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愛を奏でるマリア

FIRST HOLY NIGHT

作者: 香月よう子

「愛を奏でるマリア」シリーズ「PART3」に当たる作品です。

シリーズでご覧下さい。

 外は、微かに雪が舞っている

 街は明るい声に彩られている

 どこからともなく

 "MERRY・CHIRISTMAS !!"

 聖なる一日

 心弾む一日

 今日は「WHITE・CHRISTMAS」




遙希はるき先輩。今日は本当に宜しかったんですか?」

 真璃亜まりあが、その店内の明るい照明の下で、声のトーンを落としながら遙希へそう問いかける。

「何がだ?」

「だって……お勉強がお忙しいんでしょう? この冬休みと言えばもう試験まで間がありません。それに」

 真璃亜は、更に言葉を続ける。

「今日は。「イブ」です。ご家族とご一緒に過ごさなくて……」

「いいんだ。子供の「クリスマス」じゃあるまいし。それに、(かず)()(にい)には新しい家族、(ひろ)()(にい)には恋人。小由妃さゆき(ねえ)にも婚約者がいる。両親は今日は、揃って財界のパーティーだ。俺だって、今日くらい息を抜かせてくれよ」

遙希は苦笑する。

「すみません……」

 いらぬお節介だったことを真璃亜は悟る。


「アペリティーヴォの代わりに、オレンジジュース。水はペリエでいいか?」

 と、遙希が問うた。

「アペリ……?」

「食前酒の代わりにオレンジジュースでいいか、と聞いたんだ」

「はい。お願いします。」

「了解だ」


 遙希はボーイを呼び、クリスマス・スペシャルランチのオーダーを告げる。

 黒服のボーイは

「かしこまりました」

 と一礼し、奥の厨房へと下がった。


「でも……。宜しかったんですか」

「だから、何がだ」

「こんなに、素敵な。イタリアンのお店のテーブルを、予約だなんて……緊張しちゃいます」

「イブのリストランテを予約しなくていつ予約するんだ? 満席だろ。それに、外でお前と食事する時くらい、落ち着いて味わいたいじゃないか」

 確かに街も店もクリスマスムード一色で、特にこんなに雰囲気のいいレストランなら、早くから予約していなければとても席はないだろう。


 ここは、「(みなと)本町(もとまち)」の「海岸通り」。

 そのメインストリートに面したイタリアン・リストランテ「Bul(ブール)Blanc(ブラン)」という店である。

 店内は、赤と黒でスタイリッシュな落ち着いた空間に彩られている。

 本格イタリアンを供する店だが、女性向きのヘルシーなメニュー、殊に併設の工房で焼かれる自家製パンで評判のレストランだ。

 

 イブの今日、遙希は時間を割き、十二時にこの店のテーブルを予約していた。真璃亜と共に、イブの午後を一日ずっと共にするつもりであった。

 その時間を作る為にここ数日、睡眠を少々削って、勉強も頑張ったのだ。今日一日は心置きなく真璃亜と共にゆっくり過ごそうと遙希は考えている。


 その時、ボーイがペリエをサーブし、そして、大きなパン籠を下げてきた。

「お好きなパンをどうぞ」

 籠の中には、クロワッサン、フォッカチャ、玄米パン、ブリオッシュ、フーガス、バタール、シュリッペン、プレッツェル、クランペット等……その他、各国の代表的な種々のパンを小さくカットしたものが入っている。

 遙希は、ブリオッシュ、マフィン、ホールミールブレッドを選び、真璃亜は、フォッカチャ、田舎パン、プンパニッケル、を選んだ。

 真璃亜が、大好きなフォッカチャを一口食べてみると、それは、イタリア本場のオリーブオイル独特の風味がして、とても美味しい。


 オレンジジュースを片手に、真鯛のカルパッチョに手をつけながら

「早く。アペリティーヴォも楽しめる年齢になりたいものだな」

 と、遙希が言った。

「そんなに早く大人になりたいんですか?」

 と、トマトとバジルをのせたブルスケットをゆっくり食しながら、真璃亜が問う。

「出来るものなら大人になどなりたくないよ。でも」


 と、一瞬、遙希は言い淀んだが、呟いた。


「今の年齢(とし)では周りがなかなか俺を認めないんだ。日向ひゅうがの後継者とは。若すぎる、というただその一点においてな。それでは、困るんだ。余計な派閥抗争の種になる」

 真璃亜は何も言わなかった。

 言えないまま、じっと遙希の美しい顔を見詰めている。

 国内最難関レベルの「(とう)(おう)大学」受験だけでも充分に大変だと言うのに、遙希の目はもう社会……日向の事業を継ぐことだけを見据えている。

 それが、若干十八歳の青年にとって、どれほど過酷なことなのか……。

 真璃亜は遙希の胸中を思うと、複雑な想いを禁じ得ない。

 自分は、そんな遙希の、少しでも慰めになっているのだろうか……。

 やはり、真璃亜は胸が潰れる気がした。

 

