第5話 ~地下室少女~
ヴァレンティーヌさんの言っていた通り。真夜中であっても、門番はいない様だ。
だが、この強い魔力。罠が張ってあるようだ。
周りの塀は、飛び越えるには少し高過ぎるようだ。となると、何とかしてこの罠を壊すか、魔法を駆使して飛び越えるか。
……。裏門を探すか。
見事に門は一つしかないらしい。
あれだけ時間をかけて周りをまわってきたのがばかばかしい。
仕方がない。何とかして此処を抜けるか。
魔法書には『消音』と『撹乱』、『暗視』、『反射』と、戦闘能力のない魔法ばかりが並んでいる。
これでこの門を通ろうと思ったら、どうするのが良いだろう?
そもそも、この罠は一体何なのだろう? それが分からない。
(……一か八か、通ってみるか)
何かが起こってからでも遅くないかもしれない。魔法書を握り締め、門を蹴破り、駆け抜けようとすると。
「この館に忍び込もうとする鼠は誰だい?」
上から、コンツェッタさんが舞い降りてきた。どうして気付くのだろう。この辺りにいた気配はなかったのだが。
コンツェッタさんには、私の姿が見えないはずだ。だからだろう。不思議そうに首を傾げ、辺りを見渡す。
この隙に中に入ってしまおう。そう思った時。
「おいおい、中に入れるわけにはいかないよ?」
(え……!)
「魔力で場所は分かってるんだ、さっさと姿を現しな。そうでもなきゃ」
彼女は、怒りに染まった瞳で言う。
「撃つぞ」
これは、まず此処でコンツェッタを倒さないことには進めない様だ。
透明化を解き、杖を構えると、コンツェッタは嬉しそうに微笑む。
「そう、それで良い。素直な子は嫌いじゃないからな。フードを外して顔を見せな」
「それは出来ない。ウンディーネ! 大波!」
出来るだけ低い声で呪文を唱える。
「えっ!」
コンツェッタの瞳が驚愕に染まる。まさか、いきなり魔法を撃ってくるとは思わなかったのだろう。突如出現した波に飲まれてしまう。
流石に、この程度では死なないだろう。私は後ろを見ずに扉へ向かって走る。
「ま、待て! フランシス!」
「……私の名はフランシスではない」
「そ、そんなはず! さっき、ローブがずれて、一瞬……!」
そんなコンツェッタを無視し、扉を開ける。透明化と消音を掛け直し、追加で暗視を掛け、慎重に階段を降りる。
暗視は、初めて使ったが、思っていた以上に使える。本来だったら全く見えないだろうところだが、随分鮮明に見える。
ただ、先程手すりに手をおいたら襲い掛かって来た為、警備は万全の様だ。まだ何か襲い掛かってくるかもしれない。
ってか、本当にどうなってたんだろう、あれ。少し興味はある。
暫く階段を下りていくと、気がついた。誰かが、つけてきていることに。まあ、誰だかは大体わかっている。
だから、声をかけてきても、別に驚きはしなかった。
「止まりなさい……?」
そんなに迫力のない。呆れて振り返ると、其処に居たのは、想像通り。うさ耳の可憐な少女だ。
彼女は戦えないものだと思っていたけれど……。良く私に気が付いたものだ。
消音を解くと、先ほどと同様、声を変えて答える。
「止まるわけ、ないだろ?」
「その先には、行かせない……」
「どうして? 誰かを隠しているのは間違いない。そんなこと、していいと思ってるの?」
「理由があるの……! 幾らフランシスさんでも、先には通さないよ!」
だから、なんでわかるんだ。溜息を吐いて透明化を解く。
ベアトリーチェちゃんはやっぱり、と呟き、私をしっかりと見る。
嗚呼、この目。戦う気しかないようだ。
「痛い目に会いたいんだね?」
「嘗めないで。私だって戦える」
ベアトリーチェちゃんの瞳の色が変わる。薄水色だった瞳は、濃い紫へ。何処か、狂気を感じさせる瞳になった。
彼女が笑みを溢し、右手を広げると、手すりは蠢き、階段は動き、壁はうねる。
「なるほど、これがベアトリーチェちゃんの能力」
「物質に魂をあげられるの。今回は悪霊だから。質悪いよ?」
今まで通りの、綺麗な、鈴のような声でそう言った。
トン、と軽く床を蹴って後ろに跳ねると、私を見降ろして首を傾げる。
「さ、どれくらい持つかな?」
私だって、弱い訳ではないのだから。絶対に、負けるわけにはいかない。
別に、悪い事をしようと忍び込んだ訳ではないのだし、堂々としていても良いと思うのだけれど。
私は、ただ、監禁されている少女を助けたいだけ。
回る地面の上にいつまでも立っていたって仕方がない。階段から飛び上がり、簡単な詠唱で別の床を作り出す。が。
「動け!」
その床にさえ魂を入れられてしまう。厄介だ。
