#1 憂鬱な雨
森の中では、音がよく響く。風が木の枝を揺らす音、小さな獣が駆ける音、鳥の羽ばたき、川のせせらぎ。そして、雨の音。
そんな音に耳を傾けていたからだろうか、セクエはぬかるみに足を取られて危うく転びかけた。
「セクエっ!」
とっさに伸ばした手をバリューガに掴まれ、セクエはなんとか体勢を直す。足元で、セクエが踏みつけた泥の塊が斜面の下へと崩れ落ちて行った。
「気をつけろよ。ただでさえ道が狭いのに、雨でぬかるんでるんだから。」
「うん…。ごめんね、気をつけるよ。」
セクエは答えた。サァー、という雨の音が、まるで耳鳴りのように絶え間なく続いている。外へ出ても体が少し湿る程度の小雨だ。二人は今近くの山へ薬草を取りに来ていた。
バリューガは斜面の下側を覗き込む。下には川が流れていて、木々の隙間からその様子が伺える。
「ずいぶん雨が続いてるけど、川はあんまり荒れてないみたいだな。」
「…そうだね。でも、少し濁ってるみたい。」
「まあ、これだけ雨が続けばなぁ。」
セクエは川から視線を逸らし、斜面の上を見上げた。獣の気配はない。だが、斜面の上の方からパラパラと小石が転がる音が聞こえる。
「……。」
「セクエ、どうした?薬草が生えてる場所はまだ先だけど…。」
不意に立ち止まって斜面を見上げたセクエを心配したのか、バリューガが不安げに声をかけてくる。
「ごめん、バリューガ。今日はもう帰ろう?」
「構わないけど…。足、痛めたか?」
「ううん、そういうんじゃなくて。なんて、言うのかな…。」
セクエはだんだんと不安になり、斜面を見上げたまま呟いた。
「山が、怒ってるみたい…。」
ーーーーーー
一件の後、セクエはバリューガと共にシェムトネへと戻り、母親が住んでいた小屋で暮らし始めた。住んでいた小屋といっても、それはかなり古くあちこちが傷んでおり、とても住めるような状態ではなかったため、ほとんど建て替えたようなものだ。
その際驚いたのは、村の人たちが自主的に手伝いを申し出た事だ。セクエが罪人という扱いを受けていたのは昔の事とはいえ、それを覚えている人はまだ多いだろうし、魔力を失い、さらに剣使いと共にいる自分に手を差し伸べることなど、あり得ないと思っていたのだ。
魔力を失ったセクエは、魔法を使う事も、魔力を察知する事もできない。そのため読心術も使えないセクエは村の人たちがなぜそんな事をするのか分からなかったが、少しでもその恩を返そうと、母の後を継いで治療院を始めた。セクエは魔法薬など作れないので、母親が残した記録を元に薬草から薬を作っている。村の人たちははじめは魔法薬でない薬の効果を信じていないようだったが、それでも母の残した調合であることを伝え、実際に処方された薬に効果があると分かると、そのような声も聞こえなくなった。セクエは知らなかったが、母親は生きていた頃はかなり優れた薬師であったらしい。
薬の調合が書かれた紙切れを片手に、セクエは作業の手を止め、窓の外で降り続ける雨を物憂げに眺めていた。そして何度目になるか分からないため息をつく。
雨が降り始めてから、どれだけ経つだろう。もう十日くらいにはなるだろうか。雨は激しくなっては大人しくなるのを繰り返しているが、日常を送る上で困ることはほとんど無い。強いて言えば、少し肌寒く感じることと、地面がぬかるんでしまうことだろうか。雨が弱まっている時なら外に出てもほとんど濡れないし、今のところ川が氾濫する様子もない。
だが、セクエが暮らしている小屋は村からは少し離れた場所にある。だから、村への行き来が少し面倒になったのは事実だ。ぬかるむ地面を歩くのは疲れるし、服が汚れやすい。村の人たちも同じようなことを考えるのか、雨が降り出してからは滅多に人が来ることはなくなった。
人が来ないのは寂しい。その上雨が降っているとくればだんだんと気が滅入ってくる。だが、セクエのため息はそれが原因ではなかった。
首を小さく横に振って、嫌な考えを振り払う。セクエは手に持った紙を片付け、薬の入れられた瓶を棚に戻す。その棚には調合通りに作られた薬のほかに、乾燥させた薬草や魔法薬の瓶なども並んでいた。