 プリモピアットは、季節の品らしい貝柱と白菜のグラタンで実に舌にまろやかな味がした。

「先輩は辛いモノはお好きですか? アラビアータとか」

 アラビアータが唐辛子の効いたトマトソース料理であることくらいは、真璃亜も何となく知っている。

「ああ。タイ料理とか結構好きだな」

 そう言いながら、遙希も美味しそうに食している。


 その間、二人は、近況や音楽の話などに興じていた。

 真璃亜の近況としては、冬期休暇に入って、古文の宿題で「百人一首」の全首暗記が課されたこと。術科のピアノでは、今、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」に取り組んでいること。それをどうやら来春三月、今年度末の「学内演奏会」のソリストとして弾かなければならないだろう……というようなこと。

 遙希はその真璃亜の話を聞きながら、自分の受験勉強が順調なこと。今年最後の全国模試の結果、東応大学の合格判定結果が「A」だったことなどを、嬉しそうに真璃亜へ報告した。

 

 そして、メインディッシュのセカンドピアットがサーブされた。

 真璃亜は、

「これは。何のお肉なんですか? 食べたことない気がします」

 そう言いながらも真璃亜は、温野菜が添えられたその肉料理を美味しそうに食べている。 

「ああ。言い忘れたが。……というか、言わない方が良いかな」

 そう言いつつも、遙希は言った。

「「コンリオ・アラ・カチャトーラ」はウサギの肉の煮込み料理のことだ」

 遙希のその一言に、真璃亜は、カチャリとフォークを皿の上に落とした。

「そんな。ウサギさんのお肉、だなんて……」

 可哀想……と、真璃亜は眉をひそめる。


「女子供というものは、という言い方は差別的だが。皆、同じ反応なんだな」

 遙希が面白そうに笑うので、真璃亜が訝ると、

「俺が生まれる前、まだ小由妃姉様が四つの頃。初めて両親とヨーロッパに行った時に、レストランで「コンリオ」がイタリア語でウサギのことだと聞かされて、ウサギのお肉を食べてしまったと、それは大泣きに泣いて騒いで、大変だったそうだ」

「それは……!子供心には。トラウマになりますね」

 真璃亜が真顔で言うと、

「そういうものか? 俺には理解不能だな」

「先輩は、男性だからです」

「だから、言っただろう? 女子供というものは、と」

 遙希はケロリとしている。


 それから。

 相変わらず二人は、音楽の話題で盛り上がった。

 遙希は、ヴァイオリンの話だけではなく、最近とみに交響曲……とりわけブラームスに関心があると、真璃亜に告げた。

「指揮に興味がある。ということですか?」

「いや。そういうわけではない。俺はあくまでヴァイオリンのソリストか、オケならコンマスしか()る気はない。しかし」

 と、遙希は言った。

「大学のアマオケで機会があるなら、一回くらい「ブラいち」(ブラームスの交響曲第一番)は振ってみたいな」

 と、遙希は呟いた。


「大学アマチュア・オーケストラ部……いいですね。私も大学生になったら、入部したいです」

「お前もあくまでソリストだろう? それに、オケでピアノはあまり弾く機会(チヤンス)がないぞ」

「私。……ヴィオラが弾いてみたいんです」

「ヴィオラ?」


 その真璃亜の意外な言葉に、遙希が訝る。


「はい……。私。いつも、ピアノ・ソロか、オケでは中心(まんなか)にいるので……ヴィオラの様に……」

「縁の下の力持ち、になりたいわけか?」

 遙希が真璃亜の言葉の先を読んだ。

 果たして、真璃亜は小さく頷く。

「全く。お前らしい発想だな」


 遙希は、その真璃亜の素直な心掛けには感心する。

 通常、オケでヴィオラはそれほど人気は高くない。

 華麗な主旋律を弾くわけでなく、あくまで弦の旋律を補助するパートのヴィオラはけれど確かに、真璃亜のように進んで前へ出ることを望まない人間には、適したパートと言えるだろう。


「しかし……やはり、お前はピアニストだ」

 遙希は呟く。

「今夏は、せっかくの「千堂せんどうあきら推薦」の協奏曲(コンツェルト)デビューを自ら蹴ったんだ。お前が、お前を「美少女天才ピアニスト」とミーハーに騒ぐマスコミを毛嫌いする気持ちもわかる。しかし、周りはもう生半可な演奏ではお前を認めない。……わかっているだろうが」

