真夜中の病院
医師組合本部はその業務上、夜中でも一部は開いているらしかった。
正門は閉じられていたがその脇の通用門は開いており、受付にはランプが『急患の方はこちらを鳴らしてください』と書かれたプレートを照らしていた。その隣にはベルが置かれている。
俺は急患ではないのでベルは鳴らさずにこっそりお邪魔します。どこか横になれるベッドか、ソファはないかと院内を見て回った。前回はアスクレーオスの執務室に直通で案内されてしまったから、実は不慣れなのだ。
前世の病院とだいぶ違うと感じるのは、消毒薬の臭いがしないせいだ。代わりに漢方のような、なんともいえない薬の匂いがしている。
カダや当直の医師は仮眠室にでもいるのか、堂々と侵入しているのに誰も駆けつけてこなかった。警備員すらいない。都合が良いけど不用心にもほどがあるな。
薬品室や調合部屋などはあるが入院病棟はないのか、なかなかちょうどいい部屋が見つからない。ナースステーションすらなかった。医師組合の予算不足は深刻だ。
「……?」
暗闇の中、目を凝らして部屋のプレートを確認しつつ歩いていると、どこからかボソボソと人の話し声がした。
一瞬で心臓が跳ねあがる。
……ぜんぜん気にしてなかったけど夜の病院だった! ま、まさかとは思うが『出る』のかココ!? そりゃたしかに魔法なんてものがあるファンタジー世界だけど……あああー、アニメでは定番だよ幽霊ネタ!
しかも、声がするのはこの先だ……。
怖い。怖いけど、正体をたしかめないのはもっと怖い。ホラー映画なら「お化けなんていないってー」とか言って外に出ていって戻ってこない、序盤で死ぬモブキャラそのものの行動だとわかってるけど、怖いんだよ!
頭の中で「おばけなんてないさ」を歌いながらその部屋に近づく。ドアプレートはよりによって『処置室』だった。遺体安置所じゃなくて良かったと思うと同時に何をどう処置しているのか想像がふくらんでしまい、振り払うようにゆっくりと、中に気づかれないようわずかにドアを開けて覗き込んだ。
「……いざ来た…………よ、……の時……ここに……」
炎灯のランプがぽつんと置かれ、オレンジ色の光がその人物の影を大きく伸ばしている。ベッドに横たわる人に向かって一心不乱にぶつぶつ唱えていた。
「ひっ」と叫びそうになるのを堪えて飲みくだす。と、ぴたりと声が止んだ。
血走った目をしたそいつがゆっくりと振り返る。
「……だ、れ、だ……?」
恐怖に怯えたその声は。
「アスクレーオス様?」
「カー商会長……?」
堪らずにドアを開ければ思った通り、アスクレーオスがいた。今のは聖魔法の治癒呪文だ。
そしてベッドにいるのは。
「カダ様? どうして……何があったんですか?」
アスクレーオスは極度に緊張していた糸が切れたのか、がっくりと膝をついた。泣き腫らしたのだろう赤くなった目から涙が溢れる。
「わ、私が……、オデットの下に行こうとしたのを阻んで……っ、カダは……」
こっちもか。
泣き崩れるアスクレーオスをなんとか宥めて話を聞くことにした。
「私は一度オデットの下に行ったのですが、次々集まってくる者たちのために物資が足りなくなり、鳥籠の館を離れて物資調達を命じられたのです」
組合本部の備品を持っていくことも考えたが、ここは病や怪我に困った人が来るところ。ほんの少しだけちょろまかしはしたが全部をオデットに捧げることはしなかった。そこは医師としての理性が働いていた。
ではどうするかと考えたアスクレーオスは、組合長の立場を利用して物資を集めることにした。その最中に俺と会ったわけだ。
ターニャ・カーを説得できればタナカ商会を呼び戻せる。そしてそれはオデットの功績になると考えた。そもそもタナカ商会が王都を出ていったのはオデットとヘンドリックのせいなんだけど、オデットと直接会って話せばわかってもらえると思ったらしい。
ポジティブというより盲信だな。しかしすげなく断られたあげく踏み絵で試され、目潰し喰らって逃げられた。
「商会長の言葉の意味は、その時はわかりませんでした。オデットと共に人々を救うのだという信念に固執していて……カダに気づかれたのです」
カダは俺にとってのトーマと同じで、アスクレーオスの右腕だ。当然アスクレーオスを止めてきた。
「集めた物資を運搬するためにヘンドリックの配下が数人来ていました。カダは私と彼らの前に立ちふさがって……」
「暴行を受けたのですか」
ジェロームにやったように、殴る蹴るの暴行をされたのか。アスクレーオスは迷うようにうなずいた。
「はい。ですが、それほどひどいものではなく、こう、突き飛ばされただけでした」
そう言ってアスクレーオスは突き飛ばす仕草をした。肩パン一発か。暴行といえばそうだが、こんな大事になるものだろうか?
