心はいつもあなたの側に・前
クラリッサ視点です。
ターニャと聖魔法カードでの治癒を成功させたわたくしは、ふわふわとした幸福な気分に包まれていました。
その幸福な気分のまま父宛てに手紙をしたため……ブランカが持ち帰った返信を読んで、冷や水を浴びせられたように血の気が引いていくのを感じました。
そうです。ターニャが忠告してくれたように、聖魔法は国が出て来てもおかしくない事態なのです。
まして今現在聖魔法の術式を知っているのはわたくしとターニャだけ……。いいえ、正確に理解しているのはターニャだけです。それがどんなに危険なことか、浮かれていたわたくしはすっかり頭から抜け落ちていました。
「ブランカ」
「はい」
ああ、ターニャにもこのことを伝えなくては。そう焦るものの、ターニャは昨夜と今日の事でほとんどお休みになっていません。今頃をようやくの睡眠をとっているでしょう。妨げるのは心苦しいです。
「お嬢様、大丈夫です。商会長は反射の付与を持った腕時計をお持ちです。今夜一晩くらいは凌げるでしょう」
わたくしの焦りを見て、ブランカが落ち着かせるように言ってきました。
「そうですわね……。お父様からは、明日迎えに行くまでは結界魔法をかけて部屋から出ないように、とありました」
ようするに、囮です。今夜一晩とはいえ誰かに襲撃されるかもしれない恐怖に心臓がぎゅっと縮み上がりました。
「お嬢様、お気持ちを強く持ってください。……カー商会長はお若い頃、何度も命を狙われたと聞きました。商会長とご結婚なさるのなら、これくらいは耐えられませ」
ブランカが肩を摑んでわたくしに言い聞かせます。
わたくしのターニャは、何度もこれを経験している。ですがそれをむしろ踏み台にして立ち上がってきました。きっと、もっと大変な状況だったこともあるでしょう。
「ありがとう、ブランカ。ターニャさんの妻になるわたくしが怖がっていてはいけませんね」
「それでこそお嬢様です」
ターニャならどうするか、考えなくてはなりません。襲撃に来るとしたらどこからか、部屋の弱いところはどこか、そこにどのような備えをするのか。
部屋をぐるりと見回して、無防備な箇所はないか考えます。
まずは、窓でしょう。ガラスは魔法がなくとも石などでたやすく破られるでしょうし、防御結界を張っておきます。外から声をかけられて、たとえば父の使いだと言って連れ出そうとする不届き者がいるかもしれないので、防音結界も重ねておきます。
「ふう……」
ふと見れば、ブランカは荷物をまとめていました。とても手際が良いですね、さすがわたくしの侍女です。
ブランカが部屋に備え付けられていた化粧台の鏡に布をかけたところで、ふと天井に目が行きました。
白色炎灯のガラス製シャンデリアに、四角形の彫刻が施された天井です。公爵家の自室にあるような天井画はなく、木製のシンプルな模様が刻まれています。
学院寮は、男子寮と女子寮が対になるように建てられています。部屋の調度品などは女子寮のほうが化粧台などで多いのですが、部屋の造りはおそらく同じでしょう。
「……そういえば、学院全体が魔法陣になっている、とターニャさんは言っていましたわね」
魔法陣というのは基本魔力を注がねば発動しません。そうなると、誰が学院の魔法陣に魔力を注いでいるかですが、これは学院長と見て間違いないでしょう。ならば、どこでどの生徒が魔法を使ったのかも、学院長には筒抜けなのでは?
「……いやっ……?」
「お嬢様っ?」
わたくしの叫びにブランカが手を止めて駆け寄ってきました。今気が付いたことを話すと、ブランカの顔色も変わります。
魔力が筒抜けというのは、まるで生活を覗かれているようではありませんか! それも側仕えの侍女ではなく学院長、れっきとした大人の、それも男性にです!