 遙希は、重々しく言った。

「お前の選んだ道は厳しいぞ」

「充分承知しています」


 しかし、真璃亜はあっさりと、遙希のその言葉を受け流す。


「デビューするならこの高校三年間、しっかり基礎と練習を積んでから、と思っています」

「お前ほどの基礎と実力があればもう十分だろう……! 特に海外では、お前より年若くして世界的に活躍しているピアニストも沢山いるじゃないか」

「私は、デビューを焦ってはいません」


 その真璃亜の澄んだ言葉に遙希は一瞬、言葉を失った。

「欲のないことだな」


 ソリストデビューができるなら、他人を蹴落としてでも……というような一般人の発想など、真璃亜はおよそ全く無縁だ。

 他の人間にはない「何か」を真璃亜は確かに持っている。

 それが、真璃亜の「天与の才」だ。

 そこに自分は。強く惹かれたのだ。

 そして……自分は──────

 ヴァイオリンの道を断ってしまった……。


 その遙希の率直な感慨はしかし、この秋、真璃亜を「摂食障害」へと追い詰めてしまった。

 もう二度と、決して、同じ想いを真璃亜にさせてはならない。

 己の未熟さを、遙希は痛感する。

 真璃亜を守るどころか、自らの手で、真璃亜をあそこまで。あの、生死の境ぎりぎりだったと言っても過言ではない状況……そこまで、自分は真璃亜を追い詰めたのだ。

 それを思い返すと、遙希は今でも自分が許せない。

 この屈折した想いは、一生、一人で抱えていくのだと。 遙希は改めて自身に言い聞かせていた。


 そうして。

 食事は終わり、ドルチェが運ばれてきた。

 最高級の豆で挽いたエスプレッソに本場イタリアから取り寄せたマスカルポーネチーズがふんだんに使われているティラミスには、クリスマスらしく表面に「MERRY CHRISTMAS」と書かれた小さなマジパンと、柊を模した小さな葉がちょこんとのっている。

 ソースの上からかかっている白いパウダーはまるで、降り積もった粉雪のようだ。


「可愛いですね。イブらしいわ」

 真璃亜が嬉しそうに笑う。

「私、ティラミスは大好きです。時々、手作りして頂きます」

「へえ。お前、お菓子作りが好きなのか?」

「はい。このイブのクリスマスケーキも、小さいモノですが手作りしています。宜しければ……」

「……何だ?」

「い。いえ」


 真璃亜は思わず言葉に詰まり、ペリエを飲んだ。

 ご一緒に召し上がりませんか?……と言おうとしたのだが、それでは、遙希を部屋に招く口実のようではないか。

 やはり、女子学生の身で一人暮らしをしている以上、それは不謹慎なような気がした。

 遙希に何の邪心がないとしても、だ。

 実際のところ、遙希は真璃亜のマンションのエントランスまでは来たことがあるが、今までに例外的に二回だけしか、まだ真璃亜の部屋に入ったことはない。

 遙希も真璃亜も、その点に関しては、慎重すぎるほど慎重な二人であるのだ。

 

 そして、食後のカッフェ……エスプレッソの時間になった。

 本場流のエスプレッソは、真璃亜の口にはやや苦かった。しかし、食事には充分に満足していたし、その濃い味の食事にもデザートにもよくマッチしているような気がした。


「真璃亜。今日、予定や時間は?」

 エスプレッソを飲み干すと、遙希が問うた。

「はい。勿論、一日空けてあります」

「買いたい物は?」

「特には」

「では、俺の買い物につきあってくれないか? 新しい財布が買いたいんだ」

「お財布、のお買い物ですか? ええ。喜んで」

 そんな会話を交わし、二人はイタリアンのフルコースランチを満足して終えた。




「やっぱり、「海岸通り」はいつ来てもお洒落ですね」

 深呼吸しながら、歌うように、真璃亜は言った。

 真璃亜の言う通り、海岸通りはかなり気の利いた雑貨店やアパレルが立ち並んでいる。

 そしてそこは「港町」らしく、インポートの香りにも溢れていて、時折、モデル風のやけに背の高くスレンダーな男性や女性。金髪の外国人なども通り過ぎて行く。

 やはり「お洒落」の一言が一番よく似合っている街だ。

 そのストリートを十五分程歩き、二人は旧居留地の一角に位置する「COACH(コーチ)」に着いた。


「先輩。ここで買うんですか?」

「ああ。良いのがあればな」

 二人はイブで華やぐ「COACH」の店内へと入った。

 レザーのバッグが沢山並んでいるその店の中で、革小物のコーナーを見る。

 紳士物の財布は、何点か種類があった。

 その中で、遙希の目に止まった財布(モノ)は、スポーツカーフレザーで内部が二つの紙幣入れ、十二のカード入れ、ファスナー付きポケットに、レシートなどが収納できる多機能ポケットに分かれているものだった。

