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ロンドン塔に幽閉された兄弟とは、エドワード4世の長男で戴冠式を待つばかりだったエドワード5世とその弟のヨーク公のことである。1483年、王位を争った叔父(後のリチャード3世)によりロンドン塔に幽閉され、その年の夏まで塔内の庭で遊ぶ姿が目撃されるも以後その姿を見たものはいない。
200年後の1674年、塔の改修中、木箱に入った二体の子供の遺骨が発掘されたが身元は特定されなかった。
グッドヴィル家のこの特殊な来歴について、家政婦長センガ・ウェル、執事バジル・モルガン、料理人ケネス・シムネル、元メイドのリジー・アッシャーは知っていた。
リジーはメイドであると同時に若奥様イザベラの親友として秘密を分かち合っていたし、ケネスに至っては……
そもそも彼の系譜――エドワード卿が面白がって彼を採用した理由もここにある――こそ、ロンドン塔の脱出に成功した兄弟の子孫だと主張した、史実上最も早い人物ランバート・シムネルの末裔だと、ケネスが船上で明かしたせいだ。
先輩船員たちにヘマを叱咤され打擲されているところを助けてくれた新婚の貴族の夫妻に少年は精いっぱい胸を張って言った。
『俺は船乗りには向いてない気がします。料理が好きなんです。元々先祖は歴史に名の残る有名な料理人で宮廷の厨房で働いていたそうです。曽祖父さんが言うには、ウチは生き延びたロンドン塔の王太子兄弟の末裔だとか』
花婿は即座に手を差し出した――
『ようこそ、ケネス! ならば、ぜひ、我が邸で働かないか? 我々は親戚かも知れないぞ?』
結局、グッドヴィル夫人は逮捕されなかった。
主侍医ビクター・ホールが長年にわたりグッドヴィル家の宝玉を盗んでいたことが露顕し、それを追求された際、逆上した医師が当主の息子に銃を向け、逆に執事に成敗された。当然この行為は正当防衛とみなされた――これが警察ニュー・スコットランドヤードの公式の発表だった。
そこには殺鼠剤はおろか、グッドヴィル夫人の名は一切出てこない。
以下は、最もよく書けているデイリー・テレグラフ紙の記事よりの抜粋。
『今回の事件を担当した若手有能株のキース・ビー警部は、主侍医宅で執事の言葉を裏付ける数多くのグッドヴィル家の財宝を発見した。また先行する事件、屋敷の書斎で真夜中に幼い当主が襲われその襲撃者が謎の死を遂げた一件も犯人が主侍医の手先だったことが判明した。阿片中毒者だったこの男(カルテより本名レイモンド・オーマン32歳)は阿片を分けてもらう約束でホール医師に命じられるままグッドヴィル邸へ窃盗目的で侵入、運悪く心臓麻痺で絶命した、というのが事の真相である――』
言うまでもなく、これは貴族階級に配慮した表向きの報告である。またあまりにも衝撃的で重大な史学上の問題に鑑み、真相は封印されたようだ。
但し我らがキース・ビー警部の個人的な犯罪記録覚書には新しい項目が増えたようなのでそちらを覗いてみよう。
『ビクター・ホール医師の鞄から殺鼠剤が見つかった。これは当日医師と雑貨屋で遭遇し追跡した靴磨き協会の少年たちの証言と一致する。のみならず医師が新たに当主兄弟殺害を計画していた証拠でもある。
一連の水死偽装の発端となったのは先代奥方だった。このことはホール医師の告白現場にいた屋敷内の人々も証言しているが、奥方自身は寝室で殺鼠剤を飲み自死した。第一発見者だった医師が、屍骸の肺に水が溜まっているのを利用し池へ投げ入れて入水自殺を演出したのだ。その際ホールは周到にも自分の悪行の露顕を恐れて奥方の遺書及び日記帳を持ち出している。
この日記は、強奪したグッドヴィル家の財宝とともに医師宅で僕が発見した。
ここには奥方が自殺に至った理由が克明に記されていた。信頼する青年医師に一族の秘密を漏らした己の短慮を悔い、脅迫者と化した医師に怯える先代奥方の懊悩に涙が止まらない。ビクター・ホールは唾棄すべき人物、千度地獄の業火に焼かれるに値する!』
このあたり、いかにも熱血警部らしい書きっぷりである。
この他にもキース・ビー警部は薬屋の青年アシュレー・タルボットから聴収した〈静かな溺死〉に関しても克明に記録している。
とはいえ、残念ながらこの〝殺鼠剤服毒の死体が溺死と似た状態になる〟ことについて一般に知られるようになるのは第2次世界大戦後を待たねばならない。
