働き方改革の贄
燐の所属する生活安全課生活安全対策係は市民の生活に直前影響を及ぼす事案に対応する事が仕事だ。時には街に出て非行少年を補導したり、万引き事案に対応を行ったり、防犯教室を行ったり━━━これはこれでやりがいのある仕事でもある。
「でもやっぱり刑事とか華やかな仕事に憧れますよね、立花先輩」
「刑事になると二十四時間三百六十五日プライベートが無いと思ったほうがいいぞ。重大犯罪が起これば深夜であろうが容赦なく呼び出されて解決まで家に帰れないからな」
と、言うのは燐の実体験から。燐は警察学校を出て間もなく刑事課に配属され、馬車馬のように働かされてきた過去を持つ。結婚と萌菜の妊娠を機にプライベートの時間が確保しやすい生活安全課に移動したのだが。
「でも刑事時代の立花先輩って凄かったんでしょ? 次々とデカいヤマ上げて刑事課長からも絶大な信頼を得ていたとか」
前世が勇者だったからだろうか。身を削って犯罪捜査に取り組むことは嫌いではなかった━━━もっとも、前世では最大級のヤマが今めちゃくちゃ近くに居るのだが。
「お疲れ様。立花巡査部長、ちょっといいか?」
と、燐が木野内課長に呼び出された。いつものようにどこかの課への応援か、と思ったら、
「警視庁でも働き方改革が槍玉に上がってね、所属警察官のプライベートを充実させている実績が必要なの。そこで丁度子供が産まれたばっかりの立花巡査に『育児休暇』を取ってほしくてね」
育児休暇……?お、俺が……?
「今、うちの課も十分過ぎるくらい手が足りてるし、せっかく産まれた我が子の成長も身近で見たいでしょ? 今は男もどんどん育休を取るべきだと思うの。大丈夫。育休を理由にキャリアが妨げられる事にはならないから」
と、いう理由で俺は今日から一年間の育児休暇を取ることになってしまった。いや、取るのはいいのだが、あの魔王である萌菜がずっとそばに居ると考えたら……争いにならない筈がない。
「で、仕事場を追われてのこのこと帰ってきたということか」
入院中の萌菜は空を抱きながらこう俺に投げ掛けてきた。まるでクビになったような言い方だ。
「仕方ないだろ。警視庁だって働き方改革に取り組んでるアピールをしなきゃいけないんだし」
「ならば去れ。お前の顔を見ると産褥が悪化する」
「……あっそう。お前の事は別に……だけど空の側に居たいから」
鉛のような空気が病室に満ちる。ふと、燐が萌菜が少しやつれた様子だった事に気がつき、
「……お前、あんま食べてないんじゃないのか」
「……まだ体力が回復してないだけだ……お前が視界に居ると余計に滅入る」
燐はそっと萌菜の側から離れる。産後の肥立ちの悪さだけではなく、萌菜には産後うつの傾向があった。前世で魔王だった私が子育てなど出来るのか、母として上手くやれるのか、など、胸中は不安でいっぱいだった。前世は魔王とはいえ、今生では生身の人間。中身も生身の人間。さめざめと泣きたい時もある。そんな時だった。とてもいい香りが広がる。萌菜が香りの漂うところに視線をやると、
「━━━キッチン借りて作らせて貰ったよ。だし入りの玉子お粥。つわりが酷いときでもこれだけは食えたろ」
決して料理が上手とは言えない燐だったが、萌菜がつわりでろくに食事も取れない時はよく簡単に出来て喉に通りやすい玉子お粥を作っていたのだ。燐が萌菜の口元に匙を持っていこうとするが、食べない。
「あっそう。じゃ、俺たべるけど」
「食わないとは言わない」
と、俺の手からお椀と匙を奪って食べ始めた。前世での記憶を取り戻したからといって燐と萌菜の記憶が消える訳ではない。きっと俺の事を好きだった記憶も残ってる筈━━━
「出汁が薄い。作り直せ」
……筈だと思うんだけどな……
寂しげに病室を後にする燐であったが、萌菜の表情から先ほどのような不安に満ちたものは無くなっていた。