 皮の質感が良く、手にも馴染みやすい、サイズ的にも使いやすそうなラウンド型の長財布だ。


「真璃亜。何色がいいと思う?」

 と、遙希が真璃亜に問う。

「そうですね。黒とネイビー、キャメルの三色ですよね」

 真璃亜も手に取ってみながら、意見を言う。

「黒はちょっと暗くてオジサンぽい感じです。ネイビーはすごく落ち着きがあって素敵ですが、キャメルも発色が良くて明るい感じでいいですね」

「では、ネイビーかキャメルということだな。どちらが良い?」

 と、尚、遙希は真璃亜の意見を求める。


「お好みだとは思いますが……」

 と、真璃亜は小首を傾げながら、

「でも。遙希先輩には、このネイビー。すごく落ち着いていて、知的で。大学生になられる先輩には、ぴったりだと思います」

 と、真璃亜は言った。

「そうだな。あと三ヶ月後には、東応大生か」

 と、遙希はごく自然に呟く。

「そうです。このお財布を受験の時も持っていって、絶対合格!です」


 真顔で力強くそう言う真璃亜に、遙希は思わず笑った。




「悪かったな。俺の買い物につきあわせて」

 手に白い紙バッグを手にして店を後にしながら、遙希が真璃亜にそう言った。

「いえ。お買い物は女の子には楽しいものです」

 真璃亜は機嫌良さそうに応える。

「そういうものか」

「そういうものです。特に「海岸通り」の超高級ブティックだなんて。先輩は慣れていらっしゃるでしょうが、私なんかには特に楽しいことですよ」

 そう言いながら真璃亜はいかにも嬉し気に、きょろきょろとストリートのブティックを見回している。


「綺麗……」

 その時。

 言うともなしに呟いた真璃亜のその一言を、遙希は聞き逃さなかった。

「何が「綺麗」なんだ?」

「え。いえ……」

 しまった、と、真璃亜は思ったが、もう遅い。

「俺の財布選びにもつきあってくれたんだ。クリスマスプレゼントに買ってやるよ」

「でも……」

 真璃亜は尚、固辞するつもりだったが、遙希のその気迫(オーラ)には負けた。


「あの……指輪(リング)が、すごく。綺麗だと……」

 真璃亜は既にその事態にやや困惑しながら、傍らのその店舗「4℃」の店頭に飾ってある指輪を指さした。

 それは、クリスマス限定のペアジュエリー。

「4℃」の特徴である波形のウエーブがニュアンスを醸し出し、そして女性用の方には、中央にメレダイヤが一粒あしらってある。

 いつの間にかすっかり、真璃亜はその指輪に目を奪われていた。


「お客様。こちらの商品はアルファベットで短いですが、文字が入れられますよ」

 と、女性店員がにこやかに声をかけた。

「え? アルファベが入れられるんですか?」

 真璃亜は、うっかりとその声に応じてしまった。

「ええ。アルファベットで10文字以内でしたら」

 にっこりと彼女が微笑む。

「キマリ、だな」

 遙希は満足そうに、そう言った。




「お待たせいたしました」

 無垢な白シャツに黒いタイ、黒いロングエプロンのウエイトレスが、オーダーした品を運んできた。

 その場で遙希が会計を済ませると

「ごゆっくりお過ごし下さいませ」

 と、一礼して去っていく。

 円形のテーブルには、リーフ模様にカフェアートされたカプチーノが二杯と、季節のショートケーキ……この日はクリスマス期間限定の苺のショートケーキのバニラアイスクリーム添えが並んでいる。


「わあ……」

 その時。

 真璃亜が声を上げた。

「雪……」

 いつの間にか今年最初の「初雪」が、ちらちらと辺り一面に舞い始めているのだ。

 まさしく「ホワイト・クリスマス」である。

 その白いモノに手を伸ばしながら、

「函館が……懐かしいです」

 感極まった様子で、真璃亜が呟く。

 それは、触れればすぐ溶けてしまう淡雪だが、真璃亜には充分に郷愁の情を誘うものだ。


「真璃亜。寒くはないか?」

 ふと、遙希は真璃亜の躰を気遣った。

「ええ。ストーブが隣にありますし、それに膝掛けも」

 真璃亜はにっこりと微笑み、

「お気遣いなく」

 と、応えた。


 今、二人がいる場所は、やはり海岸通りに面したイタリアンカフェ「CAFFEE(カフェ)LA()」のオープンテラス。

 そこは、目の前に「LOUISVUTTON(ルイヴィトン)」のショップが入っていたりして、道行く人々もひどく洗練されている。

 道路沿いに植えてある落葉樹の街路樹や、異国情緒の街灯といい、ストリートの雰囲気は、ロマンティックな雰囲気(ムード)一色である。


 しかし、さすがにクリスマスという寒い時期(シーズン)だ。

 暖かい店内の方はうんざりするほど満席で、しかも、今はイブの午後のティー・タイム。

 寒風吹きすさぶテラス席でも、十分ほど並んでようやく席が確保できたのだった。

 しかし、真璃亜の言う通り、テラスには所々ガス・ストーブが入っており、幸いなことに真璃亜のすぐ傍にある。

 カフェの客には全員、軽い毛布が無料で貸し出されているので、それで寒さも幾分かはマシになる。


「それにしても」

 と、温かいカプチーノに口をつけながら、遙希が憮然と呟いた。

「文字入れに約二週間もかかるとはな。興冷めじゃないか」

「イブの当日ですし。こうして指に合うサイズのリングが残っていただけ奇跡です」

 真璃亜の言う通りだ。

 メンズで14号、女性用で9号という比較的、標準的なサイズのペアの指輪がこの時期まで店頭に残っていたことだけでもやや驚きである。

「MARIA & H」「HARUKI & M」という刻印は、来年早々にでも落ち着いてから、真璃亜が店舗に持参して入れてもらうことにしたのだが、その文字入れに二週間程かかるということが、遙希は不満だったのだ。


 遙希はそして、話題を変えた。

「お前の左の薬指のサイズが9号というのも、いささか驚いたがね。もっと細いと思っていたよ」

「私……体は母に似て細いんですが、手は。父に似たらしく、指の節が太いんです」

 真璃亜は恥ずかしそうに、俯いた。

 真璃亜の洋服のサイズは9号にも若干(やや)満たない。

 その小さな躰に比して、意外なほどその指は長く、骨太で、細いとは言えない。


 しかし、

「この長くて太い指だから。あれほど重厚なベートーヴェンが弾けるんだな」

「せ、ん、ぱい……」

 遙希は、不意に、買ったばかりの指輪が光る真璃亜の左手を、同じ指輪が光るその大きな左の掌で、愛おしそうにそっと包んだ。

「……真璃亜。手が。ものすごく熱いぞ! 熱があるんじゃないか?!」

 

 しかし。

 その時、遙希は初めて気付いた。

 真璃亜は何かボーッと潤んだ目つきをしている。

 熱があるのかもしれない……。

 そう思って真璃亜の額に手をやった遙希は一瞬、絶句した。

 真璃亜の額もまた、ものすごく熱いのだ!


