滑落!
そこは5組のパーティーで混み合っていた。40m2ピッチの岩場だが、1パーティーが取り付いており、所々雪のついた岩壁に赤いザイルが映える。その下の狭い雪稜上には4パーティーがひしめいている。さすがに皐月の山は人気がある。
空は濃紺に近い快晴でゴーグルを通しても目が痛い。周りの右側雪稜から、時折バリッと音を立てて雪庇が剥がれ落ち、ドーンというブロック雪崩の轟音が谷間に響き渡る。気分は最高。しかし、ルートを塞いで盛り上がっているこの岩壁を越えないことには先に進めない。たいした岩ではないのだが、取り付いているパーティーの1人がモタモタしており、待っている他パーティーの面々をみても、あまり慣れていなそうな顔が少なくない。このままではいつ順番が回ってくることやら。
前の2人のパーティーが「行くか」と声を掛け合い、稜線から左側雪壁を下りだした。「先輩」俺たちも行きましょう、と言いたげに後輩たちが声を上げる。確かに、前を塞ぐ岩場から400mほど雪壁にすそを引く岩稜を回り込めば迂回出来そうに見える。傾斜もそれほどではないのだが、回り込んだ先がどうなっているか。地図上では等高線が詰まっていないが、雪の状態がわからない。岩場に取り付いているパーティーは、やっとラストが最後のピッチを登りだした。これでは暗くなるまでに幕営できるところまで行き着けるかどうか。「よし、行くぞ。アイゼンを締め直せ」後輩たちは待ってましたとばかり立ち上がった。
下りだすと、雪は思った以上に締まっている。キュッ、キュッという音が心地よい。しかし、岩稜の突端まで半分下った頃から傾斜が急になりだした。足が無意識のうちに少しでも緩い傾斜の方に向いてしまう。振り返ると、みんな足にかかる負担に苦しそうだ。ここで滑落でもされたら、彼らの技量では停められないだろう。「戻るか…」と思ったとき、右下の緩斜面が目に止まった。「そこで一息入れるぞ」と声をかけ、一足踏み出した瞬間、足元の雪がサーッ!と崩れ亀裂が走った。ヒドゥンクレバス!「戻れ!」思わず大声を上げた。
後ろの何人かは『エー!戻るのかよ』という顔だが、ほかの者は事態を察知したのだろう、必死になって登り返していく。もう少しで急斜面を抜ける直前になり、「先輩!アイゼンが外れました!」どんな結び方をしていたんだ!慌ててそいつの下に登り、肩で尻を押し上げて支え、「早く結びなおせ!」早くしろ!苦しい!暫く経ってから「出来ました!」「みんな気を緩めるな!慎重に登れ」
幸いにして、暗くなる前に幕営地に着き、テントにもぐりこめた。例の岩場も、我々が基部に着いたときは、さずがにどのパーティーも既におらず、今度はみんな真面目に登った。夕飯を煮るバーナーの暖かさに、緊張で強張っていたみんなの顔が一度に緩む。「お前たち、今日は怖かっただろう」「平気でしたよ。もし滑落したら先輩がグリセードで追いかけて来て停めてくれると思っていたから」「馬鹿いうんじゃねえ。アイゼン外して追いかける前に、お前たち下まで落ちてらア」アハハハ~、と皆で笑ううちに、そのときになって初めて愕然とした。みんな私を頼りにしていたのだ。恩師の指導教師に『今度山岳部の連中が鹿島槍に行くが、付いて行ってくれないか』と頼まれた私が、後輩を一人でも滑落させてしまったとしたら!
その夜シュラフに包まり眠るうち、雪壁を滑落する夢を見た、大学2年の5月のことだった。