……ってかあいつ、身重の身体で毎日こんなにやってたのか、すげえな、と感心していると、また空が泣き出した。……便の臭いがする。オムツだ、と思って開いてみたらびっくり。背中までブツが到達していた。さっきオムツを開いたとき、どうやらオムツの当て方が悪かったようだ。オムツ変えのみならず、全身更衣をするはめに。馴れない赤ちゃん服の着せ替えに四苦八苦。全て負えるまでに三十分はかかっただろうか。
しかし、まだ泣き止まない。ミルクでもないらしい。しかしそれでも泣き止まない。どうしたらいいのか。抱っこしてゆらゆらしていると、どうやら寝てくれたようだ。かなり長い時間泣いていたような気がする。
気がつけば昼を回っていた。やるべきことリストはまだ全然出来てない。とりあえず洗濯だけはしないと、と洗濯機まで向かう間にまた泣き出した。今度はミルクのようだ。なんだこれは。家事などやる暇もないではないか。ようやく寝たかと思えば起きて泣く。泣く原因がいまいちわからないからこちらも不安になってくる。買い物に行く暇もない。気がついたら夕方だ。せめて洗濯だけでも……
「ただいま帰ったぞ」
ドアが空く音と同時に萌菜の声。嘘だろ……しばらく遅くなるはずじゃ……
「どうやら心優しき同僚が産休中の私の分の仕事をこなしていてくれたようだ。お陰で定時に帰ってくる事が出来たが━━━」
家の中の様子を見て全てを察したようだ。洗濯物の山、出していない燃えるゴミ、カラカラの観葉植物の水受け皿。
「だって……空がずっと泣いて……俺だって何で泣いてるかわかんないし……」
まずい、堪えていたものが溢れだしそうに……
「やめろ。父親まで泣いたら空も不安がるだろ。そもそも家事に不馴れなお前が最初から空の面倒を見ながら全部出来ると思ってない。だからみっともない顔を見せるな」
……意外だ……魔王の萌菜からこんな言葉が出るなんて
「但し、次は無いと思え」
やっぱり魔王だ……
萌菜が空の様子を見ると、頻繁に泣き出す理由を一発で言い当てた。
「オムツの当て方が悪いな。これだけキッチリ閉めてしまうと空にとっては窮屈で仕方がない。指一本か二本が入るくらいのゆとりを持って当ててやることだ」
「━━━勉強になります」
「……なんにせよ、空に危険がなかっただけで良しとしよう。きちんと父親として、何が一番大事なのか理解していただけでも誉めてやってもいい」
萌菜は手慣れた手つきで洗濯物を片付け、掃除機を当ててさらりと家事をこなしていく。流石にご飯は間に合わないので店屋物を取り寄せたが、主婦様々だ。これだけのマルチタスクをいともたやすくこなすとは。
「まあ、今生では私の方が上だということだな」
「……すぐ追い付いてやるし」
翌日からは十分までとは言わないが、初日ほど手こずることもなく一日を終えることが出来た。慣れてきて、空を風呂に入れる余裕も出てきた。一ヶ月検診も問題なく過ぎ、空も順調にすくすくと育っていった。