牙のような突起を大量に持つ手すりが、噛みつこうと襲い掛かってくる。
それらは手短に詠唱、雷魔法によって撃ち落とす。
それより、このぐねぐねと動く床、どうしてくれよう。酔いそうだ。
振り落とそうとしているのだろうが、流石に落ちる事はない。ロズほどではないとはいえ、身体能力は常人を凌ぐだろうから。
「むー、なかなか死なないね……。だから面白いけど!」
床が百八十度回転する。流石にこれは無理だな。床を掴もうものなら、おそらく手を噛みちぎられるだろう。床にも無数の顔が付いているから。
となれば。右手を挙げ、叫ぶ。
『召喚!』
純白の光を放ち、天使が現れる。彼女は私を抱き止め、翼をはためかせて先ほどの位置まで戻る。
このまま戦うか。天使には私の足として動いて貰おう。
「あはは! 凄い凄い! こんなの、貴女が初めてだよ!」
轟音が鳴り響く。何事かと上を見ると。
天井が、下がって来ていた。
「な、何これ?!」
「あははははっ! 楽しいでしょ?!」
下からは階段が迫ってくる。どうするか……!
「死んじゃったらごめんねぇ!」
私はそっと目を瞑り、天使の腕から飛び降りる。
そのままベアトリーチェちゃんの近くまで飛んだ私は、彼女の体を抱きしめる。
「……? 何のつもり?」
「私を殺すなら、ベアトリーチェちゃんも危険だよ?」
「あはぁ。そういう事。確かにそうだねぇ」
大きな衝撃を感じ、私はその場に蹲る。すると、ベアトリーチェちゃんは素早く私の右手を踏む。
幾ら小さな体とはいえ、本気で踏めば、相当の力が出るものだ。
「いっ……!」
「そんなに浅はかじゃないんだよ。全てのものは、私の手下。貴女の体を引き離すくらい簡単なこと」
どうやら、先ほどの衝撃は頭に思い切り手すりが攻撃を仕掛けてきたものだったようだ。ねっとりとした何かが床に垂れ、跡をつける。
いやな予感を感じて立ち上がろうとした時には、遅かった。
階段から大きな棘が生えて来て、左足を貫く。悲鳴を上げる隙も無く。何かに階段から突き落とされる。
まずい、本当に……!
しかし。予想に反し、落下はあまりにも早く終わった。恐る恐る目を開くと……。
「て、天使、生きてたの?!」
先ほどの天使が、私を抱きしめ、ベアトリーチェちゃんを睨んでいた。
「これは誤算だなぁ。でも、まあ、もう助からないよ!」
そんな事はない。準備はもう整った。
「妨害」
「え、詠唱全カットで妨害魔法? そんな簡単に消せると思ってるの?」
「込める魔力の量が違う」
「ん?」
たしかに、この魔法はあまり強いものではない。それに、詠唱を全部省略しようものなら、威力は下がって当然だ。ベアトリーチェちゃんの使う強い魔法の打ち消しなど、出来るはずがない。
ただそれは、常人が使った場合に限る。
今込めた魔力量は、普通の人の全魔力を遥かに凌ぐ。これならきっと。
「え、あ、た、魂が、帰っちゃう……!」
「それに、天使の力を借りた。聖なる力なら。黒魔法の妨害には向いてる」
「あ、あ……」
「どうする? まだ、戦う?」
ベアトリーチェちゃんはその場に座りこむと、ふるふると首を振る。
その間に、周りは元通りになっていく。階段は正常な螺旋階段になり、手すりも大人しくなり、階段のもとへと戻っていく。壁もまっすぐになり、最初の状態になった。
「う……。御嬢様、ごめんなさい……」
「ごめんね、ベアトリーチェちゃん」
私は天使に階段の上に降ろして貰い、先を急ぐ。
足をやられたせいでだいぶ進みが遅くなってしまった。左足はもうほとんど使い物にならない。
手すりにつかまりながら、何とか下まで降りる。其処には、一つの大きな扉があった。
(……、此処、かな)
ドアノブを回してみる。鍵は掛かっていない。
慎重に扉を開けてみると、その先には……。
「貴女、だぁれ……?」
暗く、寒い部屋だ。床は石、壁もレンガが剥き出しになっている。
物置の様な部屋に座りこむ、金髪の少女。濃い桃色の瞳は不安そうに此方を向いている。桃色のブラウスに、赤いリボンと白いレースの付いたスカート。頭の右横には大きな赤いリボン。それに、白いニーソに赤いパンプスという姿だ。
そして、この部屋。家具らしい家具と言えば、ベッドとその隣にある小さなサイドテーブルくらいだろう。
「こんなの、人のいる場所じゃ、ない」
「えっ、あ、貴女、誰なの?! 私に何をするの……?」
「お、落ち着いて? ねぇ、どうして此処に居るの?」
「此処が、私の場所だから」
確かに、鍵は開いていた。監禁されているわけではないのか……?