「馬鹿! 真璃亜、何で今まで黙っていた!!」

「だって……」

 真璃亜にとって、初めての恋人と過ごす「クリスマス・イヴ」。

 それでなくとも多忙な遙希が、せっかく自分の為だけに作ってくれた貴重なデートの時間を……。

 熱がある、などとは真璃亜には、どうしても言い出せなかったのだ。


「真璃亜! 帰るぞ!」

 カプチーノもケーキも、まだ半分以上残っているが、そんなことはどうでも良い。

 この寒空の下、生来体の弱い真璃亜を呑気に連れ歩いた自分を、遙希は酷く後悔した。

 一刻も早く、真璃亜を家に帰さなければ……。

 遙希はもはやろくに歩けない真璃亜を支えながら携帯で、自分付きの日向家の運転手を呼んだ。




「真璃亜。部屋に入るぞ」

 オートロックのマンションの玄関を、春四月の真璃亜の入学時の段階で万一の時の為にと、真璃亜の合意の下、作ってあった合い鍵で開けると、208号室の真璃亜の部屋の前まで来て遙希は、躊躇いなくそう真璃亜に声をかけた。

 真璃亜は熱でボーッとしながらも、微かに頷く。

 そんな正体不明の真璃亜を伴い、遙希は、この夏と秋九月の『あの日』以来、三度目となる真璃亜の部屋に入っていた。

 1LDKの真璃亜の部屋は、北側入り口から入ると、すぐ南向きの広いリビング・ダイニングがある。

 そして、「(しょう)(ほう)音楽学院」の下宿生御用達のそのマンションは、西側に防音設備が整った八畳ほどの部屋があり、そこに真璃亜の愛器であるウィーンの名器(ピアノ)・ベーゼンドルファーも位置している。

 故に真璃亜のベッドは、リビングにあった。

 

 とりあえず、真璃亜をベッドに横たわらせる。

「真璃亜。着替えることはできるか?」

 出来ることなら、パジャマへの着替えも手伝ってやりたいくらいの真璃亜の憔悴ぶりだったが、それは真璃亜も応じなかった。

 遙希が背を向けている間に、真璃亜は全精力を振り絞って、ベッド脇に畳んで置いていたパジャマに着替えると、なんとか自力でベッドに潜り込んだ。


 その気配を確かめて、

「真璃亜。体温計と風邪薬はどこだ?」

 再び、遙希は真璃亜へ問いかけた。

 しかし、その遙希の問いには、もはや真璃亜は答えられない。

 ただもうぐったりと、意識もあるかどうかわからない様子だ。


「まずいな……」

 腕に真璃亜を抱きながら、遙希は独りごちた。

 とみに、真璃亜の息遣いが荒い。

 額に手を遣ると多分、三十九度の熱がありそうだ。

 遙希は部屋の中を見渡し、ベッドの隣にある多機能ボックスへと目を留めた。

 そこには幸いなことに、遙希が思った通り、真璃亜の常備薬らしき「薬箱」があった。


「パブロンゴールドSW……総合感冒薬、か。これでいいだろう」

 遙希は中から一瓶の風邪薬を探し出すと、二錠の黄色い錠剤を手に取った。

 それから、ダイニングキッチンの食器棚からコップを取り出すと、流しで水を汲み、再びベッドへと戻った。

「真璃亜。薬だ。飲んでくれ」

 遙希は真璃亜を再び抱き起し、なんとか真璃亜にその風邪薬を飲ませようとしたが、やはりその息遣いは荒く、真璃亜はコップを持つこともできない。


 どうすればいい?!

 遙希は切羽詰まる気持ちだった。

 その時。

 遙希は、思い切って、コップの水を口に含んだ。


 そして。


 真璃亜……。

 祈るような想いで、真璃亜の躰を抱いたまま、その薄い口唇にそっと、触れた。

 真璃亜は目を閉じ、息は荒いままだった。

 熱で熱く、真璃亜の口唇はカラカラに乾いている。

 

 真璃亜……。

 こんな形で、真璃亜の初めての口唇に触れるとは。

 しかし、そんな感慨に浸っている余裕は今はない。

 果たして。

 遙希の思い通りに、真璃亜はごくり、と薬を一口飲み込んでくれたのだ。

 

 真璃亜の(くれない)の口唇からその白い喉へと伝う水を、遙希はとっさに口唇で拭う。

 その時。

 不意に真璃亜の汗ばんだ白く細い首筋と、肌に張り付いた髪の毛が、やけに生々しく、遙希の目に飛び込んできた。

 一瞬、どきりと遙希は顔を赤らめる。

 こんな時に。

 何を考えているんだ、俺は……。

 不埒な想いだったわけでは決してないが、遙希は結果として自分のその乱れた一瞬の感情に、己の男の(さが)を見る思いがして慌てて横を向いた。


 

 それから────── 


 

