#6 追い続けたその背中は
その一日を、グアノは抜け殻のように過ごした。体はだるく、起き上がる事もままならない。アロイが食事はどうかと声をかけてきたが、それさえ一人にさせてほしいと断った。
お前が勝てるわけがない。エルナンのその言葉が頭の中で何度も巡っていた。
(ならば、どうしろというんだ?)
このまま、緩やかな死を受け入れる他はないのか。死が近づいていると知ってなお、何もせずに受け入れろというのか。
(それでは駄目なんだ…それでは、私の罪は…。)
結局償えないまま終わるというのか。何も変わらないまま、何も終わらせないまま。ならば自分は、何のために旅に出たというのか。
脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。自分がただ一人仕えた、主人の顔。優しく微笑むその顔を忘れたことは、一瞬たりとも無かった。
(あなたの最後の命令を、私は果たしたかった。あなたの残した罪を、この身を賭してでも償いたかった。私は…)
目頭が熱くなる。目元から流れた雫が耳のほうへ流れていくのが分かった。
ーーーーーー
気づけば辺りは暗くなり、部屋に備えられた灯りがぼんやりと部屋を照らしていた。
「…ねえ、先生。」
おずおずと、アロイが声をかけてくる。グアノは視線を向けた。
「今日、一緒に寝ても、いい…?」
消え入りそうな声を聞いて、グアノはハッとした。
(そうか。今日はずっと一人だったのか。)
いくら自分の事で手一杯だったとは言え、ここは慣れない土地で、一人で街を見て回るのは怖かったのかもしれない。だとしたら退屈だっただろうし、寂しい思いをさせてしまった。
「構いませんよ。」
そう答え、グアノは片手で毛布をめくった。アロイは遠慮がちにベッドに上がる。一人用では狭いかもしれないと思ったが、アロイはまだ体が小さく、布団の中にすっぽりと収まった。
「…申し訳ありません。一人きりにしてしまいましたね。カロストに着いたら、魔法を教える約束をしていたのに。」
「……。」
グアノは声をかけたが、アロイは答えなかった。
「アロイ…?」
「なんで…」
絞り出したような小さな声は、震えているように聞こえた。
「なんで、そんなに普通でいられるの?先生、このままじゃ死んじゃうかもしれないのに……。」
アロイは枕に顔をうずめていた。
「父さんも、町のみんなも、気づいたらずっと遠くに行っちゃった。明日も会えるって思ってたのに、いつの間にか二度と会えなくなっちゃった。僕、みんなのこと…ずっと大好きだったのに…でも、もう会えない……!」
しゃくりあげる声を抑えようとして、その背中が震えていた。
「僕、魔法なんて教えてくれなくたっていい。もう旅が続けられなくたっていい。先生が生きててくれるなら…何でもいいよっ…!お願い、置いていかないで。もう僕のこと、一人ぼっちにしないでっ……!」
グアノはその小さな背中に、そっと手を添えた。ううー、と声を漏らしてアロイは泣き出す。その泣き声が小さな寝息に変わるまで、グアノは優しく背をさすっていた。
ーーーーーー
その夜、グアノは夢を見た。グアノはそれが夢であると気付いていた。夢の中では、二人の人物が会話をしている。いや、それは会話とは呼べないのかもしれない。ただ一人が話しかけ、もう一人はそれを聞いているだけだった。
その二人を、グアノは知っているような気がした。だが、その姿はぼやけていて、誰なのかが分からない。
『なぜなのですか?』
一人が話しかける。その声も聞き覚えがある気がしたが、話した内容は分かるのに、その声が誰のものなのか、どんな声なのか分からなかった。
『なぜ、あなたは呼びかけてくれないのですか。教えてくれないのですか。頼ってくれないのですか。一人でいようとするのですか。』
まくしたてるように、その一人は言葉を並べた。その声は悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえた。
『頼りないからですか?この身が弱いからですか?あなたに釣り合わないからですか?どうして、どうして隣に立つことを許してくれないのですか。』
膝から崩れ落ち、顔を手で押さえる。その仕草は泣いているように見えた。
『あなたの力になりたいのです。あなたの隣にいたいのです。あなたが苦しんでいるのを、もう見たくないのです。何が足りないのですか。何が悪いのですか。どうしてそれすら教えてくれないのですか……。』
(ああ、これはきっと、私だ。)
グアノはそう思った。泣き崩れ、言葉を並べているのはきっと自分自身だ。そして先ほどからずっと黙って話を聞いているのは、きっと…。
(リガル陛下…なのか。きっと寝る前に思い出してしまったからだな。)
グアノは複雑な思いでその様子を眺めていた。
リガルがなぜ自分を頼ってくれなかったのか。なぜ自分に真実を話してくれなかったのか。なぜ、自分が彼の真意に気づけなかったのか。ただただ疑問を並べることしかできなかった。
そしてそれは、今もずっと変わらない。
(陛下は…なぜ…。)
『…守りたかった。』
唐突に、ずっと黙っていた一人が口を開いた。
グアノはハッとする。その声は先ほどまでの声とは違っていた。それがどんな声なのか、誰の声なのか、すぐに分かった。
(これは…私…?)
