#9 さようなら
暗く、冷たい。
何も見えない真っ暗な場所に、グアノは横たわっていた。
(まずいな…意識を失ってしまったか。)
グアノは状態を起こし、唇を噛んだ。過ぎたことを気にしても仕方ない。今はとにかく、少しでも早くこの幻を振り払わなければ。魔力の消耗が大きくなり過ぎれば命に関わる。
グアノは立ち上がるが、やはり何も見えない。ただ真っ黒い空間が広がっているだけだ。
周囲をぐるりと眺め、警戒を強める。するとすぐに、首筋にぞわりとした感覚が走り、グアノは後ろに飛び退いた。
その瞬間、目の前が白く裂けたように見えた。だが、すぐにそれが切れ目ではないと理解する。
それは刃だ。白く光る刃が目の前を横切ったのだった。
グアノは腰に下げた剣を抜いて構えると、全身の神経を集中させる。明らかな敵意が、殺意が、自分に向けられているのが分かった。嫌な汗が頬を伝う。
今までこんな事はなかった。夢の中では、その黒くドロリとした感情はただそこにあるだけで、ここまで明確に意思を持って自分に向けられたことなどなかったのだ。
(何かが変わっている。私の心情の変化が原因か?…エルナンはこの呪いは不完全だと言っていたな。呪いが変質した可能性もある。)
目の前を睨みながら、グアノは考える。その暗闇に、ぼんやりと人影が見えた。輪郭は明確には分からない。だが、グアノはそれが自分自身なのだと分かっていた。
両手に二本の剣を持ち、そして顔には見覚えのある仮面をつけていたからだ。
(あの時に見た夢と似ている…という事は、これは私自身なのか…?)
夢に知らない人は出てこないと言われているが、幻覚魔法はそれと似ている。幻覚魔法は魔法を受けた者の記憶や感情に影響を受けやすいのだ。
(わたしは確かに、過去には縋らないと決めた。しかし、どこかでそれに抵抗を感じてもいる…。)
ぶつぶつと相手が何かを呟いているのが聞こえる。相手はこちらを見つめたまま剣を構えると、こちらに飛びかかってきた。グアノは片手の剣でそれを受け止めると、押し返す力を利用して相手から距離をとる。
(そしてその感情は…とても強く、大きい。)
押し返される力の強さで、グアノはその考えを確信していた。
(分かっている。私は本当はまだ迷っている。これが正しいのか、自信がない。他に方法があるんじゃないか、取り返しのつかないことをしているんじゃないかと不安で仕方がない。)
だが、それでも。ここで踏みとどまるわけにはいかないのだ。
グアノは剣を持ち直し、再び構える。
「…ふざけるな。」
ここでようやく、相手の言っている言葉が聞き取れた。
「……?」
その意味を理解する間もなく、相手が再び距離を詰めてくる。
「ふざけるな…ふざけるな…!」
画面に隠されて、相手の表情は読み取れない。しかし、その言葉には明らかな怒りが込められていた。
「その程度で、何かを成したつもりか?変わったつもりか?たったそれだけ、たったそれだけの言葉で、行動で!一体何が変わると言うんだ…!」
「くっ…。」
怒りに任せるような激しい攻撃。しかし力任せというわけではなく、グアノの隙、油断を的確に突いてくる。グアノは反撃の隙を見つけられず、ただ受けるので精一杯だった。
「そんな程度で変われるものか!力も無く!意志も無く!ただ他人に縋るばかりで何もできてなどいないくせに!」
「それでも…私は…。」
「ならば答えてみろ!その決意で何が変わった?何を得た?縋る相手を死者から生者に変えただけだろう!お前は結局…!」
強く、激しく繰り出される刃。恐怖心がじわじわと湧いてくるのが分かった。
(このままでは押し負ける…!)