 ずっと、遙希は真璃亜に附き添っていたが、ふとベッド脇の時計(アラーム)を見遣ると、もう夜7時を過ぎている。

 真璃亜をこのまま放置しておくわけにはいかないが、このまま自分が看病の為とは言え、真璃亜の部屋に泊まることも出来ないだろう。

 それは真璃亜の本望ではないだろうし、何より真璃亜にとって外聞が憚られる。

 遙希はおもむろに、傍らの自分の携帯を取った。

 そして、遙希は意を決すると電話をかけ始めた。


「……あ。遙希です!」

 相手は電話に出たようだ。

「実は……」

 遙希は、その誰かと何かの会話を交わしていた。






 先輩……。 

 先輩……。

 

 真璃亜が夢と(うつつ)の間にまで、遙希の影を探している。

 

 え?

 今、何て……。

 そんな。ヴァイオリンを止めるだなんて。

 そんな、嘘です……!


「せん、ぱい……」

 真璃亜の()に涙が光っている。

 朦朧とした意識の中で、微かに、真璃亜の左手の薬指には遙希とペアの指輪が煌いている。

「すき、です……」

 先輩……。


 その時。

 誰かが、指輪のはまっている真璃亜の左手をぎゅっと握った。

 その()が捉えた人物(もの)は……。

 遙希先輩……?

 真璃亜の意識がまた遠くなった。

 ───────────・・・ 







 その時。

 うっすらと開いた真璃亜の瞳の前には、見知らぬ人の白い手があった。


「あ……。気がつかれた?」

 それは、背中へとかかる髪がとても長い。

 その髪は、遙希と同じ薄茶色で、ふわふわのウエーブが自然にかかっている……。

 一人の女性の姿があった。


「あ…。貴女、は……?」

 見知らぬ、見るからに大人っぽい、しかもそれはすこぶる綺麗な、年上の女性が目の前に座っている。

 極めて堀りが深く、二重がぱっちりとした大きなすみれ色の真璃亜の幼い顔立ちとは違い、いかにも日本女性のような細面ほそおもてで、切れ長のアーモンドシェイプの黒い瞳、スッと伸びた鼻筋。

 明らかにそれはろうたけた日本女性の美であった。


「良かったわ。熱も下がってきているの。と言っても、まだ三十七度以上だから、安心はできないけれど」

 彼女はそう言って、

「さあ。(おでこ)の冷湿布を取り換えましょう」

 真璃亜の額にいつの間にか貼られていた熱冷ましの白いシートを剥がしてくれた。

「すみません……」

 普段、遙希に謝り馴れている真璃亜は、この時も何の躊躇もなく素直に頭を下げた。

「三十九度の熱の風邪ひきさんが、謝る必要はなくてよ」

 にっこりと彼女は微笑む。


「明け方までにもう一度、薬を飲んだ方が良いわ。何か食べたいモノはないかしら? とりあえず私のお手製で良かったら、五分粥を作ってあるから少し火をいれるだけですし、お林檎を擦っても良いし。お蜜柑や、食べやすい蒸しパンのようなモノや。チョコレートなんかも買ってきてあるのだけれど」

 そう言って、真璃亜の顔を覗き込む。

「私の作ったモノや買ってきたモノは、お嫌かしら?」

「い、いえ!そんなことは。頂きます」

「何を?」

「お粥を少しだけ……。頂きます」


 このやりとりのテンポ……誰かと似ている。

 そう。それは、普段からの遙希との会話にどこか似ているのだ。

 その時、真璃亜は閃いた。


「あ、あのう……」

(なあに)?」

 彼女がキッチンでお粥に火をいれながら、真璃亜に問いかける。

「貴女は……もしかして。日向、先輩のお姉様……。ですか……?」

「そう思う?」

「はい。先輩から小由妃さゆきさんは、六歳年上の二十四歳と伺っていますし。私には、そんな御年齢の方の知人はいません」

「……はい。熱いから、気をつけて」

 お粥の入った抹茶茶碗を手渡しながら、彼女が言った。


「残念でした。私は確かに小由妃さんと同じ年だけど、遙希さんの「姉」ではないわ。小由妃さんとは、仲の良いお友達ではあるけれど」

 真璃亜は、首を傾げた。

 どういう意味だろう……。

 そもそも、真璃亜は小由妃の存在を知ってはいるが、直接逢ったことはない。

 そんな縁の薄い小由妃の、それも「友人」が何故、今、真璃亜の部屋にいるのだろう……。

 目の前の優しく、美しい女性は、一体誰なのか?


「私は」

 彼女は、真璃亜の目を見つめると、はっきりと真璃亜に告げたのだ。

「私は遙希さんの婚約者です」

 え……?!