セクエは一人では魔法薬を作ることはできない。だが、魔力さえあれば魔法を扱う事も、簡単な魔法薬を作る事もできた。もちろん、それらの魔力はティレアなど、村の人たちから分けてもらったものだ。グアノからピドルの作り方を教えてもらい、その扱いにもだいぶ慣れてきたところだ。
机に戻り、頬杖をつく。近くでその様子を見ていたバリューガが呆れたように声をかけてくる。
「どうかしたのか?最近落ち込んでることが多いみたいだけど…。」
「ううん…、大丈夫。もうすぐグアノ様が来る頃だから、落ち着かないだけ。」
そう言って、バリューガに微笑んでみせる。セクエは机の上に広げたままになっている手紙に視線を落とした。これはつい先日、グアノが魔獣のナウスを使って送ってきた手紙で、近いうちに村に寄るという旨が綴られている。なんでも、最近によった町でとある少年と出会い、一緒に旅をしているのだそうだ。雪が降って村への行き来が難しくなる前に、その子を自分たちに紹介したいらしい。
「ああ、その子のこと?」
バリューガは少し安心したように、セクエの近くに椅子を持ってきて逆さに腰掛けた。ちょうど手紙を覗き込むような姿勢だ。
「確かに楽しみだよな。あのグアノさんと一緒にいるのって、どんな子なんだろうな。」
『あの』、という言い方に、セクエは苦笑する。実は、グアノが一人で旅をすると言い出した時、バリューガはそれに同行させて欲しいと頼んでいたのだ。以前に少し話していたが、バリューガはいまだに思い出せずにいる自分の故郷や家族を知りたがっている。世界中を回るというグアノに同行できれば、それを探しに行けると思ったのだろう。だが、グアノはバリューガにセクエの側にいるように諭し、一人で旅に出てしまった。バリューガはきっと、グアノが人付き合いを嫌う人だと思っているのだろう。バリューガはそれを理由にグアノを嫌っているというわけではないが、グアノについて誤解があることをセクエは少し歯痒く思っていた。
グアノは仮面をつけていた頃の癖なのか、あまり感情が表情に現れない。その上口数も決して多くはなく、多くのことは頭の中で考えているだけで、それを周りに伝える事もあまりない。自分の呪いの主であるとはいえ、セクエだってグアノが何を考えているか分からない時もあるのだ。それでも、グアノが心優しい人であること、他人から誤解を受けやすいこと、そしてそれを訂正しようとはしないくせに、精神的に脆い人であることは分かっているし、理解しているつもりだ。そうでなければ、呪いを解くために、世界中を、たった一人で見て回ろうなど考えないはずなのだから。バリューガをシェムトネに残したのも、セクエの呪いを心配しているのは間違い無いだろうが、バリューガが着いてくる事の責任を負いきれないと考えてのことだろうし、一人で旅を続けるのはこれ以上自身の罪に誰も巻き込みたくないからだろう。
(罪、かあ。そんなに気にしないでほしいとは思うけど、私が言っても、きっと聞く耳なんて持ってくれないんだろうな…。)
きっとグアノにとっては、自分という罪人と、セクエという被害者、そしてその他の部外者しかいないのだろう。だから、どちらが言う言葉にも耳を傾けられない。周囲の優しさに甘んじることをグアノ自身が許せないのだ。
自分が犯した罪は自分で償う。その考え自体を否定しようとは思わないが、一人で償い切れる量には限度があると、セクエは思っていた。グアノは多分、背負いすぎている。
そんな物思いにふけっていると、突然、扉が開かれる音が聞こえた。セクエははっと我に帰り、駆け足で玄関に向かう。雨の中わざわざここまで来たのなら、何か大きな怪我をしたのかもしれない。それとも、大切な薬を切らしてしまったのだろうか。
「あっ…。」
そこにいた人物を見て、セクエは思わず声を上げた。そこにいたのはグアノだ。彼は特に慌てた様子も無く、雨で濡れた上着を脱いでいるところだった。グアノは仮面をつけておらず、セクエが来たと分かるとふっと微笑んで会釈をした。
