悪役令嬢は恋する人の夢を見るか
城に着くとすぐに王太子殿下の宮に案内されました。
ランスロット殿下はすでに立太子され家族もおできになりましたので、城内に一家が住む宮殿をお持ちです。王家の皆様、今は王と王妃しか住んでいない宮殿とは別になります。王太子のための宮です。
わたくしがヘンドリックと交流していた場所は、王妃が管理している庭やテラスでした。
教育を受けていたのは城の一室。王太子宮に行くのはこれがはじめてになります。
そして、これが最後になるでしょう。
長い廊下を通り抜けた先に王太子宮の庭があり、王太子妃が整えたのだろう花々が咲いています。テーブルとティーセットが用意されたそこに、アーサーが待っていました。
わたくしを見つけて顔を綻ばせ、次に父を見て一瞬いぶかしげに眉を寄せました。
ここから先はわたくしだけ、と止められたのですが、それなら帰ると踵を返すと父の同行が許可されたのです。
どちらにとっても想定内なのでしょうね。
「ようこそクラリッサお姉様。アイーダ公爵」
両手を広げて歓迎を示すアーサーに一礼します。
「本日はお招きありがとうございます。アーサー殿下におかれましてはご機嫌麗しく」
「本日はクラリッサだけの招待でしたが、未婚の娘を異性と一人で会わせられない男親の心をご理解いただき感謝します」
父が釘を刺すのを聞きながら思案しました。
『クラリッサお姉様』と呼んだのはわざとでしょう。アーサーにそう呼ばれたことは一度もありません。名前で呼ばれるほど親しくなかったのです。
わたくしを怒らせる、あるいは年下であることを印象付けて懐柔するつもりでしょうか。この程度で動揺するわけがありませんわ。淑女の笑みでかわしましょう。
一通りの挨拶をして着席し、しばしの談笑に入ります。お茶とお菓子が出されましたがわたくしも父も口をつけませんでした。非礼ではありますが、もてなしを受けるつもりはないという意思表示です。
「それで、殿下。本日のご用件は?」
ここまでは王太子宮の感想や留学先のこと。その間アーサーは何度も「クラリッサお姉様」と呼んできましたが、わたくしは「殿下」のままでした。まったく親しみを見せないわたくしに焦れたのか、ついに会話が途切れます。
「クラリッサお姉様に、謝りたくて」
「殿下に謝罪していただくことがありましたでしょうか?」
アーサーが熱っぽい瞳でわたくしの瞳を覗き込んできました。
ヘンドリックともよく似た瞳……。情欲を孕んだ瞳にゾクリと寒気がします。
「ヘンドリック・ポターがクラリッサお姉様を傷つけた件です」
あの時の屈辱を思い出し、アーサーの瞳から逃れるように目を伏せました。
「お姉様……クラリッサ、僕、ずっと後悔していたのです」
アーサーが縋るように手を伸ばしてきましたが、その手を取ることができませんでした。
似すぎているのです。
年が近いからでしょうか――アーサーの顔は叔父甥という血縁関係をこれでもかと感じさせ、彼の健気さより嫌悪感が先立ちます。
「殿下に謝っていただくことなどありませんわ。たしかにあの事件はつらく悲しいことでございましたけれど、おかげでわたくしは愛する人と婚約できたのですもの」
「え……愛する……?」
「ポターにはとっくに愛想が尽きておりました。彼に虐げられていたわたくしを守り励まし、助けてくださったお方に心を寄せるのは自然なことと存じます。……わたくしの婚約は、国王陛下もお認めになってくださいましたの」
アーサーが目を見張り、心なしか愕然としているようです。
どうやらわたくしのことを、ヘンドリックの暴行で傷物となり、それを助けた商人に下げ渡された令嬢とでも思っていたようですわね。アーサーはそんな境遇から助けるヒーローの役目でしょうか。
「僕は……。僕もあの時学院にいたのです。ですがクラリッサお姉様を助けられなかった……」
「まあ、それはお気遣いありがとうございます」
ほほほ、と口元に指を添えて笑ってみせます。あえて扇子は使いません。
アーサーが文化研究発表会に来ていたとは聞いておりません。仮にも王太子殿下の第一王子が来賓となっていたら、学院の警備はもっと厳重なものになっていたはずです。それに、たとえ来ていたのが本当だとしても、その場で助けなかったのでは何の意味もありませんわ。
「先程申し上げた通り、わたくしにはすでにお慕いしている方がいたのですわ。ポターの婚約者であったこと、身分の差、年齢など、障害ばかりでしたので、むしろ『傷物』にしてくださったことにお礼を申し上げたいくらいですのよ」
あえて傷物、と自虐的に言うとアーサーの眉が痛ましげに寄せられました。先に傷物扱いしたのはそちらでしょうに、なぜ傷ついた顔をするのか理解できませんわ。
「クラリッサ……。僕は、あなたがヘンドリックの婚約者だから諦めていたのです」
埒が明かないと思ったのか話を軌道修正してきましたわね。