「婚約、者……」

 この目の前の、美しい大人の女性が遙希の婚約者……。

 呆然として、真璃亜は言葉もない。

 ただ、まじまじと彼女の顔を凝視する。


 では。

 では。

 遙希から買ってもらったばかりの、この、左手の薬指の指輪は……。

 何より、遙希のあの優しい言葉は。仕草は。眼差しは。

 みんな、みんな嘘だったというのか。

 真璃亜はただ、遙希に騙されていただけだというのだろうか……。

 息詰まる硬い空気が流れていく。

 ただ、冷ややかな雰囲気(ムード)が二人を包んでいた。

 

 しかし。

 クスリ。と、彼女は笑んだ。

「ごめんなさい。冗談よ」

「冗、談……?」

「ごめんなさい。私の悪い癖、ね。人をからかったり、ジョークを言うのが好きなの」

 クスクスとその女性(ひと)は笑っている。


「……本当にごめんなさい。このジョークは、貴女には過ぎたようね」

 しかし、真摯な声で彼女は謝った。

 真璃亜は、本気で泣き出す寸前だったのだ。

「改めて自己紹介します。私は、(じょう) 倫絵(みちえ)。「お城」に「倫理の絵」と書いて、(じょう)(みち)()。遙希さんの下のお兄様……紘樹ひろきさんの婚約者です」

