#8 それでもずっと
水の中でゆらゆらと揺蕩うような、暖かな陽だまりにまどろむような、そんな感覚。久しく忘れていた、自分自身の本来の感覚。思わずとろけそうになる思考を留めながら、セクエは手探りで『帰り道』を探していた。
(どうしていたんだっけ。)
自分はどうやって、あの体の中にいたのだろう。先程まではたしかにあの体の中にいたはずなのに、その方法が思い出せない。バリューガに使った憑依魔法も完全な状態ではなかったし、その感覚さえもう忘れかけている。
どうしよう。戻らないといけないのに、体が動かせない。早く戻らないと、早く、早く…!
(…どうしてだっけ。)
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
なぜ、帰りたいのだろう。戻りたいのだろう。こんなにも急いでいるのだろう。そこには、何があるのだったっけ?
(忘れ、かけてる…?)
嫌だ。忘れたくない。戻りたい。帰りたい。
でもなぜ?何のために?あそこは本当に、自分の帰る場所なのか?思い出せもしないくせに?
ああ、崩れていく。記憶が、意識が、心が、溶けて消えていってしまう。嫌だ、嫌だ。そんなのは嫌なのに……
ー姉ちゃん、戻ってきてー
掠れていく意識の中で、声が聞こえた。
ーずっと、待ってるよー
その声を合図にしたように、崩れて薄れかけていた意識が再び集まっていく。
(…行かなきゃ。)
まだはっきりとは思い出せない。でも、待っている人がいる。それなら、行かなければ。少し頼りなく聞こえるその声が、自分に戻る理由を与えてくれていた。
ーーーーーー
パチリと目を開ける。バリューガから抜けてここへ来る途中、何か夢を見たような気がするが、その記憶ははっきりしない。
「セクエ!」
「姉ちゃん!」
二人が叫んだのが同時だった。アロイは手を握ってくれている。その手から暖かな魔力が流れてくるのを感じて、セクエは倒れたまま笑みを浮かべた。
「大丈夫か?」
「うん、平気。バリューガこそ大丈夫?」
「ああ。」
バリューガは頷く。セクエはゆっくりと上体を起こした。そこへグアノがやってくる。
「そろそろ村へ戻りましょう。いつ再び崩れるか分かりません。」
セクエはグアノをチラリと見て、そしてつぶやくように言った。
「バリューガとアロイ君は、先に戻っていて。私は後から、グアノ様と一緒に行くから。」
「でも…」
「大丈夫。ここにはピドルがあるし、グアノ様も魔法は使えるから。」
バリューガは納得いかないように少し黙ったが、わかった、と小さく答えて立ち上がった。
「戻ろう、アロイ。」
「う、うん…」
アロイはどこか不安げだったが、それでもずっとこの場に残るのは怖いのだろう。バリューガに手を引いてもらって村へと戻っていった。
二人の姿が見えなくなってから、セクエはグアノに向けて言う。
「…こんな状況でも、あなたは私に声をかけてはくれないんですね。私が無茶をしたことくらい、気付いているでしょう?それなのに、怒ることも感謝もしないんですね。」
「……。」
セクエは寂しくなって、視線をグアノから逸らした。
「分かりました。そういうことなら、今は諦めます。本当は、怒鳴りつけようかとも思っていたんですけどね。話すつもりもないのに、どうしてここへ来たのかって。」
はあ、と少し大げさにため息をつく。
「でも、やめることにします。アロイ君の前でそんなことをするのは、大人気ないですからね。だから、代わりに言わせてください。」
セクエは再び視線をグアノに向けた。今度は真っ直ぐ、仮面越しにその目を見つめて。
「アロイ君には、呪文はまだ早いと思いますよ。」
「……?」
予想していた言葉とは違ったのだろう、拍子抜けしたようにグアノは小首を傾げた。
「アロイ君は、魔法の知識が無くても、無意識下で魔法を扱えます。たしかに、呪文を使えば魔法の威力の制御は簡単でしょう。初めて魔法を使う人に教えるなら、それで間違いないと思いますけど…あれだけ洗練された魔法を使える子に一から教えるには、呪文はむしろ難易度が高いんじゃないかと。」
セクエは立ち上がり、服についた泥を軽く払った。
「自分で言う事でもないですが私、今回は相当な無茶をしましたよ。おそらくアロイ君の助けがなければ、再びこの体に憑依することはできなかったでしょう。私はあの子に、憑依の手助けになるように簡単なおまじないを教えただけです。でも、それは確かに『魔法』になって私を助けてくれました。そしてきっと、それと同じことはグアノ様にもバリューガにもできない。」
グアノは黙り続けている。セクエは力無く笑った。本当は怒りたい、泣いて悲しみたい。彼のこの反応が、セクエには苦しくてどうしようもないのだ。でも、それを口には出さない。だってグアノは、勇敢で、強くて、優しくて。
そして、どうしようもなく手のかかる人だと、知っているから。
「あの子のその才能を、潰すようなことはしないでくださいね、『先生』。」
セクエは歩き出した。グアノがついてきているかは確認しなかった。
今は、それでいい。自分は待つと決めたのだ。たとえどれだけ長い間、一人で待つことになろうとも。
ーーーーーー
秋も深まり、肌寒さを感じる朝、グアノは一人で村の外れで剣を振るっていた。その動きに合わせて足元では朝露が舞い、金属の仮面と二本の刃は朝の日差しを反射して時折キラリと輝く。ヒュ、ヒュ、と刃が空を切る音が心地よく響いている。美しい光景だった。これが魔法ではないなんて、信じられない。
セクエは邪魔にならないように少し離れた位置でそれを見ていた。
グアノはもうここを出るらしい。冬になれば、ここは雪に閉ざされる。移動が困難になる前に村を出て、さらに周囲を囲む森を抜けなければならないのだ。アロイはまだ幼いし、グアノも一日で長距離の移動をするのは避けたいはずだ。時間には余裕を持っておきたいのだろう。
突然、グアノの動きが止まる。空気が張り詰め、朝の静寂が辺りを飲み込む。グアノはゆっくりと剣を下ろし、腰に下げた鞘に戻した。そして仮面を外して、セクエを振り返った。セクエはできるだけ音を立てないようにしていたが、それでもここにいる事には気づいていたらしい。グアノには驚いたようなそぶりは一切無かった。
視線を合わせたグアノは、しかし何を言うこともなく、ただ少しだけ、悲しそうな目をしていた。
「アロイ君、もう起きていますよ。朝ごはんの用意をするので戻りましょう。グアノ様。」
セクエは声をかける。小屋は土砂で流されてしまったため、今は村の長である賢者の館に泊めてもらっていた。今から小屋を建てても冬には間に合わない。きっと新しく小屋を創るのは春が来て雪が溶けた頃になるだろう。
グアノはセクエに向き直り、まっすぐに歩き出す。しかしグアノは立ち止まることはなく、そのままセクエの横を通り過ぎてしまう。
「待っていますからね。」
離れていく背を振り返り、セクエは言う。グアノは足を止めた。
「……。」
「今はまだ、その願いは叶わないとしても。それでもいつかあなたが私に、また声をかけてくれる日をずっと…ずっと待っています。」
答えが来ないことくらい、分かっている。でも、この覚悟は伝えなければならない。言葉は、ちゃんと届いているはずだから。
「だからいつでも、またここに戻ってきてくださいね。」




