3.5話忠良の初陣
今日はこっちだけでーす。
家ごとは無いです。
天文14年6月
忠良が新納忠元と戦から帰って来た。
入来院重朝と祁答院良重を討ち
東郷重治を捕まえて。
3月になって出陣したんだけど
その時忠良の兵5百と重朝の兵3百が
良重の城(虎居城)攻め
忠元が兵3百が重治(東郷村)攻めと
重朝に説明してから出陣した。
虎居城に着くと兵3百で籠城しており。
疑いを晴らすため先陣を任すと重朝に伝えた
重朝が全軍で突撃した
虎居城の城門が開き良重指揮の元
全軍で出てきた。
重朝は攻撃せずに良重に合流して反転し
「恩義ある忠良様の命とは言え同族は討てぬ」
と叫びながら忠良の軍に突撃を仕掛けた。
忠良は冷静に少しずつ逃げる様に下がりながら
両サイドが林になっている所まで進み
迎撃体勢をとった
重朝の軍と良重の軍が接敵した処で
突如150の兵が右側から横槍を入れた。
横槍に慌てた重朝と良重は対応が遅れて
連携が取れなくなったタイミングで
更に左から忠元率いる150の兵が
横槍を入れた。
忠良は(兄貴の作戦スゲー)と
今一現実との狭間で呆けていた。
忠良は家臣の中山口隆元に
「突撃するなら今です」と言われ
正気を取り戻し突撃を命じた。
突撃の際テンパって回りが見えずに
馬に股がり先頭になっていた。
「若様がやる気だ!若様に負けるな!」と
忠良率いる5百の兵も突撃を開始して
三方の挟み撃ちに合いになり。
忠良は、無我夢中で槍を振るって前え前えと
いつの間にか重朝の目の前におり
慌てて槍を突き出すが避けられてしまう
重朝からの突きを避ける際に
慌てて槍を放ってしまったが、
運良く重朝の馬に当たった。
重朝は落馬してしまい
追い付いた家臣の隆元に取り押さえられ
「若様此にて首を」と刀を渡された。
言われるがままに首をはねると
隆元が「入来院重朝の首忠良様がとられた」
と叫んだ。
タイミングを崩された重朝と良重の軍は、
退却出来ずに壊滅した。
良重は足軽に槍で刺されて死んでいた。
党首を失った虎居城は降伏し
重朝の城である郡山城に攻め込むが
党首討ち死にの為兵も少く降伏した。
忠良は忠元に二人の首を持って
重治への降伏勧告に行かせた。
味方の居なくなった重治は了承し降伏
薩摩の豪族国人達の代表格の澁谷一族は、
力と領地を失う事になった。
冒頭に戻り評定が始まった。
島津貴久(親父)は忠良達兄弟で
郡山城・虎居城周辺と東郷村を治めよと命じた
(四人でなら何とか練習になるだろう)
此れに日新斎(実祖父)は反発した
「自分の策で取れたはずの郡山城を
何故本家に取られなければいけない。」
と評定の際に叫んでしまった。
貴久は国内で無用な争いを煽動したとして
日新斎を強制隠居(今迄の戦功が有る為)として
伊作島津家(島津分家)の領地召し上げの上
島津忠将(貴久の実弟)を忠良の家老とした。
忠将からしたら(親父余計な事をほざくな)
と心から思った
伊作の領地は貴久の直轄地となった。
日新斎が叫んでしまった為
重治や入来院重朝や祁答院良重の家臣・家族を
許して憂慮しなくてはいけなくなり
重治の一族は忠良の与力として
(重治の領地は、忠良に与えて居るための処置)
入来院・祁答院の家臣や家族は
忠良達の家臣として面倒をみる事になった。
今回の騒動は、全て日新斎が悪いとして
忠良達に被害がいかない様にした。
(忠良は一度重朝を庇っており、
その後忠良を攻撃している為
批判の行きようが無いのでは有るが・・・)
新納忠元は忠良の作戦や手際の良さに感動し
自ら忠良の家臣になるとした。
此れにより忠良達は、
好きに領内を開発できる様になる。
最終的に得をしたのは、島津本家のみ
忠良達の本音としてどうしてこうなった?
現在お引っ越しの真っ最中
五朗は何処から何処迄が貴久の策略か
解らず恐怖した
貴久は何か黙ってただけで旨い事転んだな♪
忠良も親父諫めるとか良くやるよなー
俺には恐くて無理だがな。
親父自爆して(笑)忠将巻き添え済まん。
と実は流されただけだった。
忠良ラッキーの巻きでした。
家臣とは言え日新斎は主君の親父、
貴久の目の上のたん瘤でした。
ラッキーとばかりに追い出しました。
追伸
史実では、薩摩守護家党首ではなかったが
日新斎は相州・伊作の両島津家の党首でした
33歳で隠居しております。