踏み絵と目潰し
ヘンドリックの脱走で撤退をはじめたタナカ商会に様子見していた他の商会も、ヘンドリックがオデットを脱獄させたことで尻に火が付いたように王都撤退を決めたようだ。
通りを走り抜ける馬車の列に、人々は身を寄せ合って恐々としている。店じまいをしている商店もあった。
なんとか辻馬車を拾いたいところだがどこも出払っていて、俺は歩いてあちこちに情報収集も兼ねて挨拶回りに行っている。商人組合に警備隊、取引先の商店。みんな色々言いたいことがあるようだったが、ヘンドリックじゃしょうがないと思っているようで、恨みがましく睨みつつも「帰ってこいよ」と言ってくれた。ありがたいことである。
そして医師組合に行こうとしたところで、血相を変えたアスクレーオスが駆け寄ってきた。
「カー商会長!」
「アスクレーオス様、今から窺おうと思っていたところです」
「い、生きてますよね!? 良くご無事で……」
「探してくれたんですか?」
「そうですよ。本店に行ったらからっぽだし、何があったのか聞いたら元王子が脱走して商会長を狙ってるって話だし……」
「そうでしたか。遅くなってすみません」
アスクレーオスは息を整えるためか膝に手を突き、なかなか顔を上げようとしない。
「とにかく組合に行きましょう。カダも心配していましたよ」
「その前に、ちょっといいですか?」
俺の腕を引こうとするアスクレーオスを止め、俺は一枚のカードを取り出した。
「それは……」
カードを見て、不思議そうに俺を見る。
「オデットの姿絵です」
いわゆるブロマイドである。ピンクブロンドの少女がやさしげな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
ブロマイドはたいてい俳優か女優、歌手に国王一家などが主流だが、聖女候補だったオデットのものも量産されていた。金コマのダンテ伯爵が売りさばいていたらしい。それをオデット調査の際に入手したのだ。
「こんなことを頼むのは大変失礼と承知していますが、踏んでいただけますか」
「はっ!?」
ぽいっと地面に放ると一瞬怒りの眼差しになった。ハッとしたアスクレーオスはすぐにごまかすように苦笑する。さっきから、演技が下手だな。
「いや、あの、こんなことをしている場合では……」
「踏めませんか」
なおも俺が迫るとアスクレーオスから笑みが消えた。カードを拾ってポケットにしまう。
オデット信者のもっとも簡単で単純な炙りだし方法が踏み絵だ。大切に思っている相手はたとえ絵であっても踏みつけにはできない。それは歴史が証明している。踏んだところで本人が傷つくわけではないとわかっていても踏めない。俺だって、クラリッサの絵を踏むことはできない。自尊心や信仰心というより、自分の愛を踏みつけたような気がしてしまうからだ。踏めば愛の否定になる。
ひどいやり方だ。屈辱的で、嫌悪感すら湧く。しかしとても有効な方法だった。
「光魔法の使い手でありながら、聖魔法を発現できなかった」
怯えた顔をしたアスクレーオスが一歩下がった。
「彼女と同じですね」
「商会長……」
「オデットと会いましたか? 聖女に縋っても、病人を助けてはくれませんよ」
うなだれたアスクレーオスは顔を上げると必死に言い募ってきた。
「私は……。商会長、彼女はいい子ですよ、会えばわかります。商会長は誤解しています!」
「誤解しているのはあなたと彼女では? 人の助けになりたいと思う心は素晴らしいと私も思いますよ」
「なら!」
「ただ、他力本願なのはいただけませんね。私は商人なのです。搾取するだけで商売にならない相手と付き合う義理はありません」
「お金で幸せは買えません。カー商会長は「物は売っても心は売らない」と言ったと聞きました」
「金で買えるのは物だけですよ。――買えるだけの金があるって、幸せでしょう?」
「は……?」
ぽかんとなったアスクレーオスは金に困ったことがなかったのだろう。誰かの悪意で金も家も命さえも失いそうになったことがないのだ。
「金で幸せは買えませんが、安心と安全は買えます。金があるから素っ裸で震えることはないし、お腹が空いたら飯が食えて、あたたかい布団で眠れるわけです。おわかりですか?」
そう言って笑い、俺はアスクレーオスから距離を取った。
「……結局、幸せは金で買えるということですか」
あ、やっぱりわかってなかった。哲学的問答は苦手なんだけどな。
「幸せを感じる心は自由だって話ですよ。オデットとヘンドリックにお伝えください。これから俺が、それを思い知らせてやるってね!」
さっと顔色を変えたアスクレーオスが奇声を上げて摑みかかってきた。ポケットから取り出したものをアスクレーオスの秀麗な顔に向かって投げつけた。
「な……っ!? げほっ、げほっ」
卵の殻を張り合わせて作った、簡易目潰しだ。中身は唐辛子と胡椒の粉末。
まきびしでも作ろうかと思った時に、これなら家で手軽に作れると思い出したのだ。簡単なものだが効果は抜群だ。唐辛子のカプサイシンは脂で溶ける。目を擦ったりしたら地獄だ。イケメンも顔面崩壊である。
げほげほ苦しんでいるアスクレーオスを一度だけ振り返り、俺はその場を走り去った。
やっぱり、と思われた方正解です。
 




