勇気を出してはじめての聖魔法
カダの背に置かれたアスクレーオスの右手。ぎゅっと握られた反対側の左手に上から手を乗せた。
「まずは消毒からです。患部に溜まった毒素を取り除きます。黒いものが光で浄化されていくのをイメージしてください」
「商会長、呪文は?」
「聖なる息吹きで大丈夫です。いきなり魔力を全開にせず、ゆっくり流していってください。夜が明けて朝日が昇っていくように」
すう、とアスクレーオスが息を吸いこんだ。光は使い慣れているのだろう、背中に当てた手の平から光が漏れた。
「……堅き護りを破られし時」
「この痣は毒です。洗い流すのではなく、完全にこそげ落としてください。土に埋まった石を取り除くように。穴が開いても大丈夫、すぐに戻します」
「泡沫はいずれ凍り付き 光は瘴気を浄化せん」
「光魔法でかまいません、……そう、もう少し魔力は少なめで……そうそう」
アスクレーオスの手と光で良く見えないが、悪いところにいきなり免疫力が上げられても体がパニックになるだけだ。免疫の暴走って怖いからな。ガン細胞に進化されたら厄介だ。
「いざ来たれ 波よ 土よ」
「再生していきますよ。最小の魔力で流してください。カダ様の体にちょっとだけ力を分けてあげる、それだけでいいんです。夏の日にいきなり氷を浴びせられたらびっくりしますよね? 最小限ですよ。カダ様の体は自分がどうなっていたかをよく知っています。任せてください」
白く発光していた光にミラーボールが混ざりはじめた。
「やすっ、らぎの刻」
ぎょっと目を見開いたアスクレーオスは目をつぶった。驚いた瞬間魔力が揺らいだから、聖魔法発現の驚きと恐怖心で集中が乱れたのだろう。
「約束の時 ここに結ばん」
「元通りになっていきますよ。血管も筋肉も皮膚も、綺麗になります。健康な体をイメージしてください」
一瞬息を止めたアスクレーオスが、万感の籠った声で宣言した。
「聖なる息吹き」
息を吐こうとするのを制して言葉を続ける。
「まだ魔力を切らないで、少しずつ量を絞っていってください。夜明けです。星が、一つずつ見えなくなっていくように……」
アスクレーオスの手の平からミラーボールが霞んでいく。
そして完全に消えると、アスクレーオスが目を開けた。震える手を背中から外す。カダの背中に床ずれの痕はなく、すっかり綺麗になっていた。背中だけのつもりが尻と肘まで治っている。
はじめての聖魔法で無意識に気合いが入ったのかもな。初回限定キャンペーンということにしておこう。
「アスクレーオス様、疲れていませんか?」
「…………」
アスクレーオスは呆然と患部のあった背中を凝視している。はじめて聖魔法で人を治癒したんだから当然か。俺もピーラーが完成した時は嬉しくて舞い上がったもんだ。
「……ぅ……」
そのうちに目を覚ましたのか、カダが身じろぎした。
「カダ!!」
「ァ、アスク、レ、オス様……?」
カダを揺さぶろうとしたアスクレーオスにストップをかける。
「待った! アスクレーオス様、ひとまず服を着てもらいましょう?」
「え、あっ」
うん、パンツ下ろしたほぼ全裸だからね? このままでひっくり返したらえらいこっちゃ。
ひょっとして尻に直接触りたくなかったからキャンペーン実施したんじゃないかという疑惑は心の中にしまっておく。
「あの……?」
「カダ様、すみません。とりあえず、パンツ穿きましょう」
ぼんやりとした目で首を捻るカダはまだ夢から抜けきっていないのか、不安そうに自分の体に目をやった。
「アスクレーオス様、それに商会長……? 本物、ですよね……?」
背を向けている間に服を着てもらうことにしたのだが、カダは震える声で縋りつこうとした。患者で慣れているアスクレーオスがカダに寝着を着させ、何度も「そうだ」と言いながら診察した。
「本物だとも。カダ、お前は十日間も眠っていたんだ」
「十日……」