「はじめて会った時に見せてくれた笑顔を自分だけのものにしたいと……。ヘンドリックに虐められて隠れて泣いているクラリッサを、僕が笑顔にしてあげたいと何度も思いました。ヘンドリックが聖女候補と親密になっていると聞いた時、ヘンドリックとクラリッサの婚約を解消して、僕と婚約させてほしいと陛下にお願いしたのです」
「まあ。光栄ですわ」
「クラリッサ、あなたは聡明で、やさしく、魔法にも優れています。世情にも詳しい。なによりとてもうつくしい。……その商人を慕っていてもかまいません。僕のことを、少しでも考えてくれませんか?」
王子殿下ともあろう方がなんということを言うのでしょう。父がかすかに息を吐いたのが見えました。
「……申し訳ありません。無理ですわ」
首を振るわたくしに、アーサーが目を見開きました。一顧だにされないと思わなかったのでしょう。
「……なぜ?」
「殿下のおやさしいお言葉も、お気遣いも、嬉しくないのです」
「え?」
わたくしは不自然にならないように庭に目を向けました。
「わたくしが欲しいのは殿下からの美辞麗句ではないのです。愛する方の何気ない一言であり、眼差しであり、仕草なのです。殿下のお言葉は何ひとつわたくしに響きません。嬉しくないのです」
納得していない表情ですわね。
王子という身分に女なら誰でも惹かれると思うのは間違いですわ。肩書も、美貌も、ただその人に付随する部品のひとつにすぎません。それらすべてを剥ぎ取った後に何が残るのか。人間の価値とはそれでしょう。
自分の力で得たものではなく、生まれつき付いてきただけのものに、どれほどの価値があるのでしょうか。
「あの方とは何回か城下の下町に連れて行っていただいたことがあります」
「城下町?」
鼻で笑うように聞き返されました。
父にはこのことは手紙で伝えてあります。危険はないだろうが気を付けるように、と注意だけされました。ターニャが結婚前に何かするとは微塵も思っていないのです。その信頼が嬉しく、くすぐったかった覚えがあります。
「この国の人々が実に生き生きと働く姿をこの目で見ることができました。その際はわたくしが不快な気持ちにならないか、いつも気を使ってくださいましたわ。食べる物さえわたくしがはじめてのものが多く、はじめてシェアというものを経験しました。一つのお皿を分け合うのです。それがちっとも不快ではなく、むしろ幸福な気分になると知りましたの」
残った料理を使用人などに下げ渡すことはあっても、残さず食べるために分け合ったことはありません。料理が残らず残念そうな顔をされたことはあっても、空になった皿に満面の笑みで礼を言われたこともありません。
身分ではなく好意でのサービスを受けるのは生まれてはじめてでしたわ。そんなことが自然に行われる世界をターニャは見せてくれたのです。
「好きな人が好きなことを自分も好きになる。それはとても素敵なことなのです。……殿下には、おわかりにならないでしょうけれど」
「そんなことはない!」
「そうでしょうか?」
わたくしは意識して可愛らしく見える角度で小首をかしげ、勝ち誇ったように微笑みました。
「どうしてそんなことを言うのです、クラリッサ。僕は、ただ、あなたを愛しているだけなのに……!」
「ほら、そこですわ」
すかさず指摘すると呆気にとられたようでした。
「先程から殿下はご自分のことばかりではありませんか。殿下がわたくしを愛しているのだからありがたがって受け入れるべき、そういう物言いでしたわ」
アーサーの反論を待たずに今度は扇子で口元を隠し、大げさなため息を吐きだしました。
「そういうところが……そっくりですわね」
誰と、とはあえて言いません。恐れるようにそのまま扇を広げて目を隠します。罪人と似ているなどと言うのは不敬ですからね、態度で示すだけです。
どうやら伝わったらしく、アーサーは蒼ざめて黙り込んでしまいました。
今まで見守るだけだった父が低い声で言いました。
「このお話はこれまでにいたしましょう。殿下、失礼いたします」
気合いを入れて用意したであろう、ケーキスタンドに乗った可愛らしいお菓子が誰にも食べられずに残っているのが印象的でした。
父に促されて立ち上がり、退出の礼をします。
これで終わりなのでしょうか? 何か仕掛けてくると思っていましたのに、少し拍子抜けです。これで諦めてくれると良いのですが。
「クラリッサ!」
背中を向けたところで手を摑まれました。強い力で向きを変えられ顔を覗き込まれます。
「僕は本当にあなたが好きなんです。だからずっと婚約者も決めずに……諦めたくないっ!」
アーサーを見上げる形になったことに驚きがありました。
わたくしの記憶にあったアーサーはわたくしより背が低かったのです。いつの間にこんなに伸びたのでしょう? わたくしを見つめる瞳にせつなさが滲み、それがわたくしの心を揺さぶってきました。
「無理にとは言いません。ですが、これからも会っていただけませんか? どうか、僕にもチャンスをください」
「……はい」
反射的に返事をして、ハッと手を振り払いました。父が目を見開いてわたくしを見ています。
今のは、なんでしょう? アーサーを悲しませたくない、となぜ思ってしまったのでしょう?
