第1話:傭兵の日常−1:目覚
夢を、見ていた。
懐かしい匂いのする草原を駆けている。
鞍もなしに、栗毛の駿馬にまたがっていた。
なぜか、どこかで会ったことがあるような気がする。
呼吸に乱れはない。景色が後ろへ飛んでゆく。まるで風になったようだ。
ふと横を向くと、そこには自分と同じ栗毛にまたがった父の姿があった。
父と並んで黄金に輝く草原を、あてどもなく走り続ける。
誰もいない。何も聞こえない。蹄が大地をけりつける音も、草がゆれるさわさわという音も、すべてがないもののようだ。
ただ、過ぎ去ってゆく風の響きだけが、遠くから聞こえてくるようであった。
父は、何もいわず、ただ前を見つめている。腰に目をやれば、そこには自分がかつてあこがれた白銀の長剣があった。
弓はなかった。幼いころ、何よりも自分を夢中にさせた、あの、燕の舞う弓。
なにげなく自分の背に手をやると、弓はそこにあった。古くから伝わる一族の誇り、それは自身の手の中で、静かな輝きを放っていた。
急に、あたりが暗くなった。
風がざわついている。猛っている。
穏やかに波うつ金色の海は、蒼く澄みわたる空は、荒れ狂う玄い雲にとってかわられた。
馬が、馬が進まない。高くいなないて、さお立ちになる。
父の影が、遠のいていく。幽い、天と地の狭間に呑み込まれてゆく。
父を止めねば、そう思った。しかし、声が出ない。焦れば焦るほど、父の姿は遠ざかってゆく。自分の体が、思うように動かない。
風は、ますます強く吹きつけてくる。
突然、目の前が真っ白になった。轟音が、耳を貫いた。その中に、風彪は確かに父の声を聞いた。
「思うさま、駆けよ」
目がさめた。白い雲の隙間からさしこむ朝日がまぶしい。自分がいつもの床ではなく、寝台で眠っていたのに気がついた。
思えば、もといたところを出て三週間が過ぎている。それが、もう三週間なのか、まだ三週間なのかはよくわからなかった。
体を起こしてとなりの寝台をのぞくと、もう空になっていた。外からは木の棒を打ち合う乾いた音が響いてくる。情けないことに、ずいぶんと寝坊してしまったらしい。身支度を整えると階下へ下りた。
「よう、風彪。お前にしちゃあ遅かったな。お前みたいな奴でも疲れることがあるのか」
食堂に入るとレルガが声をかけてきた。
レルガは一見、とっつきにくく見える。燃えるように赤い髪、額や頬に残る傷跡、鋭い目つき。背丈はそれほど高くはないが、がっしりとした体つきが精悍な顔つきとあいまって、非常な威圧感を受ける。
しかし話をしてみれば外見から受ける印象とはまるで違う。温和で面倒見がいい。
学問をしたこともあるようで、字はもちろん読めるうえ、知識も豊富だ。しかもそれを経験によって磨き、見事に自分のものとしている。
食堂は、もう日が昇ってだいぶ経つからか、ほとんど人影はない。
レルガは主人といろいろと世間話をしていた。以前にも立ち寄ったことがあるらしい。顔なじみというわけだ。彼の向かいに座って主人に遅い朝食を頼んだ。
「カルマ殿は今日も王宮か」
「あぁ、そうだ」
カルマ=カフカスは大陸中に大商家として知られているカフカス一族の一人で、自分たちの雇い主である。
「ご苦労なことだ」
自分たちはこの大陸を二つに分かつ山脈を越えて、オストマルク王家に納める品を運んできた。道の途中で山賊に遭い、王家からつけられていた護衛の半分近くと、荷の大部分を失ってしまった。
カルマが雇った傭兵たちの奮戦でどうにか全滅を免れオストマルクにたどりついたのだが、王家はねぎらいの言葉をかけるどころか兵士を失ったことを責め、賠償金までもとろうとしているという。
「礼も何もあったものではないな」
オストマルク王国は帝国に服属する辺境の自治都市である。大陸を南北に貫く山脈、央岳の西側のふもとにある。ふもととは言うもののそれはいくらか土地が平坦に見えるからで、実際には海抜高度も高く、周りに生える木は多くが広葉樹や針葉樹である。
山脈を背にして見下ろすと、つまり西を向いてこのオストマルクの町を眺めると、町の中心からやや右に川が一つ流れている。レーヌ川である。雪どけ水を運ぶその流れは春先の陽光を浴びて透きとおっている。
川のすぐとなりには川の水をひいた堀に囲まれた城がある。歪んだ四角形をした城壁はところどころが苔むしていて青くなっている。それがこの城の古さと都市の長きに渡る平和とを無言のうちに示している。