あまりにおぞましい想像を否定してほしくてブランカの腕にしがみついてしまいます。しかしブランカは少し考えると顔を上げ、
「……ありえるかもしれません」
肯定してきました。心なしか顔色が悪いです。
「私はお嬢様のご入学に合わせて、侍女として学院の話を集めました」
ブランカは男爵家の令嬢です。学院の卒業生でもあります。
侍女として、というのは生徒視点ではない、供としての情報を集めたということになります。
「私の在学中にも盗難騒ぎはあったのですが、過去には上位貴族による下位貴族への理不尽な苛めや、成績の改竄要求などあったようです。……その、もっとも多かったのは男女間のいざこざですけれど」
そうした問題は生徒会でも取り上げられます。わたくしがうなずくとブランカは続けました。
「証拠を隠滅、あるいは目撃者不在なのがたしかな事件には、必ず学院長が出て来て解決したそうです。まるで見ていたかのように詳細な証言をした、と」
「……知りませんでした」
生徒会にある調書には被害者と加害者、事件のあらましくらいしか記載されていません。貴族の間で噂になると将来に響きますし、あえてそのようにしてあるのだろうと納得していましたが、こうなると学院の魔法陣を秘匿したい学院長の意向が絡んでいると考えたほうがいいでしょう。
「魔法陣のことを知らなければ学院長が王家の威光を使って解決したと思われるでしょうね……」
王立学院ですので学院長には王族が就任するのが習わしです。また貴族が通っていますので生徒間の揉め事は親、つまり貴族同士の分裂にまで発展するのは避けたいところでしょう。貴族の中には王家直属の諜報を担う家もあります。てっきりそういう方々が目を光らせているものだと思っていましたわ。
「……とにかく今夜は部屋に籠っていましょう。ターニャさんに頂いたものや、タナカ商会で購入した物は全部持って帰ります」
「はい、お嬢様」
侍女やメイドは本来なら隣接した専用部屋で休むのですが、念のためブランカも一緒にベッドに入ります。
わたくしにはターニャから贈られた守りの腕時計があります。それでもブランカを人質に取られたら……。ブランカは床で良いと主張しましたが、くっついているほうが安心です。
ターニャが心配です。公爵令嬢という身分に守られているわたくしより、ターニャのほうが危険です。
すぐそこに、歩いて十分もかからないところにいるというのにお側にいられないもどかしさ。早く正式な妻となり、ターニャの隣に立てるようになりたいです。祈りながら目を閉じました。
まどろみの中何度も目を覚まし、その度にブランカが目を開けて「大丈夫です」と言ってくれました。……こんなにも不安になるなんて……わたくしは自分でも思いませんでした。
ターニャならどうするか……きっと部屋中に襲撃者への罠を仕掛けて、取り押さえようとするでしょう。わたくしにそれだけの知恵と道具がないのが悔しいです。わたくしが捕まえることができたら、ターニャの危険が減りますのに……。
瞼を閉じて考えているうちに、気が付きました。わたくしは、ターニャならどうするか、ターニャのようにとばかり考えて、わたくしにできることを見逃していたのではないでしょうか。わたくしはターニャではありません。わたくしだけにできることがあるはずです。
「そうですわ……」
「お嬢様、眠れませんか?」
「ええ、いえ、そうではないの。ねえブランカ、わたくしずっとターニャさんならどうするかを考えていたのですけれど、ブランカはターニャさんならどうすると思います?」
「商会長なら、お嬢様のためにどうするべきかを考えて行動するに決まっています」
ブランカの即答に、わたくしは心からにっこりしました。そうですわ、そうなのです。ターニャなら、わたくしのために行動するに決まっています。
「ええ、そうよね。だからわたくしは、ターニャさんならどうするか、ではなく、ターニャさんのためにどうするかを考えることにいたします」
暗闇の中でブランカが目を丸くするのがわかりました。
「それでこそお嬢様です。商会長も心強いでしょう」
ブランカが微笑み、力を抜きました。わたくしも目を閉じます。
わたくしだからできることがある。その気づきに今度こそ眠りにつきました。
翌朝、起床の鐘と同時に父の使いとして公爵家の家政婦エルザがやってきました。
「クラリッサ……!」
「お父様」
まさか父が直々に来るとは思いませんでしたが事は聖魔法です。驚きながらも納得しました。
父は女子寮に入れませんので部屋まで迎えはエルザでした。母の腹心が来たことで、いよいよ事態が切迫しているのを感じます。
「無事か。この分だとターニャは来ていないな……」
「お父様、どういうことですの? ターニャさんに何か?」
「正確なところはわからんが、ターニャは学院長に反撃して逃走中だ」
心臓が跳ねあがったように感じました。
