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第1話−3:薬師

 早朝、まだ日の出まで一、二刻ほどあろうかという時間。林昭りんしょうは無性に喉が乾いて身を起こした。

 部屋の水差しは空になってしまっていたので階下へ下りてみた。

 宿のものは起き出して掃除や食事の準備をはじめていた。

 水は裏手の井戸からくんでいるということで、くんできましょうという主人について勝手口を出る。

 井戸からくみ上げたばかりの水の冷たさが心地よい。水が最もうまい瞬間である。

 喉を潤し、主人が水を運ぶのを手伝って、もう一眠りしようと階段に足をかけると上から下りてくるものがあった。

 「おはようございます」

 赤い衣、呂盛りょせいだ。薬師だという。林昭の足を看てくれているのは彼である。

 「おはよう、林昭。早いね。足はもう大丈夫かい」

 「はい、歩くぶんには問題ないです」

 「そう。じゃ、これからはできるだけ動かして。一週間もすればもと通りになるよ」

 それを聞いて安心した。

 怪我をしていると風彪ふうひゅうもまわりの人間も自分のことを気遣ってくれるが、それがどうも林昭には重荷であった。

 治ればまた稽古をつけてもらえる。そのことも林昭の心を浮きたたせた。

 かなり痛みを伴う稽古であり、たぶんはた目にはとても稽古には見えないようなものではあったが、どんなに打ち据えられても林昭にとっては風彪と向かいあう時間が何ものにもまして、大事なものだった。

 それはただ、強くなりたいという思いからくるのではないらしかったが、それが何なのかは自分にもよく分からなかった。

 「ところで林昭、もう部屋に戻るかい」

 「そうですけど」

 「今から薬を作るけど、せっかくだから簡単なのを一つ二つ教えてあげようか」

 そういって腰に下げた袋をぽんぽんとたたいてみせた。

 薬師に直接薬の作り方を教えてもらえる、これは非常に稀有な機会である。林昭はこの申し出に飛びついた。

 なぜ稀有かといえば、普通薬師に限らず、酒屋や鍛冶屋のように材料の種類や割合がものをいう業種の人々はなかなかそういったことを人にはあかしてくれないからである。それが彼らの商売道具なのだ。

 それをいってみると呂盛は笑い飛ばした。

 「薬は、必要なときに必要な場所にあってこそ意味があるんだ。だからほんとのことを言えばみんながみんな薬師になればいい。でも中にはしっかり勉強しないと作れないような薬もある。わたしたちの仕事はそういう薬を作ることなのさ。簡単なものならいくらでも教えてあげる」

 「でも、そうすると他の薬師たちに恨まれませんか」

 また呂盛は笑った。

 「そんなことで怒るようなやつは薬師としての腕に自信のない連中さ。誰にでも作れるような薬だけで商売しようったってそうはいかない」

 なるほど、呂盛は根っからの薬師だ。

 薬は人の痛みを取り除き、時には命を救うものなのだ。生活の糧には違いないとしても、呂盛の中ではそれ以上に薬の本当の目的が優先される。そのために薬の作り方はみんなで共有しなくてはならないというのだ。

 林昭は素直に感心した。自分もこんな風に自分に誇りをもてる日がくるだろうか。

 林昭は流賊だった。誇れるものなど何もない。一度落草してしまうと、かたぎの世界にもどるのは至難の業だ。特殊技能をもたない身ならなおさらだ。このままなすすべもなくのたれ死ぬだけなのかもしれないと思うこともあった。

 風彪に出会ったのはそんなときだった。

 あれからまだ一ヶ月もたたないのに、自分はずいぶん変わったと思う。何より自分の身にやましいものがなくなったことが、林昭にとっては一番嬉しかった。

 作業は厨房でするのかと思ったらそうではないらしい。呂盛は裏へ出て井戸の前に陣取ると、腰に下げた袋から小さな椀やらすり鉢やらを取り出した。

 「簡単なものならこれだけで十分作れるよ」

 そういってきょとんとしていた林昭に、袋の中から今度はさまざまな植物をとりだして、

 「これの根はすりつぶすと風邪に効くんだ。気をつけてみていればどこにでも生えているから、見つけたら摘んでおくんだ」

 と、いいながらなにかの薬草を見せてくれたり、

 「これはこっちを乾燥させたものなんだけど、こうして粉にしておいて、お湯に溶かして飲むと咳止めになるんだ」

 といって実際にやって見せたりしてくれた。

 椀は二つ合って、ひとつは練り薬なんかを作ったりする非加熱用の木でできているもの、もう一つは鉄製で煮たり煎じたりするのに使うものだという。それも実際に井戸から水を汲んで、宿の薪をかりて使ってみせてくれた。