1943年、イギリス軍が実行した諜報作戦《ミンスミート作戦》で担当責任者だった疫病学者サー・バーナード・スピルズベリーは『殺鼠剤を嚥下した死体は肺の中に滲出した体液が溜まり、海で死亡した状態と類似する』と明言した。
この現症を利用した死体偽造により偽の情報をドイツ軍に掴ませることにイギリス軍はまんまと成功したのだが作戦決行前、当時でさえ上層部は懐疑的だった。結果を危ぶみ逡巡する彼らにスピルズベリーは更に自信たっぷりに言ってのけている。『殺鼠剤死か水死かを見抜ける私と同レベルの優秀な病理学者は敵側にはいないだろう』
いずれにせよ、19世紀末の警察には手に余る事件だった。
*
秋風が吹き、ロンドン市民がグッドヴィル屋敷の忌まわしい事件を忘れ去った頃、屋敷の庭には専属の看護師が押す車椅子に乗って花壇を巡るウェルの姿が見受けられるようになった。
同じ頃、グッドヴィル夫人、イザベラ・グッドヴィルはケネスを護衛に長男リチャードを連れて故郷のフランスに赴いた。件の橋から家宝を持ち帰るためである。この間、留守番を強いられた次男はどんなに不機嫌だったかというと、さにあらず。ジョイスは至福を味わったらしい。何故なら、母と兄が不在のその数日間、リジー・アッシャーが幼子ともども屋敷に戻り甘やかし放題に面倒を見てくれたからだ。その上、ミミ嬢も(ここが一番肝心!)毎日遊びに来てくれた。蜜蜂への報告も忘れるほど甘美な日々を過ごしたとのこと。
そして、メッセンジャーボーイたちは――
上へ上へ……
下へ下へ……
階段を昇るのも下るのも、グッドヴィル一族の祖先にとって、それは、命を受け継ぐ〈生〉への道だった。
いつの時代だろうと、どの場所だろうと、暗闇に閉じ込められているより出口を目指して突き進むのは正しい。
(それにしても、あの日、俺が見た夢はなんだったんだろう?)
ひょっとして、時を超えた啓示? まさかな――
「どうしたのさ、ヒュー、いきなり黙り込んでさ」
ローラースケートを履いた足を止めタワーブリッジとロンドン塔を一望できるテムズ川沿いの風景に見入っている相棒ヒュー・バードに、追いついたエドガー・タッカーが背後から声をかける。
「ははぁ、また何かムズカシイことを考えているのかい?」
「いや、至って単純なことさ!」
ヒューは笑って振り返った。
「なあ、エド、俺たちはこうやって毎夜働いている。夜中、幾通ものメッセージを配達してるだろ。真っ暗で静まり返ったロンドンの街をブッ飛ばすのは爽快で楽しいけど、でも、何が一番いいって、夜を突き抜けて誰よりも早く朝陽を見る、この瞬間が最高だよな!」
「うん、まぁね」
エドガーは大きく頷いて同意した。
「本音を言うとね、僕はこの先、一生……永遠にだってこの仕事、メッセンジャーボーイをやっていてもいいと思うんだよ。ずっと君と、夜を突っ走って夜明けを眺めたい、なんてね」
ヒューの返事は、勢いよく身を翻したせいで聞こえなかった。
サッと指を差すその彼方――
「見ろよ、エド、新しい今日が始まる!」
今、まさに太陽が新旧の塔の先端を黄金色に染め始めた。ロンドンが目覚めて瞬きをしている……!
陽光に目を細めながらエドガーは渋々言った。
「OK、じゃあさ、永遠とまでは言わない、明日もまた君とこうして朝を迎えられますように!」
「そうだな。まぁそのくらいなら、手首のお守りに願ってやってもいいぜ。叶えてくれるかもな」
「よしっ! じゃ、君も太陽に向かって唱えてよ、せーの、この光景を……二人並んで……」
「一緒に味わえますように……!」
――― 死番虫 メッセンジャーボーイの謎解き ―― 了
:追記
イザベル・グッドヴィルが〈黒太子のルビー〉を隠した場所の目印として食堂に飾った絵は現在に至るもグッドヴィル家の所蔵なので一般公開はされていない。
だが幸いなことに、ほとんど同じ絵〈アニエールで/セーヌ川にかかる橋〉1887作 E・G・Bührle財団 (スイス・チューリッヒ)所蔵を、私たちはPC上で見ることができる。
この理由は謎でも何でもない。
例えばスイス・バーゼル美術館とひろしま美術館にある同名の〈ドービニーの庭〉という二点の絵が、庭を横切る黒猫がいるかいないかの違い以外、ほぼそっくりなことでもおわかりのように、これら諸作品を描いた画家フィンセント・ファン・ゴッホが同じ構図の絵を同時期に何枚も描く傾向があったためである。
☆最後までお付き合い下さりありがとうございました!
新しい時代、令和を生きる皆さまのご健康とご多幸を
19世紀末の勤労少年メッセンジャーボーイとともにお祈り申し上げます!