その左右に帯のような形で市街地が広がっている。市街地とは言うもののもともとは扇端でわきでる水を利用した農村であった。地味はやせても肥えてもおらず、水は豊富にあるから農地としては及第点である。難点は冬の寒さであったがこれは農民たちのたゆまぬ努力によって克服された。
大陸西部でさいはてとされたオストマルクだが、山脈を越えての東西交易がはじまると、西側の入口としておおいに栄えるようになった。ひっきりなしに旅人や商人たちがここを通って東へ、あるいは西へ歩みを進めてゆく。自然とそこに富が集まり、文化がはぐくまれていった。
それは繁栄とともに別なものをも、もたらした。それまで遠く離れた平原で覇を争っていた者たちが、己の富貴を望む者たちが、この町を様々な形で手に入れようとした。ある者はこの地を領し、ある者はその身一つで莫大な財を築きあげた。オストマルク王家もそうしてはじまった。
この地はオストマルクが支配するまでナルイムと呼ばれていた。今でもそう呼ぶ者もある。オストマルクは二百年ほど前に独立した自由都市であったナルイムの公職を独占、市長の座を世襲することを市民に認めさせて、後に王を名乗るようになった。遠祖をたどれば一市民でしかない。
もちろん今は誰もそんなことを覚えていない。自分たちは最初から王家として生まれてきたものと思っている。そうすればその態度は自然と高慢なものになる。
加えて現在、オストマルクは帝国の自治都市である。多額の税を収めることで直接に支配されることを免れている。踏みこんだいい方をするならば、金で自由を購っているのだ。
それでも浪費をしなければ、いかなる不自由もなく政事を行っていけるだけの利潤はあるのだが、財とはあればあるだけ欲しくなるものである。通常の税や貢納だけでは満足できなくなってゆく。しかも相手は生活の苦しい農民ではない。王侯将相の次か、場合によってはそれ以上に富裕な商人たちである。それらはいわば、汲めども汲めども尽きることを知らない泉のようなものだ。尽きぬとあれば汲めるだけ汲みたくなる。それが今の王家の姿であった。
「これでよく倒れぬものだ」
風彪は、国家とは民がある一定の秩序を保って生活してゆくための一つの仕組みに過ぎないと思っている。王とか領主とかいうものはその仕組みにくみこまれた歯車でしかない。私利私欲のために国家を独占するならば、それは盗賊となんら変わらないとも思う。
それに国の主権は表むき王家や貴族らが握っているように見えても、土台は民衆にあることも知っている。遥かに続いてきた時の流れのうちには民に見放され、民によって滅ぼされた国があることも知っている。
だいたい王や貴族は、民衆が自らのそれらの君臨することを認めてはじめて王や貴族たりうるのである。民の支持を失うことは滅びに等しい。そのことは今も昔も変わらぬことである。
「ところがそうやってしぼられるのは金持ちだけさ。ここに住んでる普通の連中にはなかなか寛大なようだからな。結局いつも馬鹿を見るのはよそものだろうよ」
「なるほどな」
それでも風彪はどこか腑におちぬものを感じる。奪っても困らないものからは不条理に奪ってもいいのか。
――けしからんやり方だ。
顔に出たらしい。
「でもな、風彪。枠の中だけで商売してる奴なんざ一人もいねぇよ。少なくとも一生困らんだけ稼いだ連中の中にはな」
そう聞くとますます腹が立った。それではこの町は不善のかたまりではないか。
「あんまり目くじら立てたって仕方ねぇ。そういうもんなんだよ」
「そういうもの、か」
レルガは自分と比べてはるかに広い世界を生きている。風彪の知識は閉鎖された空間の中で、書物から得たものだ。書物は、遠いか近いかの差はあっても、過去の産物であることにかわりはない。それは死んでいるといってもいい。それを活かすのは、生きた自分の経験である。その経験が、風彪には圧倒的に不足であった。
人の世である。きれいごとばかり並べ立てても仕方ないのは分かっているつもりではある。しかし、それだけでは納得しきれないこともあった。
「そんなに考えこむな。暗い顔したっていいことなんざありゃしねぇぞ」
レルガが笑いかけてくる。それも、確かに一つの真理だ。