正気ではいられない。あなたに狂っている。
夢のようなひとときだった。愛しいひとと気持ちを通じ合わせて、繋がる。それは前世で望み、ついぞ果たされなかったことでもある。
しかし、あのひとときから三日が経ち、今やあれは正真正銘、夢だったんじゃないかと思えて来た。もちろん、夜、眠るときに見る夢のほうだ。
ちらりと視線を向けた先には、愛しいひとがいる。
騒がしい教室の中。その騒々しさの中心地。相も変わらずあのひとはだれかに囲まれている。
純白を基調とした騎士科の制服が一等似合うとの評判は、俺も深く同意するところだ。俺や、その他多くの騎士見習いたちなんぞ、あの格調高い制服に「着られて」いるような有様だというのに。
威風堂々。その言葉がぴたりと当てはまるあのひとが――顔を真っ赤にして、甘やかな声で俺の名前を呼んでいたなどと、この教室のだれが想像するだろう。
あの日。たしかに俺はあのひとと繋がった。婚前交渉がどうのこうのという常識を横へやって、ひとつになった。
俺もあのひとも寮暮らしで、寮は当然のように異性の立ち入りを認めないから、隠れて麓の街の連れ込み宿に入ったのだ。
本当は、あんなギシギシ音のする薄っぺらいベッドの上ではなくて、もっと清潔でロマンチックな場所で繋がりたかったが、背に腹は代えられなかった。
否、今は少し後悔している。こんなにも性急にことを進めるべきではなかったと。
けれどもあのときは。あのときはあのひとと早く繋がることばかりを考えていた。
愚かな考えだという自覚もあった。深く繋がったからとて、あのひとが俺のものになるわけでもあるまいに。
それでも。それでも俺はあのひとと褥を共にしたかったのだ。
前世の記憶がある。そうとしか言えない、だれか今の俺ではない、別人として生きていた記憶がある。
その記憶の中にはあのひともいた。
波打つ金の長髪を編んだ、美しいひとだった。その美貌は、今も昔も変わりはない。否、記憶の中では多少美化されているやもしれないが。
自信満々の笑みを浮かべ、高飛車な物言いをするあのひとのことは、最初は好きになれなかった。
たとえ中隊長という役職であっても、だ。
いや、だからこそなのだろうか。生まれ育ち、地位、そのなにもかもが違ったから、俺にとってあのひとは理解しがたい珍かな動物を前にしたときのような気持ちにさせられて、居心地が悪かった。
「――馬鹿者! 諦めるんじゃない!」
戦場にあって、全身を貫くような大音声。激励に頭を叩かれたような気持ちだった。
中隊長であるあのひとにとって、俺なんて生き残れば儲けものくらいの存在……。そのはずだった。いや、そうに違いないと思い込んでいた。
あのひとが常から多くの下士官や兵卒に好かれ、取り巻かれている姿を、俺はようやく認識できた。
怪我を負った俺を見捨てなかった。たったそれだけで心を傾けるのは、我ながら単純すぎて恥ずかしいくらいだった。
そう、きっかけは単純なものだった。
けれども幾多の戦場を共に駆け抜ける内に、昔から見知った顔が減ったこともあるのだろう、あのひとと俺とのあいだには、たしかな繋がりのようなものが出来ていた。絆などと称するには少々大げさで、繋がりと言う割にはひどく曖昧なものだ。
そしてそれは俺が一方的に感じているものだろうという自覚もあった。
あのひとの優しさは当然俺だけのものではなかった。あのひとは平等に優しかった。
いつからか、俺はあのひとの特別になりたいと、強欲な願いを抱くようになっていた。
特別になれるのならばどんな形だっていい。
だから――だから、あのひとがもはや助からない怪我を負った姿を見たときに、俺はあのひとに言われるがままに短剣を手にして……。
……そのあと、遺髪にと切り落とした波打つ金の髪は、少しくすんで見えた。
俺は、あの遺髪をきちんとあのひとの家族の元へ届けられたのだろうか?
