#5 終わりを望む者
冷たい笑顔。
それは、男の暗い瞳と相まって、思わず背筋が凍るようで、不自然なほどに安らかだった。
グアノは、かつてまだ兵士として魔導国にいた頃、似たような表情の罪人を相手にしたのを思い出した。その罪人は、病に犯された母親を手にかけたのだ。もう苦しむ様を見たくない、これ以上母親が苦しまないようにと。
(この笑みは…安堵だ。解放されるために、何かを諦めた者の笑み。自分にとって大切だった、何かを…。)
「私は、終わらせたい。」
「…何を?」
「私を。」
真っ暗な瞳が、グアノを見据えていた。自分は今、どんな表情をしているだろう。頼りない星明かりでは、相手の瞳に映っているはずの自分の顔は見えなかった。
「もう誰も苦しめてしまわないように。罪を重ねてしまわないように。これ以上何を成したところで、私は過ちを繰り返すだけでしょうから。」
「それは…。」
グアノは言葉を濁す。否定する言葉が、浮かばなかった。
「ああ…良かった。」
男は心底嬉しそうにそう呟いて、グアノの胸元にそっと手を当てた。
「否定されるかもしれないと、思っていたんです。あなたと私は、同じのようで同じではなかったから。」
「……。」
「否定しないという事は、あなたもまた、同じ事を思っているのでしょう…?」
「……。」
何も言えなかった。肯定はしたくない。だが、否定もできない。つまりこれが、自分の本心だというのか。
(だから彼の目は、あんなにも冷たく、暗かったのか。私が見て見ぬふりをしたこの思いと向き合い、それを受け入れた結果が、彼だというのなら…。)
自分もいずれ、こうなるというのか。
「ああ、良かった…本当に……。」
男はうっとりと呟いて、グアノから手を離した。
「これでようやく…この夢を終えられる。」
「それはどういう意味ですか。」
男はグアノの問いかけには答えず、にこりと力無く微笑んだ。
「この夢の続きは、あなたが見てくださいね。」
「待ってください。だから、それはどういう…!」
グアノが口を開くと、パッと当たりが明るくなった。目が眩んで、グアノは目を閉じる。
眩しすぎて目が開けられない。その瞼のの向こう側で、男の声が聞こえていた。
「悪夢へようこそ、グアノ。」
ーーーーーー
「旅人様!」
大きな声で起こされて、グアノは目を開けた。ぐっしょりと、気持ちの悪い汗をかいていた。
「大丈夫ですか、旅人様。随分とうなされていた様子でしたが…。」
そう声をかけてきたのは、エシクスだった。朝日に照らされた彼の顔には不安が滲み出ている。すぐそばには、寝る前と同じようにナウスが寄り添っていた。
グアノは辺りを見回して確認する。間違いなく、自分が昨日までいた場所と同じだった。しかし、早鐘のように鳴る心臓は落ち着いてくれない。
(慌てることはない。ただの夢だ。そうだろう?)
荒い息を必死に抑えながら、胸に手を当てる。あの男に触れられた感覚が、まだ残っているような気がした。胃の中のものが迫り上がってくるような感覚に、思わず口元を押さえる。
気持ちが悪い。自分の内側がドロドロに溶けているのではないかと思った。口を開けば、それだけで吐き出してしまいそうだ。
「旅人様…?」
「いえ、大丈夫…です。」
口を押さえたままそう答え、大きく息を繰り返した。しばらくして落ち着くと、エシクスが口を開く。
「旅人様、お伝えしなければならない事があるのです。」
「なんでしょうか。」
「予定が変わりました。我々の読みが甘かったと言えばそれまでなのですが…。」
エシクスは表情を曇らせて言った。
「あの町に住む剣使いが、こちらへ攻めてくるようなのです。」
「攻める?なぜ。」
「話せば長くなります。どうかそれを聞かないではもらえませんか。」
「…分かりました。それで、私は何をすれば?」
「それなのですが…。」
エシクスは言いにくそうに、グアノから視線を逸らした。
「どうか、何もしないでいただきたいのです。」
「…は?」
思いもよらない言葉に、グアノは聞き返した。
「しかし、先程は攻めてくると…。」