その瞬間、まるで霧が晴れたように、グアノは目の前にあるものを理解した。顔が、声が、その全てが、一体何であるのかを。
(私と…セクエ……?)
急に目の前に突きつけられたそれを、グアノはどう受け取ればいいのかが分からなかった。怖気付くように数歩後退り、呟く。
「違う…。私はただ、セクエを…。」
『巻き込みたくない。傷つけたくない。苦しめたくない。ただ、それだけだった。』
「違うっ……!」
振り払うように、グアノは叫ぶ。目の前の人物、もう一人の自分自身が言葉を口にするたびに、その姿がリガルと重なった。なぜ、なぜ、と縋るセクエが自分のように見えた。
(私はただ、セクエをこれ以上巻き込みたくなかった。だから何を言われようと、頼りたくはなかった。これ以上負担をかけてはいけないと、ただその一心で…。)
『だから、その手を振り払い、見て見ぬ振りをした。己の事は、己だけで背負おうと。』
(違う…私は…私は……。)
突きつけられる現実。続く言葉が出てこない。
分かっている。何も間違ってはいないのだ。
何も間違えていない、はずなのに。
間違いなく、間違っている。
…そう、間違っているのだ。
この思いが、選択が、どんな結果をもたらすのか、気づいてしまった。
いや、気づいたのではない。ずっと前から、知っていた。
この苦しみも、後悔も、忘れたことは一度もなかったのだから。
『…お前はずっと、背負い続けていたのだな。』
背後から声がする。振り返ることはできなかった。俯き、両手を握りしめる。その手が震えていた。
「おやめください…。」
『あの時、もっと早く誰かに…お前に、頼れていたなら。誰の目も気にせず、くだらない自尊心に振り回されず、助けを求めることができていたなら。お前をここまで苦しめることなど、無かったろうに。』
「違います…。違う…はずなのです。私が、私がっ……。」
グアノは両目を閉じる。瞼から雫が垂れたのが分かった。
「私が気付けていれば…こんな事には…!」
『お前はもう気付いているだろう。』
「それでもっ……!」
グアノは振り返る。そこにいた彼は、涙に滲んだ視界では顔さえはっきりとは見えなかった。だがグアノは分かっていた。自分がその声を聞き間違えるはずなどないのだから。
「私はあなたに救われた!あなたの優しさに、力強い言葉に!それが間違っていたなんて、そんな事は思いたくないのです……!」
溢れ出す涙を、拭うことさえできない。ぼろぼろと涙をこぼしながら、きっと酷い顔をしているだろうと思いながら、しかし視線を逸らす事はできなかった。こうやって言葉を並べる他に、一体何ができるというのか。
「私は、あなたのようになりたかった…!あの日、私に手を差し伸べたあなたのように…ただ…」
言葉が、消え入りそうなほどに弱くなる。グアノはがくりとうなだれ、膝をついてその場に崩れた。
「ただ優しく……ありたかった……。」
跪くような姿勢のまま、グアノは視線を上げることができなかった。
ずっと頼り、縋り続けたただ一つの縁。それが否定されてしまった。何もかもが跡形もなく消え去ってしまいそうで、自分自身さえ残らなくなりそうで、ただただ怖くて。
涙を流す以外に、何もできなかった。
「私はあなたに、何一つ返せなかった…。あなたにふさわしくなることも、できませんでした…。ならばせめてと、あなたの背をずっと…ずっと追い続けていました…。なのにそれさえ、間違いだったなんて…!」
『…グアノ。お前は、私のようになる必要はないのだ。』
そう呟くリガルの声は、ただ優しかった。そしてグアノのそばに寄り、その肩にそっと手をかけると、そのまま強く抱きしめた。
『お前はお前のままでいい。周りにいる者たちの声を聞き逃さないでくれ。私のこの過ちを、どうか繰り返さないでくれ。それが私の、せめてもの願いだ。』
ぐしゃぐしゃになった顔を、その肩にうずめた。こうして誰かに抱きしめられたのは、いつ以来だろう。
グアノはその優しさに抱かれながら、強く唇を噛みしめた。