「突き飛ばされた際に頭を強打したとか?」
「いいえ。ただ突き飛ばされただけです。たったそれだけでカダは倒れて、目を覚まさないのです……」
アスクレーオスはそこでようやく我に返ったがとりあえずヘンドリックの配下に従って物資を送り出し、さらに用意すると言って残ったそうだ。
「目を覚まさないカダに付き添って、はじめて商会長の言っていたことが身に沁みました。当たり前にある日常、その土台があるからこそ心は安心して幸せを感じることができるのだと……。カダがいなくなるなんて考えもしませんでした。今の自分があるから、心は自由に夢を見て希望を抱けるというのに……っ」
すごく、わかる。
「わかります。右腕ってそうですよね。……いないと寂しいでしょう?」
深く同意して言うと、アスクレーオスはきょとんとした後、気が抜けたような泣き笑いになった。
「そうですね……。こんなにもカダがいるのが自然だったとは考えもしませんでした。心の一部がぽっかりと抜け落ちたようで……寂しいんですね」
涙の滲んだ目を擦ったアスクレーオスがまたカダに目を戻した。
「外傷はありません。突き飛ばされて気を失った際、私が受け止めましたから」
「なのに目覚めない?」
「はい……。叶わぬまでも、と聖魔法呪文を唱えてみたのですが効果がなく……。とにかく水だけは飲ませていますが、このままでは衰弱して死んでしまいます」
「……ん? アスクレーオス様、もしかしてカダに寝返りを打たせたり、体勢を変えたりはしていないんですか?」
「は? なるべく動かさないようにしていましたが……」
何言ってんだコイツ、という顔をされたがこっちが言いたいわ。原因がわからない以上あまり動かさないほうがいいという判断は間違いではないが、俺と会った後にカダが倒れたとして、何日寝かせっぱなしにしてるんだ。
「カダ様の体をひっくり返して診察しますよ。床ずれを放って置いたら死に至ることもあります」
「床ずれ?」
「わかりやすく言うと寝かせすぎてできる痣です。体を動かさずにいると、圧迫された部分の血管や筋肉組織にダメージが溜まってそこが腐っていくんですよ」
さっとアスクレーオスが蒼ざめた。こんな初歩的な知識もなかったとは。
前世日本では老人介護が社会問題になってたからな。医療番組やニュースの特集で床ずれについて見たことがある。他人事じゃなかったので覚えていたのだ。
二人がかりでカダの体をひっくり返し、病院着っぽい寝着を脱がせると、背中と尻、肘の上あたりが赤黒くなっていた。
「見たとこ膿んだりしていないようですね……」
そこまで酷くなっていなくてホッとしたが、しかし生々しい。テレビと現実は違うと痛感した。
「……こんな……」
アスクレーオスは蒼ざめて口元を手で覆い、恐る恐るその手を伸ばしてカダの床ずれに触れた。しかし触れる直前で引っ込める。
「……寝たきりの患者によく現れる症状です。これが進行するとまず助からないので、医師の間では『死瘡』と呼ばれています。生きたまま体が腐っていく……死病です」
「寝かせっぱなしが原因です。普通に生活していても体を圧迫されると痛いですし痣ができます、それが悪化してこうなるんですよ。寝ている時に寝返りを打つのは単純に同じ体勢だと痛いからだと思います。こまめに体勢を変えて、血流を良くしてあげれば防げます」
「…………」
アスクレーオスはもう真っ青である。
