1話:海彦の誕生
1958年は東京オリンピックが決定したり、日産ブルーバードが発売され、マイカーブーム幕開けとなり、巷では日本がこれから発展するという意気盛んな時代だった。更に、日本の工業地帯では公害がひどく黄色い太陽、どす黒く異臭のするヘドロを含んだ港町が日本全国に多く存在した。九州で多く報告された水俣病の原因が工場排水に含まれる有機水銀が人の体内入り起こる事がわかった。
そんな時代24歳の木下武雄が京葉工業地帯の真ん中、千葉県市原市、五井駅から車で10分の所に住んでおり、毎日、黄色みかかった褐色の空を見上げ、憂鬱な毎日を送っていた。翌年の1959年3月11日、木下信夫は木下武雄と絹恵さん長男として3kgで誕生した。
その後、特に大病する事もなく、すくすく育っていった。市原市立国分寺台小学校に入ると身体が、どんどん大きくなり近くの柔道場の先生が目をつけた程で、特別生として無料で道場に通えた。柔道の技の覚えも早く、背負い投げ、内股、払い腰、大外刈りもあっという間に覚えた。父の畑を手伝ったりして野良仕事も苦にせず、こなし、ナスやピーマン、トマトの収穫も手伝っていた。国分寺台中学に入ると佐藤健介というライバルが出来た。彼は身長が180cmと長身で大外刈りと内股が得意技で木下信夫と国分寺中学柔道部の2枚看板になった。
千葉県大会で新人の部、個人戦で木下信夫が個人優勝、佐藤健介が3位になり、団体戦は準優勝し、2年、3年と団体戦優勝した。信夫は、いろんな物事を覚えるのが早く、集中力に優れていた。学業では暗算が得意で、数学の成績が良かった。中学3年の10月に佐藤健介は彼の父の仕事で静岡の方へ引っ越してしまった。信夫は小遣いを貯めたお金で近くの食堂でささやか送別会をしてあげた。佐藤健介は身体が大きく強面で友達も少なかったが、この時は目に涙を浮かべて喜んでくれた。
信夫は、地元の進学校の千葉市立稲毛高校に入ったが、そこには柔道部はなく学校を終えると小学校時代から通い続けた道場へ行き師範が不在の時は信夫が、師範代理になり教えていた。高校2年になり進学を考え道場をやめて勉強に集中していった。その頃、稲毛高校で同じクラスの加藤和美さんと仲良くしており、数学が得意で毎回トップ争いをしていた。総合成績では和美さんの方に分があった。成績はクラス3位、学年10位だった。
1998年4月に地元の名門、千葉大の理学部、情報数理学科に和美さんと一緒に合格した。そこで統計と情報処理の勉強をした。そこで加藤和美さんと株のチャート分析とファンダメンタル分析というテーマに興味を持った。そして株投資を始めた。信夫が加藤和美さんと家へ行ったり、和美さんが信夫の家に来たりして真剣に勉強をしていた。それを信夫の母の絹代さんが恋愛してると勘違いして、ある日、お茶を出しながら突然、うちの息子のどこが気に入ったのと加藤和美さんに聞います。
えー?、いや、違います、数学の勉強で同じ分野をやってる人が少ないので一緒にやってるだけで、恋愛感情は持ってませんと言った。この話を聞いて、信夫が母に腹を立て勝手な想像するなよと怒った。その時父の木下武雄が笑いながら勘違いは誰にでもあるからそう言うなと仲裁に入った。
加藤和美さんも、そうーよ、怒るなんて大人げないと信夫を注意した。