十八話:天幕の儀編 その4
アヤメは逃げた。自分のために戦うクルリを振り返りもせず、逃げ続けた。
人ごみをかき分け、露天の商品棚を倒し、子供と激突して転ばせて、それでも逃げた。
(ちくしょう、ちくしょう! オレなんか、逃げた所で、何になるってんだよ……!)
小杉アヤメは自己評価の低い人間だ。自分よりもクルリの方がよほど生き残るべきだと思っている。
それでも、彼女の足は止まってくれなかった。何故か? 怖いからだ。血が、痛みが、死が、そして、失望が。
足が震える。耳鳴りが止まらない。脂汗が止め処なく流れる。
水たまりを踏み抜いて走ると、店の狭間から魔物の蔦が手招きしていた。
「ひっ!」
反対方向に走る。蔦の正体はラアルなのだが、錯乱状態のアヤメには認識できなかった。魔物全てが敵に見えているのだ。
一分でも一秒でも早く、この場から離れたい。助かりたい。死にたくない。その思いだけがアヤメを衝き動かしていた。
人ごみを抜け、通りすがりの馬車に飛び込む。声を荒げて御者に頼み込む。
「お、おお、追われてんだ! 金はいくらでも払う! ぜ、全速力で走ってくれ!」
「……………………」
「おい! 聞いてんの……か……!?」
アヤメは絶句した。
表からはごく普通に見えていた業者だったが、その背中はおびただしい量の血液に塗れていた。そして、傷口は文字の形を為していた。
『うしろをみろ』
弾かれるように振り返り、アヤメは悲鳴を噛み殺した。
「あーあ。読めちゃったァ」
後部座席には、男が座っていた。
異様な風体だ。全身黒ずくめで、何かの呪詛をあしらった目隠しをしている。腕は異常なほど細く、それを覆う呪布の隙間からは、白骨が覗いていた。
「こ・ん・に・ち・はァ。お前、ニホンジンだな?」
そう言われて、アヤメは気付いた。傷口の殴り書きは、日本語で綴られていたのだ。
『と、貴き方は!』
「しぃーっ。お黙り」
アヤメは詠唱を止めざるを得なかった。後部座席の空洞甲冑が刃を抜き放ち、彼女の首筋を冷やしていたからだ。
「しょ、召喚術師……テメェが……!?」
「お初にお目にかかります。湖の巫女様。いや、向井の手紙が正しけりゃ、お前、小杉アヤメだな?」
「な、どうして……!?」
問いかけつつも、アヤメの中には答えはあった。否、向井が殺された時から、可能性は考えていたのだ。『犯人の一味にクラスメートがいる』と。
「く、クラスメートなのか? な、何か事情があんだろうが、まずは話を……」
「級友の情にすがろうってか! だが残念。俺はアンタの知り合いじゃあない。てっぺんから足先まで、勿論魂もこの世界製だ」
「な、なら、司祭の使いか? 金が目的なら……」
「ノンノンノンノンノンノン。もーアンタの言うこと全部ノン。俺はただ質問に来ただけなのさ。敬虔なる正統十字教の信徒として、ね?」
そう言って、男は舌に十字のペンダントを載せて、これ見よがしに見せつけた。
正統十字教と同様、十字をあしらった象徴であるが……。奇妙に歪んでいる。分派か、異端派閥か、スーメルアの知識には現れないものだ。
「な、何が聞きてーんだ」
「『招待状』だよ。お前のとこに、届いているか?」
「しょ、招待状? 何のだよ?」
「言わないと、お解りにならない?」
目隠しの声のトーンが下がる。その声色は、アヤメに一つの事実を理解させた。
(答えなけりゃ、殺される……!)
生存本能に命じられ、必死に自分とスーメルアの記憶の棚を検索する。しかし、どれほど隅々まで探しても、この男の意図するものに思い当たる節はない。ないのだが……。
(……いやだ、失望されたら、オレは……!)
「あ、あーあー。あれの事か。も、勿論、届いてるぜ」
「ビンゴ! やっぱ高貴な出は違うねぇ」
目隠しは細い肩をすくめた。
「確認なんだが、ミルク色の封筒に、金糸があしらわれてたか?」
「お、おうよ」
「宛名は、ちゃんとニホンゴで書かれてたか?」
「と、とーぜんだぜ」
「そーかそーか! 疑問解決、一安心だ! アッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ!」
「は、ははは……」
「アァッハッハッハッハッハッハッハッハッ………………んな招待状届くわけねーだろ」
「はは……え?」
「郵便屋さん困るだろ」
「え……あ、でも」
カマをかけられた、とアヤメは気付いた。
「どーも信用ならねーなァ。言葉が軽いっつーか、取り繕ってるだけっつーかさァ。オタク、ホントに招待状持ってんの? 持ってないの? 持ってない演技?」
「…………」
「自分がないんだよなァ。その歌声じゃあ、熱狂はない。熱狂がなけりゃぁ、姉さんの心は震えない」
「ね、姉さん……?」
「だ・か・ら、コイツに頼もうか」
そう言って、目隠しは何か白い……細長い虫を吐き出した。へその緒を思わせる怪物だ。ミミズを青白くしたようなフォルムに、醜悪な牙を持っている。
「ひっ!」
「《脳喰らい》っつーんだ。マニアには有名な魔物だが、温室育ちにゃ初見かな?」
粘っこい声で、目隠しはアヤメの反応を楽しむように続ける。
「こいつを人の耳に入れるとさ、脳をちゅるちゅるって吸い取ってくれるんだよね。で、ほんの僅かな記憶の断片を読み取れるんだ。愛称脳みそおみくじ君」
そのエイリアンじみた外観は、アヤメを錯乱させ、平衡感覚を失わせるに充分だった。
「た、助け、や、エイト……!」
「大丈夫大丈夫。脳って痛覚ないらしいから。いや、実験したことないから知らんけど。……んじゃこうしよう! 痛くなかったら歯を食いしばる。痛かったら思いっきり叫ぶ。オッケー? 理解? 後世のために頑張ろう?」
「や、やだ、お願、な、なんでも、しま……」
「はい、お耳いただきまーす」
ぬめりけある生暖かい感触が、首筋から耳たぶを這い上がり……。
「―――――――ジャスティス」
正義が馬車に落雷した。
轟音。閃光。衝撃。
正義は馬車を砕き、地を砕き、目隠しもアヤメも弾き飛ばした。
「ぐ……うぅ……」
アヤメが視界を取り戻すころには、そこにはクレーターが出来上がっていた。
空洞甲冑は焼けて拉げてバラバラになっていた。馬車の残骸はあたりに散乱し、馬は混乱して逃げ出していた。
「怪我はないか? スーメルア」
巫女衣装のダニエラが、折れたヒールで《脳喰らい》を踏み潰した。
「ダ、ダニエラさん……? どうしてここに?」
「ニイガキエイトの非常食めが、旗を振ってお前の居所を私に献上したのだ」
「そ、そう、ですか。ラアルさんが……。あ、ありがとう、ございます……」
「他人行儀な喋り方はやめろ。私はお前の姉だ」
ダニエラは妹を背中に庇い、目隠しと相対する。
『我が手に宿れ。慈愛に哭く者』
雷光と共に、手元に白き大槍……《龍骨の槍》を召喚する。
「下郎めが。妹から手を離さねば瞬殺だ」
「もうとっくに離してんだけどなァ」
「ならば良し! 無条件で瞬殺だ!」