「はい。その通りです。あの町の剣使いは、我々を一掃するために兵を上げるようです。そこでもし旅人様が我々の味方をすれば、もはや言い逃れはできなくなりましょう。」
「だから、何もせずにただ見ていろと。」
納得できずに、やや睨むような視線を向けるグアノに、エシクスはふっと微笑んだ。
「…あなたはお優しい方だ。我々の身を案じているのですね。」
「それはそうでしょう。経緯はどうあれ、あなた達に敵意は無かった。それに、あなた達がなぜここにいるのか知りませんが、あなた達にも持ち主がいるはずでしょう。ここにいるのは、持ち主の命令があったからではないのですか。ここでもし彼らに殺されてしまえばそれは…。」
「やはり旅人様は魔法使いなのですねぇ。我々の事をよくわかっていらっしゃる。ええ。それは、魔獣としての在り方に背く事。我々魔獣が、最も望まぬ事です。」
静かに、エシクスは言う。なぜか少しだけ嬉しそうに、小さな笑みを浮かべたまま。
「ですが、もう良いのです。我々はもう、生きずとも。」
「……。」
その笑みが夢で見た男の笑みと重なった。グアノは何も言えずに、ただエシクスのその顔を見ていた。
「どうか、自分の身を守る事を優先してくだされ。手出しさえしなければ、きっと誤解も解けましょう。」
グアノはその顔を見つめたまま尋ねた。
「…ひとつだけ。」
「何でしょうか。」
「あなたは当初、私が町へ入るための案があると言っていた。あの時、私に何をさせようとしていたのですか。」
「ああ、その事でしたか。」
エシクスはそう言って目を閉じ、何かを思い出すように続けた。
「あの町には、剣士と呼ばれる者がいるのですよ。町にいる兵士の中でも特に優れた者で、町の長からその印として腕章を与えられた者の事です。昔から習わしがあるのですよ。剣士に決闘を挑み勝負に勝てば、出来うる限りの願いをひとつ、叶えてもらえると。」
「…なるほど。合点がいきました。」
「本来ならば、そんな危険な事をさせたくはなかったのです。旅人様は武器を持っておられたが、それほどの手練れだとはお見受けできませんでしたので。ですから、この様な結果になったのは、むしろ思いがけない幸運でしょう。」
「そう…ですか。」
グアノは答えたが、納得はできなかった。だが、自分から言える事など無いのだろう。彼らが、それを認めているというのなら…。
(……。)
考えれば考えるほど、夢で見た光景が脳裏に浮かぶ。グアノが何も言えずに黙っていると、ムイラがこちらに向かって飛んできた。
「老。そろそろだ。」
「そうか…。いよいよ、なのだな。」
「こちらから向かっていいのか?」
「ああ。お前がそうしたいならそうすれば良いさ。私はここで待とう。動くにはもう、魔力が足りない。」
「老…。」
言葉を濁すムイラに向けて、エシクスは優しい笑みを向けた。
「なに、心配することなどないさ。お前は、いや、お前以外の者達にも伝えておくれ。どうか彼らを、迎えに行ってあげてほしい。ようやく彼らが、終わりを望んでくれたのだから。」
ムイラはまだ何か言いたげにエシクスを見ていたが、何も言わずに飛び去った。エシクスはグアノを振り返り、困ったような笑みを向ける。
「すみませんね。こちらの都合に合わせてしまって。」
「いえ、それは私も同じ事でしょう。あなた達の考えに、口を出してしまった。」
「ははは、そんな事を気にする必要などないのに。」
エシクスは笑った。そしてふと、グアノに寄り添うナウスに視線を向ける。
「旅人様のお連れ様は、幸せでしょうなぁ。こんなにも心優しい方に、自分の居場所を与えてもらえるのですから。」
「そうだと…良いのですがね。ナウスは口がきけませんから、何を考えているのかまでは、私には分からないのです。」
「幸せですとも。」
自信ありげに、エシクスは頷く。
「持ち主の望むままに在ること。それが我々魔獣の生き様。持ち主がいる事、そして何かを望んでくれる事、それは我々にとって、何事にも代え難い幸福なのですよ。」
そして、町の方へと視線を向ける。
「たとえそれが、どんな望みであったとしても。」
愛おしそうに視線を向けるエシクスの横顔を、グアノは何も言えずにただ見つめていた。