「アイーダ公爵、困りますっ」
寮監のマライヤ・ホズミがわたくしとブランカを連れ帰ろうとする父を慌てて止めてきます。
そこにすかさず公爵家の護衛騎士五人がわたくしたちを守ろうと立ちふさがりました。
「お父様、反撃とおっしゃって?」
「そうだ。深夜二時過ぎに悲鳴がして男子寮の寮監が客室に行ったところ、学院長が目を押さえながらのたうち回っていたそうだ。おそらく聖魔法カードを盗み出そうとしたのだろう。状況的に見てターニャが反撃して逃走したのだろうな」
歩みを止めずに父が説明してくれました。後ろでは「許可のない外出は禁止されている」と訴えるマライヤと、「客人として滞在しているターニャを襲撃するような学院長がいるところにお嬢様をおいておけない」と反論する騎士が言い争っています。暴力に発展しないかひやひやしましたわ。
学院長と聞いて思わずブランカと顔を見合わせました。
「驚かないのか?」
「その理由は後ほど説明いたします。今は、ターニャさんです」
正門が見えてきました。早朝に乗り込んできた我が家の馬車に警備兵が集まって来ています。
「逃げたと見せかけて学院のどこかに潜んでいるのかと思ったが、どうやら違うようだ」
「学院長に襲撃されたのなら学外に出ましょう。それよりお父様、今回のこと、誤解なきよう処理してくださいませ」
夜半にターニャの泊まっている寝室で学院長が倒れていたとなれば、学院長が自ら足を運んだのは確定です。それなのにターニャが学院長を攻撃した、などと話が伝わったら大変ですわ。
「ああ、わかっている」
父が強くうなずいた時、すっかり顔見知りになっていた門番がこちらに手を振ってきました。
「アイーダ公爵令嬢!」
「門番さん、おはようございます。そうですわ、門番さんは、ターニャさんを見かけませんでした?」
「商会長なら夜中に学院を出ていきましたよ? なんでもお仕事で呼び出されたとか」
まだ騒動を知らないのか、門番はあっさり教えてくれました。
目を見開くわたくしたちに首をかしげつつ、懐から何かを取り出します。
「これ、商会長からアイーダ公爵令嬢にです。ずいぶん急いでいたようで……。いや、無事に渡せて安心しました」
赤いハート型の折り紙です。
……ターニャはわたくしを忘れていたのではありません。いいえ、おそらく襲撃に遭うことを予想していたのでしょう。学院に残っていたのはわたくしを守るため。襲撃者を自分に引きつけようとしたのです。
「商会長はどこへ行くか言っていなかったか?」
「さあ、そこまでは……。いつもの鞄を持っていましたから、よっぽどのっぴきならないことが起きたんじゃないですかね」
「そうか、ありがとう。実は、商会長は学院長に襲われたので学院から出ていったらしい。ここなら安全だと思って私が頼んで匿ってもらっていたのだが、残念なことになった」
「ええっ!?」
父と門番の会話を聞きながら馬車に乗りこみました。座るのももどかしく、手紙を開きます。
『心はいつもあなたの側に』
急いで書いたのか文字が乱れていました。
じんわりとあたたかいものが胸から溢れ、目頭が熱くなります。
「お嬢様……」
ブランカがそっとハンカチを差し出したのに首を振り、手紙を抱きしめました。
泣いている場合ではありません。ターニャは行動しているのです。わたくしもターニャと呼応して動かなければなりませんわ。
「クラリッサ、ターニャは何と?」
父が乗り込んで、馬車が動き出しました。
「お父様、わたくしは、わたくしにすべきことをいたします」
涙を指先で拭ってそう言うと、父が片眉を上げました。これは父が苛立った時の癖です。手紙の内容を素直に伝えなかったからでしょう。
少し迷いましたが、父が読むこともきっとターニャには想定内だと思います。折り目の付いた手紙を膝の上で広げました。口元が緩んでしまうのは許してくださいね。
ターニャからの恋文を読んだ父はムッと唇を引き結び、眉間に皺を寄せました。そのまま考えています。
馬車の中にはわたくしとブランカが並んで座り、わたくしの正面に父がいます。エルザたちは後続の馬車です。
二台の馬車の周囲を馬に乗った騎士が護衛しています。窓にかかったカーテンをそっとめくると、まだ朝早いせいかあまり人はいませんでした。物々しさに怯えさせてしまったら申し訳ないと思っていましたので、少しほっとします。
馬車が家に着くなり母と挨拶をする間もなく執務室へと急ぎます。学院の様子を知っているブランカもついてきました。
執務室にはアイーダ公爵家の家臣団が揃っていました。
「クラリッサ、ターニャはどう出ると思う」
席に着いて父が重く切り出しました。
「聖魔法カードの販売です。ターニャさんのことですから、すでに商品化の話を進めていると思いますわ」
「販売!?」
父だけではなく家臣たちも驚いていますが、なぜでしょう?