十日。それだけの間ずっと寝たきりで、床ずれがあれだけで済むものなのだろうか。もっと重度になっててもおかしくなさそうだけど……。残念ながら日数ごとの進行度までは覚えていない。
アスクレーオスは治癒呪文をずっと唱えていたと言っていた。無意識に阻まれてはいたが、おそらくそれなりに効き目があったのだ。
カダが震えながら重いため息を吐きだした。
「ずっと……いつ終わるとも知れない悪夢を見ていました。……誰にも私が見えず、声も届かず、どこへ行っても誰かにぶつかっても気づいてもらえない。踏みつけられても……痛みはあるのに誰にも認識されず……。やっと目が覚めたと思っても次の悪夢がはじまるのです。アスクレーオス様……」
「大丈夫だ。もう覚めた。悪い夢は終わったんだ」
ひどい悪夢だ。でもこれで、なぜカダが目覚めなかったのかわかった。
「カダ様、突き飛ばされた時に魔法をかけられましたね」
「魔法?」
「まさか……!」
ハッとしたアスクレーオスにうなずく。
「闇魔法です」
闇魔法は人を眠らせ夢を操ることができる、人の精神に感応する魔法だ。悪夢を見せることも可能だろう。
学院の警備兵が一人、外傷もなく眠らされていたのが気になっていたんだ。眠り薬でもかがされたのかと思ったが、それなら自分の異常に気づいて警笛を鳴らしていただろう。
しかし魔法なら一瞬で相手を眠らせることができる。アスクレーオスにばれないよう、わざと突き飛ばして魔法をかけたのだ。
「そういえば、突き飛ばされた時に魔力を感じました」
「誰が突き飛ばしたのか覚えてますか?」
厄介な相手だ。俺の知ってる名前であってほしいような、知らない奴であってほしいような。まず相手を知らないと手が打てない。
「リュカ・ツィダーです」
カダは首を振ったがアスクレーオスが覚えていた。
「リュカ・ツィダー?」
どこかで聞いたことがある……貴族か? 悩んでいるとアスクレーオスが付け加えた。
「ヘンドリックの配下の男です。元は護衛騎士だったとか」
「……あ!」
あいつか! あの影が薄いわりにやることがでかかった奴だ!
文化祭でオデットの展示を荒らし、ヘンドリックがクラリッサを襲う時間稼ぎをしていた男だ。たしか重犯罪者用の牢に投獄されていたはずだった。
「……リュカが闇魔法の使い手なら、脱獄してヘンドリックを脱走させることもできるはずだ……。完全に盲点だったな」
護衛騎士ということで武力特化だと思い込んでいた。脱獄したリュカはオデットを救い出すためにヘンドリックを担ぎ上げたのだろう。たしか、オデットに心酔しすぎていたことが重犯罪者牢に入れられた理由だった。
「聖魔法は光魔法が素になっているから、闇魔法の呪縛が解けたのですね」
アスクレーオスが自分の手をグーパーしながら納得している。おそらくそれが正解だろう。光魔法の使い手であるアスクレーオスを足止めし、使い物にならなくするにはカダを排除するのが良いと企んだのだ。
……親しい人間がなすすべなく自分の目の前で衰弱し死んでゆくのを見せつけ、無力感を見せつける。万が一にもアスクレーオスが聖魔法を発現するのを防ぐために。カダが死んでいればアスクレーオスは再起不能に陥っていただろう。悪質で、陰湿な方法だった。
「悪夢を見せ続けることで無意識下で精神を摩耗させ、死を錯覚させるか死を望ませる。魔力が肉体に与える影響を考えていたとなると、リュカは闇魔法に精通していますね。とても強力な魔法です」
アスクレーオスの見解に俺も同意した。
「アスクレーオス様の光魔法でも解除できなかったくらいですからね。闇……いや、黒は光を吸収します。より強い魔法でなければ目覚めさせることはできなかったでしょう」
むしろ闇を生み出すのが光だ。光がなければ誰も闇を闇と認識できない。しかし闇の中でこそ瞬くものがある。それが、星だ。
影は薄いのに闇が深いリュカ。