そこからはひどく曖昧で、気がつくと今の俺の記憶と地続きになっている。
きっと、俺はあのひとのいない人生に意味を見出せなかったのだろう。それだけは確信できた。
あの時代には少しも珍しくなかったが、ひどく貧しい生まれで、それまでだれかに必要とされたことも、褒められたこともない人生を送って来た。実の親からすらそうだった。
けれどもあのひとは俺を必要とした。あのひとは俺を褒めてくれた。
たったそれだけ。
たったそれだけを与えてくれたあのひとが、俺の人生の意味だった。
だから俺は、あのひとの影を探し求めるように、王立学園へと進んだ。
あのひとがもし再びこの世に生を受けたのだとすれば、きっと騎士科のあるこの学園を選ぶだろうという、根拠のない決めつけがあったからだ。
とは言えども時代は移り変わり、戦争が遠のくと、騎士というものの在り方も変わっていた。
その象徴のひとつが、王立学園騎士科であった。
時代がくだって女性騎士というものも認められるようになって久しく、騎士科には幾人かの女性も混じっている。女性騎士は、女性王族の警護などで一定の需要があるのだと聞いたとき、隔世の念を抱いたものだ。
騎士科に進んだ俺だったが、いざあのひとともし出会ってしまったらどうしようと、今さらながらに怖気づきそうになった。
あのひとが望んだこととは言えども、俺はあのひとにとどめを刺した――ありていに言えば、殺したわけで。
「おお、ジャック。お前はジャックではないか?! わはは、今と昔でなぜそんなにも変わっていないのだ?」
しかしあのひとは軽やかに俺の疑念を吹き飛ばした。
その胸には、ふたつの大きくて柔らかそうな球体があって――。
「――え゛っ?! 女ぁ???!!!」
感動の再会の場で、素っ頓狂な声を出したのは、致し方のないことだと思いたい。
あのひと――マリオン中隊長は、今や女性で、メアリアンというらしい。
「不思議なこともあるものだな。名前も似ているし、お前に至っては名前もそのままじゃあないか」
「……まあ、ジャックという名は昔からありふれていますから」
朗らかでいて、晴れ晴れと響き渡るようなあのひとの声は、俺には新鮮に聞こえた一方、その口ぶりには懐かしさを覚えた。
前世の記憶とかいう胡散臭いもののなかで薄らいでいたあのひとの声。それが再びハッキリと聞こえたような気がしたが、その声は今や完全にメアリアンのものになっているような気もする。人間の記憶というものは、かくも曖昧なものなのか。
「顔も変わっていない。すぐにわかったぞ」
「……いいえ、変わっていますよ」
「そうか? ……そうかあ?」
「違いますよ」
「うーん……」
あのひとはすぐに俺があのジャックだとわかったらしいのだが、前世の俺と今の俺の顔は変わっていないと譲らない。
そんなわけはない。前の俺と今の俺の顔は違う。いずれにせよあのひとのような輝く美貌ではないにしても、明らかに違う親から生まれてきたとわかるような顔つきだ。
「しかし、お前も私がだれだかわかったのだろう。顔が違うどころか、男が女になっていたというのに!」
「それは――」
たしかにそうだが、波打つ美しい金の髪は変わりがない。すぐに紅潮する色白い頬も。
たしかにマリオン中隊長と、目の前にいるメアリアンは別の人間だとすぐにわかる。身体の性別が違うのだから、それはそうだろう。
けれども、俺には彼女があのひとだとすぐにわかった。
「まあ、生まれ変わりなどという摩訶不思議な事象が我々の身に降りかかったのだ。別人の顔を見て同一人物だと当てられるのもそう不思議ではないのかもしれないな」
あのひとは深く考えることをやめたのか、そんな風に雑な結論を出して締めくくった。
戦場では冷たく冴え渡るその頭脳は、平時ではまったく使われない。そういうところは前世からほとんど変わっていないようであった。
「ありがとう」
「え? なんですか、急に……」
「私が私だとわかってくれる人間がいるのは、こんなにも嬉しいことなのだな。だから、そのことに感謝した」
あのひとは多くは語らなかったが、きっと俺と同じように物心ついたころから前世の記憶というものを持ち、もしかしたら振り回されることだってあったのかもしれない。
「それなら、俺も」