 「このあいだだいぶ使ってもうないからね、また一から作らなくちゃならないし、ちょうどいいんだよ」

 このあいだ、というのは林昭が足に傷を負った山賊との戦闘のことである。

 「あのときの薬って全部呂盛さんが作ってたんですか」

 呂盛は微苦笑して肩をすぼめた。

 「いや、馬車に積んであったのがほとんどだけど、怪我のひどかった人にはわたしのを使ったよ。あれだけ人数がいたらこれだけじゃ足らないさ」

 そういってまた腰の袋を一つたたいた。

 「でも僕は他の人に比べたらそんなにひどい怪我じゃなかったのに、あなたは自分の薬を使ってくださいませんでしたか」

 一瞬だけ呂盛の瞳が揺らいだ。しかし彼はすぐにもとの顔に戻るとほんのわずかほほえんで、それからは無言で作業を続けた。

 日がのぼり、あたりの薄暗さが少しずつ払われてゆく。そしてまた、徐々に町も目を覚ましはじめる。目を覚ましたこの生き物には、眠っているときとは比べ物にならないほどの活力があった。さっきまでの静けさが嘘のようだ。

 にぎやかになってゆくまわりとは対照的に、林昭と呂盛はどこまでも静かだった。

 そこへふらりと別の人影があらわれた。

 「よう、呂盛。朝一番から仕事かい。ご苦労なこったな」

 純白の戦袍せんぽうが朝日を受けて真白に輝いている。

 「わたしはあなたほどひまな身分ではないのでね、残念ながら」

 呂盛の口調が急に辛辣しんらつになった。

 「そういうなって」

 「じゃあ手伝ってもらいましょうか」

 郭方かくほうは大仰に肩をすくめて見せた。

 「俺に勝ったら考えてやってもいいぜ」

 そういって身の丈ほどの木の棒を差し出した。別の手にも同じような棒が握られている。

 呂盛はそちらには目もくれず、火にかけたなべの中身を慎重にかき混ぜている。

 郭方は、

 「そうかい。そんなに俺と白黒つけるのが怖いのかい。情けねぇやつだぜ」

 といってこちらに背を向けて歩き出した。その瞬間に、ほんの一瞬だが呂盛の手がぴくりと上がりかけたように林昭には見えた。

 「そんじゃ、方天戟では天下一の使い手は俺ってことだな」

 方天戟は呂盛と郭方の得物である。林昭は二人が方天戟を使う場面を直接見たわけではないが、戦闘のあった夜、二人とも方天戟を持って見回りをしていたのをなんとなく覚えていた。

 槍の穂先の両側に半月形の刃を備えたものが方天戟である。槍による突きや払いのほかに斬る動作が可能であり、非常に汎用性が高い。

 ところが先端部に重さがかたよってしまっているので扱いは非常に難しい。また、行える動作に幅があるということはそれらをみな使いこなすためには相当な鍛錬を積む必要があるということでもある。

 そのため使い手も剣や槍といった一般的な武器に比べるとかなり少ない。そのためにちらりと見ただけではあったが、林昭の記憶にも残っていたものと思われる。

 林昭はこの言葉に呂盛がどう反応するか気になってふっと顔を上げた。

 呂盛がはじめて顔を上げて口を開いた。

 「それは聞き捨てなりませんね」

 穏やかな口調の底にぞっとするような冷気がひそんでいた。深い茶色をした瞳には燃え上がる闘気が映っている。呂盛は煮詰めていた薬草の汁を火からおろすと、その小さななべにふたをして立ち上がった。

 「やっとやる気になったか」

 郭方の顔は笑っている。しかしその目は呂盛と同じく誰にでもそれとわかる激しい闘志を宿していた。

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