「グアノ様…。」
「あれ?言ってなかったっけ。」
そう言いながら少し遅れてやってきたバリューガは、不思議そうな顔をしていた。
「山から戻った時に教えただろ?もう村のすぐそこまで来てるって。」
「そう、だっけ…?」
「そうだっけ、って…、だから手紙を見返してたんじゃないのか?」
正直、山から帰ってきた時のことはよく覚えていない。ぼんやりしていて、話をちゃんと聞いていなかったのだ。グアノはバリューガに視線を向けて言う。
「すみません。ここへ寄ると決めたのも、急なことでしたから…。」
「そんな、気にしないでくださいグアノ様。少し驚いただけですから。」
そう言ってセクエは微笑んだ。久しぶりの来客がとても嬉しい。
「ナウスはまた森の方へ行ってるんですか?雨の日くらい家に入ればいいのに…。」
そこまで言って、セクエはグアノの後ろに隠れるようにしてじっと立っている少年に気づいて声をかけた。
「あ、その子が手紙で言っていた子ですか?」
「あっ、え…えっと…。」
少年は困惑したようにグアノとセクエの顔を交互に見ている。それを見て、グアノは少年に微笑みかけた。
「二人とも魔法使いを知っていますから、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。」
少年はまだ少し戸惑った様子だったが、グアノの後ろから出てきてセクエを見上げた。
「えっと。僕、アロイっていいます!そのっ…グアノ先生と一緒に旅してますっ!えっと、それから、その…。」
少年は俯いて、遠慮がちに呟く。
「ま…魔法使い、です…。」
少年は何かに怯えるように、か細い声でそう言ったきり動かなくなってしまった。グアノは困ったようにセクエに視線を向ける。
「…以前、剣使いの町で厄介事に巻き込まれたことがありまして。まだ魔法使いである事をうまく隠せない事もあって、怯えてしまったんですよ。」
「ああ…そっか。シンシリアには剣使いが多いから…。」
シンシリアには魔法使いが少なく、魔法は一般に認知されていない。もちろん知っている者もいるが、ごく少数で、理解されているとはとても言えない。セクエはかがみ込んでアロイと視線を合わせると、できるだけ優しい声で話しかける。
「ここまで来てくれてありがとう。私はセクエ。ここで治療院をやってるんだ。」
「んで、オレがバリューガ。セクエの友達の剣使いだ。」
バリューガがセクエの隣に来て、同じように視線を合わせる。そして嬉しそうにアロイの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「グアノさんの連れてる子って、魔法使いだったんだなぁー!賑やかになりそうで楽しみだ。」
「わっ、や、やめてっ…!」
アロイは髪を乱すような撫で方が嫌らしく、その手を押さえようとする。バリューガはハハハッと笑って手を離した。アロイはやや不安げな目でバリューガを見上げていたが、その表情は少し安心したようにも見えた。
「この子っていくつ?オレ達よりは下だけど…。ヤーウィちゃんくらいかな?」
バリューガはグアノを見上げて尋ねる。グアノは思案するように顎に手を当てた。
「…そういえば、まだ年齢の確認はしていませんでしたね。」
「ええっ!一緒にいるのに?」
バリューガは驚いたように語気を強める。
「私も、あまり自分の年齢は気にしませんから…。」
「いや、グアノさんはそうかもしれないけどさ。まだ小さい子なんだし、誕生日とかは祝ってほしいだろ?」
呆気に取られているアロイをよそに会話を続ける二人を見て、セクエは立ち上がってやれやれとため息をつく。
「バリューガ、グアノ様。こんな所で立ち話していないで、中に入りませんか?濡れた服を乾かさないといけませんし、体が冷えたでしょう。何か温まるものを出しますよ。」
そして、アロイにも声をかけ、その頭に優しく手を置いた。柔らかい髪がわずかに湿って、ひんやりとしている。
「アロイ君も上がって。薬草と薬の瓶が置いてあるだけの、つまらない家だけどね。」