 にっこりと彼女は艶やかに微笑む。


 遙希の下の兄、紘樹の婚約者……。

 それなら、年齢的にも納得できないわけではない。

 真璃亜はようやくホッとしながらも、しみじみと目の前の、まだどことなく正体の掴めないその見知らぬ女性を凝視した。

 美しいがしかし、その微笑みは、真璃亜とは以て非なるものだ。

 真璃亜も美しいが、倫絵というこの真璃亜より八歳年上になる彼女の「美しさ」は、何か……。

「彼岸花」の持つような。

 その「儚さ」そして何よりそう、「妖艶さ」を持っている。

 この女性(ひと)には敵わない……。

 自分が年下というだけではなく、何かそう天敵の持つような強さをも彼女は備えている気が、真璃亜はした。


「さあ。召し上がったなら、このお薬をお飲みになって」

 彼女は、薬とお水を運んできてくれた。

「今は、イヴの真夜中の0時過ぎです。今夜は早くこのままお休みになって。私は明日、遙希さんが来てくれるまで、貴女の傍に付き添っていますから」

「で、でも。それでは……」

 再び身を起しかけた真璃亜を優しく制すると、倫絵は言った。


「その代わり。ひとつお願いがあるの」

「何でしょう……?」

「貴女をスケッチさせて頂きたいの」

「ス、スケッチ?」

「私、「(その)()」……「園田(そのだ)芸術美術大学」の院生で、専門は人物なんです」

 彼女は静かに畳み掛ける。

「一晩の付き添い代と考えたら、易いものでしょう?」


 如何……と、有無を言わさないそれは魅力で、(みち)()はまた笑んだ。




 翌日。

 真璃亜が目を醒ますとそこには、遙希の姿があった。

「あ、遙希、先輩……」

「真璃亜」

 優しく、遙希が微笑んでいる。  

 それだけでもう、真璃亜の瞳には涙が溢れてくる。

「そんなに熱が辛かったか? でも、(みち)()さんが一晩中、介抱してくれていただろう」

「先輩……」


 三十九度の高熱。

倫絵(みちえ)」という名の見知らぬ年上の美しい女性。

 特異な晩と言って良い、その一夜(イブ)を過ごした真璃亜にはそれ以上、言葉にならない。

 枕元の時計に目を遣ると、もう暫くで午前九時というクリスマスの朝である。

 受験も間近の遙希にしてみれば、早くに真璃亜の許に駆け付けたものだ。

 なかなか遙希と逢う機会が持てずにいる真璃亜には、そんなクリスマスだからこそ、高熱を出した甲斐さえあったような気がしてくる。


 その時。

「お前。また随分、彼女に気に入られたものだな」

 不意に遙希は呟いた。

「え……?」

「彼女は。本当に気に入った人間でないと……。それも、請われても滅多なことでは描かないんだ」

 遙希が真璃亜にテーブルの上の紙切れを手渡しながら

「倫絵さんが。お前にこれを、と置いていった」


 そう言って、遙希が真璃亜に翳してみせたのは、A3サイズの一枚の鉛筆(モノクロ)のデッサン画……。


「彼女の絵は、号百万と言われているんだぞ」

「号百万……?」

「そのサイズの油絵なら五百万は下らない、ということだ」

 その遙希の言葉に、真璃亜はただ目を丸くした。


 改めてそのデッサンに目を遣ると。

 胸に手を当て、薬指には指輪のはまったその左手を軽く結び、ちょっと泣き顔のまま眠っている少女。

 あどけない真璃亜の、それは寝顔だった。

 そのスケッチ用紙の右下隅には、「MARIAさんへ 20XX.12.24 MICHIE. J」と署名(サイン)がしてあった。

 その用紙の裏には、「少女の涙」というタイトルまで書かれていることには、しかし、真璃亜はまだ気付いていない……。



 その夜。

 心配すればキリがなかったが、一応、真璃亜の高熱も三十七度まで下がっていたので、やはり午後7時過ぎに、遙希は真璃亜のマンションを後にした。


 そして。

 遙希がその夜。

 向かった先は───────── 




 遙希がドアフォンを二度鳴らすと、すぐに(あるじ)が姿を現した。

「そろそろ来る頃だと思っていたわ」

 やはり、妖艶に彼女は笑んだ。

「今夜は、ここで話をしてくれませんか」

 しかし、遙希は部屋には入らず、ドアの入り口付近に佇んでいる。

「何故?」

「それは……」

「そんなに真璃亜さんが気になる?」


 そう言うと不意に倫絵は、遙希の肩に両腕を絡めてきた。


「だから、そういうコドモ扱いは止めて下さい!」

「あら。子ども扱いなんてしていないわ」

 倫絵は心外そうに言った。

「私は貴方の「人間」を買っているの」


 そして倫絵は、確かに言ったのだ。


「あなたの初めての女性として、私は……」

「そういうモノ言いも止めてくれ!」

 堪えがたいように、遙希は叫んだ。


 それは、事実だった。

 遙希の十五の春。

 二人は……。


「わかったわ。だけど……」

 倫絵が顔つきを変える。

「だけど……紘樹さんがああいうことになってしまって……。あなたが「日向ホールディングス」の後継者と目されるようになった以上。父は。「J(ジェイ).CORPORATION(コーポレーシヨン)」創業者の私の父としては、私を」

 倫絵は呟いた。

「婚約を破棄した紘樹さんの代わりに。あなたに私を嫁がせるつもりよ」


 遙希は固まったまま、動かない。

 動けずにいる。

 それは、遙希にとって、初めての苦いハードなクリスマスの夜だった。

 長い夜になる。

 遙希はそう覚悟した。




「どうぞ」

 その時、倫絵は一杯のハーブティーを遙希の前に差し出した。

 そのカモミール独特のフルーティーな青林檎の香りが部屋一杯に広がる。

「飲まないの? 冷めてしまってよ」

 倫絵が、促す。

 黙って遙希はカップに口をつけた。


「で。今夜は、何をしにいらしたのかしら?」

 カップのはじを叩きながら、口火を切ったのは倫絵の方だった。

「……夕べは。真璃亜を。看病して頂いて、有難うございます」

 遙希はソファに座ったまま、倫絵に頭を下げる。

「御礼を言いにきたの?」

「いえ……。それもありますが」

 遙希は口ごもった。

 言おうか。言いまいか。

 しかし遙希は、はっきりと口にした。


「貴女との間に持ち上がっている婚約話。お断りさせて頂きたい」

 それは、「日向ホールディングス」の系列ホテル「クラウン・アソシアプラザホテル」に、「(じょう)不動産」をバックに持つ「J.CORPORATION」の経営する全国チェーンのフィットネスクラブ「ジェイ・ネス」を参入させる為に、日向家と(じょう)家の間で、紘樹と倫絵との間に婚約が取り交わされている。がしかし、その婚約が紘樹が病に倒れた為、破棄されて以降、にわかに両家の間で持ち上がっている遙希と倫絵の婚約話のことだ。


 その遙希の言葉を黙って倫絵は聞いたが、

「それは、あなたのお父様のご意向なの?」

 と、落ち着いた視線を遙希に向けた。

「いえ……」

「そんなこと。日向家も、城家にしても許すと思っていて?」

 遙希は言葉に詰まった。

 そうなのだ。

 これは、家と家の問題だ。

 自分の一存でどうなるものではない。


 しかし─────── 


「貴女だって。不本意なはずだ」

 遙希は言った。

「貴女は兄を忘れてはいない」

 遙希の美しい顔が一瞬、歪む。

「貴女が俺の名を呼ぶのは、兄の名を呼ぶのと同じ意味だ。貴女が俺の肌に触れるのは、兄の代わりだ。それなのに、俺は……。あの時、貴女に……」


 触れてしまった……。

 つくづくと遙希は思う。

 それが間違いだったのだと。


 しかし。

 それは、遙希の十五の春。 


 彼女は泣いていた。

 小さな肩を震わせて。

 散りゆく華のように……。

 だから。

 遙希は彼女を抱き締めた。

 春の風に浚われて。

 彼女が。

 逝ってしまわないようにと……。

 それが二人の始まりだった。


 ──────────・・・ 


「三年前の春、兄は婚約者である貴女がいながら、他の女性に心を移した。兄を愛していた貴女には、それは耐え難い出来事だった。そして……」

 遙希は言葉に詰まったが、

「俺はもう二度とここには来ません」


 しかし。

 きっぱりと遙希は言った。

 瞳は、意志を秘めていた。


「あなたは。真璃亜さんに出逢ってから、本当に変わったわね」

 倫絵は呟いた。

「キャンバス越しにわかったわ。無表情に世界を、私を見つめていたあなたの瞳が。あの時から。輝き始めた」

 倫絵は部屋の片隅へと歩み寄ると、その大きなキャンバスの前に立った。

「この絵を仕上げさせて頂戴」

 描きかけのキャンバスを見つめながら

「この絵のモデルを終えたら、あなたを解放してあげる」

 倫絵は言った。


 遙希は何も言わなかった。

 ただ、おもむろに上半身のシャツを脱いだ。

 外は、雨が降っている。

 昨日降り始めた雪は昼間の内に、いつの間にか雨に変わっていた。

 しんしんと冬の夜は更けてゆく

 遙希にとって、それは生まれて一番長いクリスマスの夜だった……。

 

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 素敵な関係ですね。 嫉妬に狂いそうです。 最近どうにも指輪が欲しくて、お店などで探しているのですが、私はたとえ気に入った指輪があっても自分で買わないといけないのですものね。 泣きそう。 諦…
2018/03/28 11:16 退会済み
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