じゃあ、どうして、こんな場所に……。
「フランシスちゃん」
その声に、私は勢い良く振り返る。
ヴァレンティーヌさんが私を見降ろしていた。
「あっ、あ……」
「お姉様! ねえ、この方は誰なの?」
「マリー、少し、黙っていてくれる?」
「え、ええ。良いけど……」
お姉様……? 妹だったのか。じゃあ、どうしてこんなに暗くて何もない寒い場所にずっといたのだろう?
いや、なんにせよ、きっと、理由があったのだ。さっき、リーチェちゃんも言っていた。
ともかく……。私は、とんでもない事をしてしまったようだ。
黙っている私を見て、ヴァレンティーヌさんは息を吐き、表情を和らげた。
「フランシスちゃん……。私、怒ってはいないのよ」
「え?」
「だって、きっと、マリーの事を心配して来てくれたのだろうし」
「……」
それは、そうだが。コンツェッタさんにも、ベアトリーチェちゃんにも迷惑をかけてしまった。怒られたって、仕方がない。
黙って次の言葉を待つ。何を言われる覚悟も出来た。
「でもね。無理をしちゃいけないと思うの」
「……、えっ?」
そう言うと、ヴァレンティーヌさんは私を抱きかかえ、マリーと呼ばれた少女について来るように言った。
途中でベアトリーチェちゃんと合流し、階段を登りきると、ルクレツィアさんがいて、一緒に何処かの部屋へと向かった。
私は椅子に座るように言われ、それに従う。隣を見れば、椅子に座ってつまらなそうにするコンツェッタさんが居る。
ルクレツィアさんは私の足の怪我を消毒し、包帯を巻いてくれた。それと、その前、手すりの攻撃による頭の怪我も手当てをしてくれた。
「……、ありがとう、ございます」
「まあねぇ、監禁されているかもしれないって思ったら、助けたくなるのは分かるわよ?」
「はい」
「でも、こう言うのは誰かに相談するべきだと思うわよ?」
ロズのことか。やっぱり……。相談するべきだったのかな。
俯くと、ヴァレンティーヌさんは小さく溜息を吐き、私の頭を撫でる。
「まあ、いいわよ。コンツェッタもベアトリーチェも怪我していなかったし」
「一応、気をつけました」
「らしいわね。だから、怒る事は何もないの。寧ろ、こっちが謝るわ」
「え?」
「紛らわしい事をしていたのは確かよ。それに、ベアトリーチェはやり過ぎた」
「ごめんなさい!」
ベアトリーチェちゃんは勢いよく頭を下げる。そんな。私が悪いというのに。
でも。顔を上げたベアトリーチェちゃんは、楽しそうに笑っていて。
「とっても楽しかった! また今度、戦お?」
「もちろん、いいよ」
「やったぁ!」
嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる姿を見ると、まあ、これでもよかったのかな、と。
ヴァレンティーヌさんはそっと微笑み、例の金髪少女を立たせる。
「紹介するわ。私の妹、マリアステッラよ。訳あって、表には出られないのだけれど」
「マリアステッラです。よろしくお願いします」
「よろしくね。私はフランシスだよ」
「フランシスさん……。はい、よろしくお願いします」
にこりと笑うと、その口に、小さな牙が確認できた。黒魔族には牙はないはずだが……。
それに、背中には羽がある。妹とはいうけれど、もしかして……。
「この子は。訳あって、存在してはいけない子なの。だから、隠してたんだけれどね」
「私が表に行くと、お姉様が困ってしまう。だから、私は地下に籠る事を望んだの」
「私は止めようとしたんだけどね」
「そう、だったの……」
本当に、よく考えもしないで飛び出してしまったものだ。
みんなに迷惑をかけてしまった。こんなことになるなんて……。