医師を名乗りながら、そんな簡単なことに気づかなかった。それどころか床ずれができたらもう駄目だ、と諦めたこともあったのだろう。
「な、治るのですか……?」
「切除手術をすると聞いたことがあります」
「手術……」
よろめいたアスクレーオスのほうが天に召されそうである。
「しっかりしてください。カダ様を助けられるのはアスクレーオス様しかいないんですよ」
「しゅ、手術など、私には……」
首を振るアスクレーオスの肩を支え、顔を覗き込んだ。
「聖魔法があるでしょう」
びくっと跳ねたアスクレーオスが首を振った。
「でき、ません。私は聖魔法が使えないのですっ」
「今使わずにいつ使うんですか!」
無理だ、と首を振り続けるアスクレーオスにため息が漏れる。
カダが倒れてから何度も聖魔法を使おうと奮闘していたはずのアスクレーオスが、なぜ使えないのか。医師免許を持ち人体に詳しいはずのアスクレーオスが、なぜ?
「……本当は、聖魔法を使うのが怖いのでしょう? アスクレーオス様」
図星を刺されたアスクレーオスの動きが止まった。
「エイダ・フィジーラ。彼女のことを考えれば、命を削ってまで魔法を使うのは怖くなって当然です。だから、あなたは医師になったんだ。聖魔法を使わなくても手を尽くしたと言うために」
「……エイダをご存知なのですね」
「聖魔法について勉強していた時に。初代聖女の話を聞きました」
「そうです……エイダは短命でした。魔法大戦中に聖魔法を発現し、人々の治療にあたったせいでしょう。自らの命と引き換えだなんて思ってもみなかったに違いありません。……せめてエイダを見習いたい、と言えば、聖魔法を諦めるのを許されるとわかっていたのです」
アスクレーオスが唇に歪んだ笑みを刻んだ。
彼が聖魔法を使えないのは、無意識のうちに使うことを拒否していたからだ。これで死ぬかもしれないとなれば俺だってためらう。アスクレーオスを責めることはできなかった。
「アスクレーオス様、私にはあなたを責める言葉を持ちません。ですがこれだけは言わせてください」
アスクレーオスは怯えた目で俺を見た。
「この先何十年生きたとして……カダが死んでしまったことを、後悔しながら生きるのですか?」
紺色の瞳が揺れている。もうひと押しだ。
「聖魔法を勉強して、私が立てた仮説を話しましょう。過去の聖魔法の使い手には、医学の知識が足りなかった。運良く聖魔法を発現しても使い勝手がわからず、魔法で力任せに治すしかなかった。毎回全力で魔法を使っていたとしたら魔力が枯渇するのは当然です。適切な診察と治療であれば必要な魔力しか消費しないはずなのです」
「しかし、エイダは……」
「エイダとは時代が違う。戦時中の重傷患者を一人で治癒していたら命がいくつあっても足りません。聖魔法の使えない医師だって早死にしますよ」
死因は過労死だ。いずれにせよ、エイダはオーバーワークで死んだのだ。
「あなたが治療するのはこことこことここの、三カ所だけです」
「…………」
寝着を脱がされパンツも下ろされた、眠ったままのカダの患部を指差した。
「どうやればいいのか、私が指示します。アスクレーオス様、患部に手を当ててください」
「……わかりました」
さっきとは違う胆の座った声と瞳でアスクレーオスがうなずいた。カダの背中、重心がずれているのか右の肩甲骨に赤黒い痣ができている。そこに医師が手を置いた。