グアノは一度距離を取ろうと後ずさる。しかしその瞬間、太ももに強い痛みを感じ、その場に倒れてしまう。足を切られたのだと気付いたが、その直後、自分の喉元に剣が突きつけられた。
「っ……!」
「結局、この程度だ。」
吐き捨てるように、侮辱するようにそう言って、相手はさらに喉に刃を押し付けてくる。
「分かるだろう。お前は何もできない。何も変えられない。償うどころか、罪を重ねるばかりで。守るどころか、他人に縋るばかりで。お前は何も…何一つできてなどいない……!」
画面越しにでも分かる、明らかな嫌悪。グアノはこの感情を知っていた。
(これが…私の『自己嫌悪』の感情、なのか……。)
対峙して初めてわかった。なんと大きく、強い思いだろう。確かにずっと自分の中にあったはずなのに、それを初めて見たように錯覚するほどだ。
「憎い。後悔を背負うばかりで何も償えないお前が憎い。他人に縋るばかりで、自分一人では何もできないお前が憎い。何もできず、何もせず、何も変えられず、何も変わらず、それでいて何かを成した気になっているお前が憎い…!」
剥き出しになった嫌悪が、悪意が、頭の中でこだました。何度も何度も、自分に言い聞かせ続けた呪いの言葉。それから逃れるためにただ一つ縋っていた過去を、自分は捨てようというのだ。ならば再びこの感情が自分に向けられるのも、当然の結果だったのだろう。
ああ、嫌だ。嫌いだ。直視しようとすればするほど、嫌なところばかりが目につく。いつまで経っても後悔は消えない。この劣等感も、罪悪感も、ずっとしこりになって自分の中に残り続けている。そして、自分はそれから目を逸らし続けるだけ。
「……ている。」
気づけばグアノは口を開いていた。
「分かっている。そんな事は。歯痒い。恨めしい。何をしても後悔する自分が。後悔のない判断を選べない自分が。過去を振り払うことも、背負うこともできない自分が…憎い。」
「……。」
「それでも、何もせずにいられない。そうして選んだ判断で、私はまた後悔を背負う。セクエの事も、陛下の事も、国を出た事も、旅に出た事も…アロイを助けた時でさえ。本当はずっと後悔している。何一つ、自分の決断を受け入れられない。みっともなく他人に縋る事しかできない…。」
胸の内から、黒い感情が溢れ出す。苦しい。こんな自分はもう嫌なのに、どうすればいいのかさえ分からない。ただただ嫌な感情だけが積もり、固まり、自分を押し流していく。出口がどこにあるのか、そもそも出口があるのか、迷っても迷っても同じ場所を巡ってしまう。
そんな自分が、大嫌いだ。
「ならばいっそ、終わらせてしまうか。」
相手が持つ剣に力を込めたのが分かった。このまま首をはねられれば、自分は終わるのだろう。苦しむ事も、悩む事も、後悔する事も、ないのだろう。
「……。」
だがそれでも。
「…アロイは。」
回らない頭で、言葉をつなぐ。吐き出された悪意が全身に絡みついて、胸の奥が苦しい。
でもこれは、嫌悪による苦しみではない。それを知っているから。だから、自分はまだ足掻ける。
「アロイは…こんな私に生きていて欲しいと、そう言いました。何も返せず、ただ縋るばかりの情けない私に、生きていてくれるなら何でもいいと。」
真っ直ぐに、相手を見返す。
「だから私は、生きたいのです。アロイのためだけじゃない。セクエ、タンザ、エルナン…私の力に、居場所になりたいと望んでくれた全ての人のために。私はあなたを振り払わなければならない。」
「そんな思いに何の意味がある。」
相手は強い口調で一喝する。
「そんな決意で、何が変わる。結局お前は変われないまま、周りに迷惑をかけるだけで、後悔を重ねるだけで…!」
「それでいいのです。それが、彼らの愛した私だというのなら。」
「貴様、まだそんな事をっ……!」
相手は怒りに口を歪め、剣を振りかぶる。グアノはただじっと、それを見つめていた。避ける必要も、受ける必要もない。
なぜ忘れていたのだろう。自分は魔法使いだという事を。
ガキィン、と耳障りな金属音が響く。粉々に砕け散った銀の破片が宙を舞う。グアノは立ち上がる。不思議と、足はもう痛くない。
「どんなに罵られても構いません。たとえどんな後悔を背負う事になろうとも、私は彼らのために生きたい。」
ゆっくりと、剣を構える。相手は折れた剣を片手にただ静かにそれを見ていた。
