2話:投資と銀行に入行
その後、株の売買を実際にやりたいから、父の木下武雄に100万円貸して欲しいと頼んだ。父は以前から株投資を30年もやっているので年5%の利子で300万円貸すと言い、信夫は、それに同意して借りた。和美さんも300万円を両親に借りて1978年、大学2年生になってから株投資を信夫と一緒に始めた。信夫がセブンイレブンの業態が面白いと言い注目していた。1979年10月に東証2部に上場する情報を得て、初値、成り行き買い170万円で1株ずつ、2株買った。
その後、株は高値をつけて買える状態ではなく1981年3月に大学を卒業して木下信夫と加藤和美は三菱銀行、千葉支店に入行した。加藤和美は経理部へ、木下信夫は、営業部へ配属された。銀行の給料は良かったが定期預金や金融商品の販売ノルマが課せられて、特に営業の木下信夫は、自分の両親と奥さん両親に新規に口座を作ってもらったりしていた、実家の親戚の天津小湊の家へ、手土産持参で行き、近くの人を含めて口座を作ってもらった。
当時はバブル全盛期で割引債券という金融商品も積極的にPRして口座獲得に血眼になっていた。このバブルに、乗じて投資勉強会も開いて積極的に外勤で成果をあげ3年目にして業績表彰も受けた。特に郵貯とか証券会社、保険会社との競争で金融商品に対しての知識も豊富で、相手の弱点を突いた営業で多くのお客さんを掴んでいった。特に激しい恋をすることもなく半ば当たり前の様に和美さんと1984年の4月に結婚式を挙げた。
新婚旅行は箱根と伊豆に2泊で出かけた。そして入行して5年目、給料と同じ分の新規開拓の報奨金をもらい給料も1千万円を越えた。その後、1985年8月11日に、長男の木下栄一が誕生した。目鼻立ちは、奥さんの和美さんに似て、優しそうだった。その頃には、銀行の販売促進会議で金融商品の勉強会の幹事を務めるようになり、その商品のPRポイントを全行員に教えるまでに成長し、仲間からも係長昇進、間近と噂された。
そして1986年も業績表彰に輝き、1987年4月に念願の係長に就任。しかしノルマが重くのしかかり、昇給はありがたいが、ストレスは半端ではなかった。もちろん自分もワリトー、ワリチョーをかなりの金額購入した。そんな苦しい時、長女、木下華子が1988年4月12日に誕生した。
この子は、信夫に似て、がっちりとした体格で、逞しかった。その後、子供達は、大病や、大怪我をすることもなく、すくすく育っていった。
そして、マイカーを買って、休みの日には、伯父の木下紀夫さんの住む、天津小湊にいって、海で水遊びしたり、釣りをして楽しんだ。伯父さんの家では子供さんが東京へ出て2人暮らしだったので子供達がくるのを楽しみにしてくれ、可愛がってくれた。その後も信夫は順調に業績を伸ばして年収が1200万円、報奨金を合わせると1500万円と奥さんの倍以上もらうようになった。1990年に東京の丸の内支店から、声がかかったが、転勤、直前に他の営業所の人が行く事になり、千葉支店に残れた。
これには本音の所、安心した、と言うのも、営業所が変わると、顧客が変わり営業成績が上がらないので、出世と言う面では、それほどメリットがなかった。1992年には遂に関東地区では1番出世で課長に昇進した。しかし、出勤時間も早くなり、帰り時間も遅くなり、ストレスは倍増した。