胸の奥が冷えたように鈍痛を訴えます。
「やった! 絶対ですよ!」
子供っぽく笑うアーサーが、なぜか魔王のように恐ろしく見えました。
その日から間をおかずに茶会の招待状が届くようになりました。
学院を自己都合で休学している身です、遊んでいるわけではないと断る口実はありました。ですがいつまでも断り続けるわけにもいきません。
「失敗したな。なぜあそこで断らなかった」
父の叱責はもっともです。
わたくしが来てくれないなら自分が行く、と今度はアーサーから先触れが来てしまいました。
「申し訳ありません……。わたくしにもなぜあそこで「はい」と言ってしまったのか、よくわからないのです」
あれで諦めるとは思いませんでしたが、問題はわたくしです。
あそこまで言われて、言っておいて、次の約束をしてしまうなどありえないことですわ。わたくしは二度と会わないつもりで席を立ちました。アーサーに、手を取られるまで。
そっと腕時計に触れます。
執務室を人払いしてくれた父に感謝します。何を言っても今さら言い訳にしかならないでしょう。
「アーサー様に手を取られた時、大きくなられたことに驚きました。めったにお会いしたことがないとはいえ、知らない方ではありませんし、どうしてか悲しませることに、罪悪感があったのです」
父がピクリと眉を跳ねさせました。
「弟のような親しみを持ったか?」
「いいえ。いいえ、お父様……。わたくしは、アーサー様が恐ろしい。恐ろしいのに、何度もお断りしていることが、後ろめたいのです」
声に出してはっきりしました。わたくしはアーサーが恐ろしい。わたくしに愛を乞う年下の少年が、恐ろしいのです。
自分の心の変化がそれこそ恐ろしく、縋る思いで左手首を握りしめました。
それを見た父の眉根が深い皺を刻みます。
「アーサー殿下がお見えになるのは避けられん」
「はい」
わたくしの都合に合わせてくださるのです。これで断ったらアイーダ公爵家は王家に隔意ありとされてしまいます。
「すでに社交界では、アーサー殿下の婚約者にお前が選ばれたと噂になっている」
「っ!」
心臓が弾みました。
「わた、くし、には……ターニャさんがおりますわ」
そう。そうですわ。わたくしがお慕いしているのはターニャ以外にありえません。
それなのに、なぜわたくしの心は弾んだのでしょう?
「城に呼ばれてからお前が心ここにあらずだとトーマが心配していた」
「そんな……ことは……」
たしかに、実験にも身が入らず、ぼうっとしていることが増えている自覚があります。
わたくしは、どうしてしまったのでしょう?
「クラリッサ、アーサー殿下に心変わりしたのか?」
父がずばり切り込んできました。ヒッ、と喉が詰まり、心臓が縮み上がりました。
「……っ、違います! ありえませんわ!」
動揺して否定するほどそれを認めているようで、懸命に首を振りました。
恐ろしい。自分の心がどうなっているのか、どうなってしまうのか。何もわからないのが恐ろしい。
わたくしがこんなに苦しいのに、なぜターニャはここにいないのでしょう。腕時計があっても側にいないのなら意味がありません。ターニャは本当に、わたくしを愛しているのでしょうか。
魔法カードをタナカ商会のものにするために、わたくしを利用しているのでは?
考えてはいけないことが次々と湧き上がり、頭の中がぐるぐるします。
「クラリッサ? どうした――」
父が椅子から立ち上がったのが見えました。
気持ちが悪い。目の前がぐにゃりと歪んで見えます。手足が冷たく、胸の奥がひどく痛みました。
「ターニャ……」
いますぐわたくしをだきしめて。
あの瞳が、わたくしを捉えて離さないのです。
いっけなーい、不穏不穏!
次はまたターニャに戻ります。