「私は醜く縋ることしかできない。自分が正しいと信じる事もできない。後悔など、数えきれないほどある。苦しくて苦しくてたまらない。しかし、この苦しみは…」
グアノは正面から、相手を睨みつけた。
「私が、彼らを愛している証なのです。彼らのためになりたいと思うから、彼らを救いたいと思うから、私は悩み、苦しんでいる。だからどんなに苦しくても、醜くても、手放すわけにはいかない。私が、手放したくないのです。」
「…その結果が、彼らを苦しめ、傷つけるとしてもか。」
「はい。」
言い淀む事なく、グアノは答える。
「彼らが、私に手を差し伸べるなら、光を与えてくれるなら。それに甘えて、醜く汚く生きる事を選びましょう。彼らが、私をまっすぐに見据えると言うのなら。私も二度と目を逸らさない…逃げたりなどしない…!」
両手に構えた剣を強く握り締め、グアノは相手を切りつけた。相手の体はボロ布のように呆気なく引き裂かれ、塵のように崩れて消えていく。
「…後悔するぞ。また。」
「今更です。それに…」
消えゆく自分自身から目を逸らさずに、グアノは口元に笑みを浮かべた。
「彼らが私を愛すのなら、私も私を愛してみたい。彼らの愛を、否定したくないのです。」
その言葉は、どこまで相手に届いただろう。何も無くなり、再び静かになった空間で、グアノは目を閉じた。
ーーーーーー
「グアノ!大丈夫か!」
大きな声で呼びかけられ、目を覚ます。目の前には、タンザの顔があった。今にも零れ落ちそうなほどの涙を溜めていたが、グアノが目覚めたと分かると、その顔は安堵にほころんだ。
「グアノっ…良かった。目が覚めたんだな…!」
そう言って、強く体を抱き締める。その力強さ、温かさを感じて、グアノは安心した。あの暗闇の中から、自分は抜け出せたのだ。
自分はまだ庭園の中にいた。首を回してあたりを見れば、すぐそばに墓石が立っているのが見えた。
「…ごめんな。」
タンザが口を開く。
「お前が戻るのが遅かったから、すぐに探しに来たんだ。魔力が減ってるのが分かったから、すぐに仮面をつけようとしたんだが…その…。」
申し訳なさそうに、タンザは言葉を詰まらせた。
「墓石の前に置いてあった仮面が、割れてて…。」
そう言って、タンザは仮面を見せてきた。中央から真っ二つに割れている。触れてみたが、魔力も感じない。魔道具としての機能はもう果たせないだろう。
「ごめんな、俺がもっと早くきてれば、間に合ったかもしれないのに…。」
グアノは少し呆然として、割れた仮面を見ていた。そしてゆっくりと上体を起こす。体が動かせる程度の魔力は残っているようだった。
「…タンザ。」
「どうした?」
「ありがとうございます。ずっとそばにいてくれたんでしょう?」
「えっ…」
タンザは面食らったように瞬きする。それが面白くて、グアノは口元をおさえた。
「どうしました?」
「いや、謝るかと思ったから。」
「…そうですね。」
グアノは立ち上がる。タンザも立ち、まだ少し不安そうにグアノを見ていた。グアノは墓の方に視線をやり、呟くように言う。
「甘えていたんです。罪を自覚してそれを背負い続ければ、それだけで何かを償えるような気がしていました。だから、何より先に謝る癖がついてしまっていた。…でも本当は、あなた達が私のそばにいてくれる事をずっと、ずっと嬉しいと思っていたんです。」
「……。」
グアノは墓石の前へと進み、タンザから受け取った仮面を再びそこへ置く。
「気づいていましたか?私はずっと、あの方を『陛下』と呼んでいました。あの方が亡くなった後、そう呼ぶべきはツァダル様だったのに。」
「それは、気づいてた。でも正式な場では言い間違えることは無かったから、きっと何か、お前の中で踏ん切りが付いてないんだと思ってたよ。」
「私の中で、陛下というのはあの方だけだったんです。私が仕えたのも、忠誠を誓ったのも、あの方だけでしたから。」
グアノはタンザを振り返る。
「でも…ようやくあの方を『リガル様』と呼ぶことができそうです。」
「…そうか。」
「帰りましょう。きっと、アロイとエルナンも待ってくれているはずですから。」
「そうだな。」
タンザは入口に向かって歩き出す。グアノもそれを追って歩き出したが、途中で一度だけ、後ろを振り返った。
木の根元にぽつんと佇む墓石が、やけに寂しそうに見えた。
「さようなら。リガル様。」
グアノは呟き、墓石に背を向けた。