「ね、良いきっかけになったんじゃないの? マリー」
「うん。私も、あの部屋、出よう、かな。フランシスさんと、戦ってみたい」
マリアステッラちゃんはにこりと微笑み、私の手を取る。
どうやら、彼女は黒魔族と悪魔のハーフらしい。それで、ヴァレンティーヌさんの腹違いの妹という事になるのだとか。
本当だったら殺されてしまうところを、ヴァレンティーヌさんが攫って来たらしい。
「お姉様には、感謝してるんです。もうちょっとで、死んでしまうところだったんですから。だから私は、迷わずお姉様に迷惑を掛けない道を選びました」
「そうだったんですね……。私、凄く勘違いして」
「それはもういいの。じゃあ、そうね、マリー、少しお話でもしたらどう?」
「え、いいの? やった! フランシスさん、お話しましょ!」
はしゃぐマリアステッラちゃんを見て、ヴァレンティーヌさんはそっと微笑み、コンツェッタさんとルクレツィアさん、ベアトリーチェちゃんを連れて部屋から出て行った。
「あ、フランシスさん、私の名前長いから、マリーって呼んで下さい」
「マリーちゃんね。私は……」
「フランシスさんで大丈夫ですよ。それより、リーチェとやりあって良くそれだけの傷で済みましたね」
「あの子、結構強いからびっくりしたよ」
「そりゃそうですよ。お姉様がスカウトしたんですもの」
そうだったのか。道理で強い訳だ。
まだきっと幼いだろうに、それであの力。もっと大きくなったらどうなる事やら……。
「にしても、マリーにリーチェか」
「お姉様は愛称大好きですからね。家族、って感じがしていいらしいですよ」
「え?」
「あ、名前覚えて貰う為、他の人の前では滅多に使わないんでした」
そうなのか。知らなかった。
でも、確かに呼び方は重要だ。私達の『フラン』、『ロズ』だってそうだ。
愛称で呼び合うと、特別な関係なんだ、と錯覚させてくれるから。
「お姉様は家族大好きですから。特に私への愛は重すぎます」
「え、あ、え?」
「そろそろ襲われるんじゃないかなぁ、と。初めてを色々取られそうな気がしちゃいます」
そう言って悪戯っぽく笑う。顔を赤らめた私の様子が楽しいらしい。
こんなに可愛いのに、どうしてこんなことをするのやら……。
「フランシスさんにはいないんですか?」
「ん?」
「好きな人、ですよ。いるでしょ? ねえ、教えて下さいよ!」
「あ、あの、マリーちゃん? えと、や、止めない? ね、ねえ……」
「さーあ、楽しい恋愛トークの始まりです!」
「ううう……。酷い……」
「楽しかったです! 家族以外とこんなに話したの、初めてです……」
マリーちゃんは椅子の背もたれに寄り掛かり、窓の外を見る。丁度、朝日が昇りかけて居るようだ。
彼女は目を細めると、はぁ、と小さく息を溢す。
「綺麗。地下からは、日の光は見えませんから」
「そう、だね。これからは、もう、そんな事はないね」
「はい……。フランシスさん、ありがとう」
マリーちゃんの瞳から、一粒の涙が零れて落ちた。
慌てたように。右手の人差指でそれをそっと拭いとると、大きく息を吐き、笑顔を浮かべる。
「あはっ! もう泣かないって、約束したんです! だから! マリー、泣かないもん」
「無理しちゃ、駄目だよ」
「もう、フランシスさんは心配性ですね」
マリーちゃんはパッと立ち上がると、スカートを揺らして振り返る。
笑顔で満たされた、綺麗な顔。夕日を浴び、輝いている。
「マリーは強い子。だって、お姉様の妹だから。ちゃんと認めて貰えるよう、強くなるの。言葉遣いだって、作法だって、お勉強だって、ちゃんとやるわ。だから。認めて貰うの」
ちゃんと認めて貰う、か。それは、とても辛く、大変な道だろう。