「ああ、それと……すまなかった」
今度の俺は「え?」なんて、間抜けな返しをしなかった。
なぜなら、あのひとがなにに対して、俺に謝罪するような言葉を口にしたのか、すぐにわかったからだ。
短剣……ミゼリコルド。プレートの隙間にも差し込める細長く薄い刃を持つ、あの短剣を手にしたときの感覚が、蘇る。
「お前はずっと私のそばにいてくれたな。最期のときまで」
「背負わせてしまったことを気にしていた。お前は優しいやつだから」
「慈悲」の名を持つミゼリコルド。その慈悲を向けたのはあなただったからで、俺を「優しい」と形容するのには語弊がある。
俺が優しいのだとすれば、それは相手が他でもない、あなただったからだ。
「……気にしないでください」
「……優しいのだな、お前は」
微笑むあのひとを前に、「あなただからですよ」という言葉は、そのときは呑み込んだ。
そのときは再会した動揺のほうが思ったよりも大きくて、あのひとと、元上官と部下以上にどうにかなりたいという欲求はほとんどなかった。
けれども再会したあと、同輩としてしばらく過ごすうちに、俺はその欲求を抑えられなくなっていった。
あのひとと俺とを隔てるものが、前世よりも大いに少ないことに気づいてしまったのだ。
遠くからでも俺を見つけると手を振りかけてくれたり、駆け寄って来てくれたり、なにより至極嬉しそうに破顔するその様を見て、一瞬でも勘違いしない男がいれば教えて欲しい。
俺はいつだって勘違いしては一生懸命にそれをかき消して、否定して、そんな未来はあり得ないのだと己に言い聞かせるのに必死だった。
あのひとが俺に好意的なのも、距離が近いのも、微笑みかけてくれるのも、すべて前世の関係があってのこと。前世のあのひとを覚えているのが現状俺ひとりだけだから、特別扱いをしてくれるのだ――。
何度も何度も、己にそう言い聞かせた。
……けれども、なにごとにも限界というものはある。
「可愛いなあ。なあ、名前は付けないのか?」
あるとき、俺が手なずけている鳥の一羽を指に乗せ、あのひとはそう言った。
「いえ、なにぶん、数が多すぎるので」
「え? そんなに手なずけているのか?」
「ええ、まあ、季節が巡るたびにどんどんと増えて行くので」
「なるほどな。では今度図書館へ行こう」
「名前を付けるおつもりですか?」
「ないよりも、あるほうがいいだろう」
「私は鳥ではないのでわかりかねますが……」
「わはは。たしかにそうだな!」
「それに、一度に覚えられる気がしません。あなたほど記憶力は良くないのですよ」
「別に記憶力が特別良いという意識はないのだが……。じゃあ、忘れたら私が教えてやる。それでいいだろう?」
晴れやかに笑むあのひとの顔の、なんとまぶしいことだろう。
周囲の鳥たちの騒々しいさえずりなんて耳にも入らないほどに、私はあのひとに惹かれて、焦がれていた。
「それってなんだかプロポーズみたいですね」
「……え?」
「……失言でした。忘れてください」
「え? いや、うん? まあたしかに、私がずっとお前の傍にいるという意思表示のように聞こえるか……?」
「忘れてください!」
「どうして?」
「え?」
今度は俺が面食らった顔をする番だった。
「お前と一緒にいるのは楽しいから……プロポーズでもいいと思ったんだが」
「は?」
「お前……こんな口説くような言葉を私が言っているのに、怖い顔をするな」
「は? そんな顔にもなります。タチの悪い冗談はよしてください」
「冗談ではない」
「怖い顔をするな」と言った当人のほうが、よほど怖い顔をしていると思った。
しかし次の瞬間には、ふっとあのひとの目元が緩んだ。
「こんな……男か女かもわからないような私だが、お前とならいいかなと思ったのだ。これまで男に興味はなかったし、さりとて女にそのような欲求を抱くこともなかったんだが……」
その微笑みはいつもの自信に満ちたものとは違い、どこか弱々しく俺の目に映る。
「お前となら、まあ……いいかなと思ったんだ。……初めてだ」
――特別になりたかった。
だれにでも優しいあのひとの、唯一の特別になりたかった。
そんな欲望を抱いていた俺にとって、その言葉は劇薬にも等しかった。
頭の中で火花が飛び散って、真っ白な煙に包まれたかのような気持ちになって、正常な判断が出来なくなる……。