「ターニャさんは商人ですもの。このように画期的なものを販売しない理由がありませんわ」
「お、お待ちくださいお嬢様」
顔色の悪いブレナン・サティヴが手を挙げました。
「聖魔法の術式は、国家が保護すべき貴重なものです。それを売るとは……?」
「国に保護されれば広く大衆に伝わることはできなくなるでしょう。それどころか、ターニャさんが魔法庁に管理されかねませんわ。そうなってしまえばターニャさんのタナカ商会も国の管理下。戦争の道具にされる、あるいは他国への切り札にされるかもしれませんわね。いずれにせよターニャ・カーの商人人生はおしまいです。そしてターニャさんは、それをお望みではありません」
ブレナンの言いたいことは、わかります。聖魔法の使い手を望んでいるのは我が国だけではありませんもの。他国に先んじて聖魔法を解き明かしたのは、大きなアドバンテージです。
「断言なさいましたが、どうやって商品化するのでしょうか? 現在タナカ商会は休業中です」
バルタザールが反論してきます。家臣たちは商品化が信じられないようですわね。
「休業中であるからこそ手は足りているでしょう」
いずれ外交の補佐をするべく勉強しましたもの、わたくしだって切り札は多ければ多いほど良いのはわかっています。相手の隙をつき、妥協点を探し、少しでも有利に、そして双方に利があるように自分たちの話を認めさせる。それが外交の基本です。
恫喝、あるいは武力による行使は最終手段で良いのです。一国だけが裕福になることなど、ターニャには不本意なのですわ。
「断言できますわ。根拠もありましてよ。お父様、タナカ商会の歌を覚えていらっしゃいまして?」
「あ、ああ……。あの珍妙な」
「そうですわ。タナカ商会は『みんなの味方』なのです。一人でも多くの人に笑顔と幸せを届ける。ええ、聖魔法カードは金儲けの道具ではありませんわ。病や怪我に苦しむ人々を救う、救命用品なのです。タナカ商会が取り扱う商品としてこれ以上のものはありませんわ」
なるべく落ち着いて話そうと思っていましたのに、つい熱が入ってしまいました。
バルタザールは苦い顔ですが、父は納得してくれたのか、長く細い息を吐きだします。
「たしかに、お前の言う通りだ。ターニャが商品化しない理由がないな……。だが、いくらなんでも昨日の今日では不可能だろう。番頭のトーマ・キュルツはアイーダ領にいる、馬を飛ばして販売は時期を待ってもらおう」
不可能と言われてわたくしは不愉快な気分になりました。わたくしのターニャは不可能を可能にする男ですわ。
切り札は見せることはしても、奥の手というものは最後までとっておく。ターニャにはまだ奥の手があると見るべきです。
クラリッサは娘の立場なので、あまり家臣たちと関わることはありません。ターニャから贈られた物はクラリッサから公爵に、公爵がこれはと思ったものが家臣たちに伝わります。