マリーちゃんは、本当の妹ではないから。妹であると、認めて貰えない時が多いのだろう。
でも、こんな時に笑えるマリーちゃんなら。大変な事も頑張れるのかも、知れない。
「マリー、フランシス、朝食の準備が出来るわ。こっちにいらっしゃい」
「はい、お姉様」
にこりと微笑んだマリーちゃんが、とても立派に見えた。
「ルクレール、スケラーナを呼んで来て頂戴」
「は、はい!」
ルクレツィアさんは顔を明るくさせ、スキップでもしそうな勢いで部屋を出ていった。
ヴァレンティーヌさんは、そんなルクレツィアさんを目を細めてみていた。
「あの子、本当に……」
「仲良いですよね。スケラーナ、きっと寝てるだろうから、帰ってくるまで時間掛かりますね」
「もういっそのこと付き合えばいいのに。頑固よねぇ」
ヴァレンティーヌさんの言葉に、マリーちゃんは楽しげに笑う。
そうか、それであんなに楽しそうだったのか。寝ている、となると……。ちゃんと起こすのだろうか。
「因みに、スケラーナって」
「コンツェッタの事よ。どっちで呼んでもかまわないと思うわ」
「で、ルクレールって、ルクレツィアさんですよね」
「ええ、そうよ」
と、その時。バタン、と扉を開け、コンツェッタさんが飛び込んできた。
「助けてくれ! お嬢! ルクレールが襲ってくる!」
「え、食べられちゃえばいいじゃない」
「そうじゃない! 良いから助けて!」
後ろから大きな音を立てて走ってきたルクレツィアさん。片手にはナイフ、もう片手には銃を持っている。顔は真っ赤で、泣きそうだ。
「殺してやる、殺してやるぅ!」
「えっ?! ルクレール、落ちつきなさい! 何があったの?」
「御嬢様ぁ……。じゃあ私が死ぬよぉ!」
「あああ、もう、何なのよ。取り敢えず」
座りこみ、ふるえる手でナイフを首元に持っていくルクレツィアさん。
ヴァレンティーヌさんは溜息を吐き、立ち上がると、ナイフを握る右手を蹴る。
ナイフが宙を舞い、私の目の前に降ってくる。受け取ってみると、思っていたよりも重く、しっかしとしている。人が簡単に殺せる、戦闘用のナイフだ。
「こっちもね」
銃を握り、地面につけていた方の手をハイヒールの踵で踏む。そのまま素早く銃だけを蹴り、床を滑って来た銃をマリーちゃんが拾い上げる。
その間僅か数秒。一瞬で何もかもが変わっていた。
「さて。ルクレツィア、もう一度聞くわ。何があったの?」
「うっ……、わ、私が悪いんです……」
理由を聞いたヴァレンティーヌさんは、呆れて溜息を吐いた。
あまりに不毛な理由。ルクレツィアさんはもう半分泣いている。
「そう……。まあ、その、ね。勝手にファーストキスを奪わない事」
「ファ、え、えええ?!」
「わ、悪かったな、この年にもなってキスもした事なくてな!」
「ご、ごめんなさい、コンツェッタ」
コンツェッタさんは拗ねて返事をしない。
不安そうなルクレツィアさんはそっと顔を覗きこむ。と、右手で口を塞ぐ。
「す、スケラーナ?」
「悪かったなぁ! 純粋で! 悪かったなぁ!」
ぼろぼろと涙を零すコンツェッタさんに、ルクレツィアさんは後退り。椅子に躓いてその場に座り込む。
「あらあら、スケラーナ、まだあの事、気にしていたのね」
「そりゃあ! 忘れられるわけないじゃないか!」
「そう、ねぇ。あれは、本当に酷かった」
ヴァレンティーヌさんは溜息を吐き、コンツェッタさんの頭を撫でる。いつもだったら嫌がるであろう彼女も、今回ばかりは黙って撫でられていた。
「お嬢だけさ。アタシの事分かってくれるの」
「そう、かしらね。私はそうは思わないわよ?」
「え?」
ヴァレンティーヌさんの視線の先には。座り込むルクレツィアさんがいた。