「――取り消せませんよ?」
「ん?」
「このあとで、今このときの出来事をなかったことにしたいとあなたが願っても、取り消せませんからね?」
「お前って、そういうやつだったか? 疑り深いというかなんというか……」
「だって」
――「一生を、あなたなしで生きていくことなんて出来ないですから」。
俺のほうがよほどプロポーズらしい言葉を吐けば、あのひとは「わはは」と笑って「うん。わかった」と言った。
その瞬間から、俺とあのひとは、恋仲となったのだ。
しかし晴れて恋人同士となれて、純粋に舞い上がったままでいられたのは、わずかばかりの時であった。
あのひとは、端的に言えばモテる。俺からすれば、学園内のほとんどの人間があのひとを好意的に見ているように感じられた。
実際、あのひとの周りにはひとが絶えない。特に女子生徒の中には熱狂的なファンと呼べるような人間もいるくらいだ。
あのひとは、男性にも女性にも興味が持てなかったと言っていたが、それはあの時点での話だ。なにか、まかり間違って女性へ、あるいは俺とは違う男性へと興味が移る可能性はある。恋とは、予測不可能なものだからだ。
特にあのひとは前世では男性だったのだ。俺との接触によって前世の記憶が強く思い出されたりして、やはり女性のほうがいいだなんてことになったら、目も当てられない。
だから――。
だから俺は、あのひとと性急にことをなしてしまった。
あのひとは嫌がってはいなかった。ように思う。今となっては霧の中にいるような感覚で、その認識が果たして正しいのかどうかすら、正常な判断がくだせない。
紅潮した頬、耳、首元。色白い肌。それからあえかな、甘い声……。それらを噛み締められていた期間はわずかで、今――あのひとにあからさまに避けられている俺は、あのひとときが夢ではなかったという確証が得られない。
避けられていると気がつくのはすぐだった。あのひとの一挙手一投足に俺は夢中なのだから。
前のように微笑みかけてはくれないし、手を振ったり駆け寄ってきたり。そういうものがなくなって、俺はあの夢のようだったひとときを後悔し始めている。
急いで体を繋げたこと自体がよくなかったのか、あるいはあのひとときの中で俺は愛想を尽かされるようなことをしてしまったのか。
謝罪しようにも情けないことに、なにに対してそうすればいいのかもわからなかったし、そもそもあのひとに避けられている。
いつもであれば俺のそばで、俺が手なずけている鳥たちを愛でているあのひとの姿は、ない。
ぎくしゃくとしているという感覚を通り越して、俺の心の中はぐちゃぐちゃだった。
同輩にも「喧嘩した?」などと尋ねられる始末であったが、明確に喧嘩であればどれほどよかっただろう。
なぜあのひとが俺を避けているのか。きっかけはきっとあのひとときだ。けれども、なにが悪かったのかがわからない。
早く体を繋げてしまおうという、俺の浅ましい欲望をあのひとは見抜いたのかもしれない。
幻滅、したのかもしれない。
悪い考えはあとからあとから湧いて出てくる。
だから、俺が手なずけている鳥たちがあのひとの危機を伝えに来たとき、俺はどこかで降り積もった鬱憤を晴らす先を見つけられたと思ってしまったことは、否定できない。
――家畜神の加護。今の俺にはそんな天賦が生まれつき与えられており、人間以外の動物であればたいてい好かれるし、意思疎通もできる。
牧童などならともかくもと思っていた天賦であったが、俺はこれをもっぱら鳥を手なずけることに使うようになっていた。
鳥は、屋外であればどんな場所にいても大体不自然さはない。翼があり、小型であればあるほど、様々なところに入り込める。
俺は鳥たちを手なずけて、ずっとあのひとを見張らせていた。
だからあのひとがどこにいて、なにをしているのかは概ね把握している。
そんなあのひとに危機が迫っていると、鳥たちが教えに来た。
俺はバネのように飛び出して、鳥たちに教えてもらった場所へと急行する。
あのひとは、今は女性なのだ。
万人に好かれるものなどこの世には存在せず、よって女性騎士というもの自体をよく思わない人間は探せばすぐに見つかる。特にあのひとは騎士科の中でもよく目立つから、なおさらそれだけで反感を抱く人間だっているものだ。あのひとになにかしらの瑕疵がなくても。
鳥たちによれば、あのひとは騎士科の男子生徒複数人に連れ出されたとのことだった。
俺の胸の奥で、暗い感情が湧き立つ。
「――メアリアン!」
俺はあのひとの名を叫ぶように口にして、現場へ踏み入った。
「えっ!? ジャックか?!」
あのひとは、ちょうど騎士科の男子生徒のひとりを片手でぶん投げているところだった。
「えっ」
今度は俺が、驚きの声を上げる。
数を数えれば、先ほどあのひとがぶん投げていた男子生徒を含めて、実に八人もの人間が床に倒れ伏していた。
八人もの人間で寄ってたかって、と腹の底がカッと熱くなる。
自然と右手は拳を作り、強く指を握り込んでいた。
「ちょうどよいところに来たな、ジャック。先生たちを呼んで来てくれ」
あのひとは俺の気持ちなどそ知らぬような、いつも通りの朗々たる声でそう命じた。
「いや、でも、あなた今、この屑どもに……襲われかけたのでしょう?」
「まあそうだが。しかしお前がこの場に残っても、起き上がったこの屑どもを即座に制圧できるわけではなかろう」
「それは……」
「わかったら、行け」
「……はい」
――武神の加護。俺が家畜神の加護を受けているのと同じように、今のあのひとはそんな天賦を持っている。
八人もの男子生徒を相手取り、自身は無傷のまま返り討ちにしたという状況も、武神の加護のおかげだった。
明確に俺はあのひとよりも弱い。それには自覚的なつもりだったが、改めてあのひとに突きつけられると、歯噛みしたいような気持ちにさせられた。
しかしそうぐずぐずとしていられる現状でもなかったので、俺はあのひとに命じられるがまま、また大急ぎで教師陣を呼びに行ったのだった。
「いいとこ放校処分だろうな」
「まあ今の騎士はことさら高潔さを求められますからね」
「これで心を入れ替えて欲しいものだが」
あのひとが返り討ちにした男子生徒たちを、俺が連れて来た教師陣に引き渡し、事情聴取なども挟むと、あっという間に日暮れが迫った時間帯となっていた。
早々に帰寮するのが望ましいだろうが、緩慢に歩を進めるあのひとに合わせ、俺もゆっくりと帰路を歩いていた。寮のほうへは教師陣が帰寮が遅れると連絡済みなこともある。
「どうでしょうね。性根というものはなかなか変わらないものですから」
「私があんなにボコボコにしたのに」
「足りないくらいですよ」
俺がそう言うと、前方へと向けられていたあのひとの薄い色の瞳が、不意にこちらを向く。
「お前、なんで私が叩き潰したと思っている」
「屑だから――じゃ、ないんですか?」
「それもある。次の被害者を出さないためにも、今ここで叩き潰しておく必要があると思ったからな。しかしそれよりも……私は、なんとなくお前のことがわかってきたのだが」
「俺?」
急に話がそれたので、不思議そうに瞬きをすると、あのひとは厳かそうに首肯する。
「あのとき、あの場所で私が叩き潰しておかねば、お前が彼奴らの息の根を止めていただろう」
あのひとはなぜか自慢げに「お前のことがわかってきたんだ」と再度口にする。
俺は観念して「そうです」と言った。
「けど、あなたはわかっているけどわかっていない」
「謎かけか?」
「……俺の行動は読めても、その背後にあるものまではわかっていない」
「私のことが好きだから、じゃないのか」
「そうです。好きなんですよ、愛しているんです。正気ではいられない。あなたに狂っている」
あのひとの歩みが止まった。俺も、それに合わせて立ち止まる。
「……うーむ、じゃあ想定以上に傷ついていたということか」
「は?」
話がまた飛んだ。けれども、あのひとの中ではきっと地続きなのだろう。俺は、あのひとの言葉を待った。
「自棄になったのではないのか? 私が、そのー……お前を避けていたから」
「自棄ではありません。これが俺の常からの本心です」
「それはそれでどうなんだ、お前」
あのひとが呆れたような目を俺に向けるが、今はそれよりも。
「避けていた自覚は、当然あったんですね」
「う。す、すまん……」
俺がすごむように言って、一歩近づくと、あのひとは途端に挙動不審になる。
珍しいものを見れたという喜びを脇にやって、俺はあのひとに詰め寄る。
「俺のせいですか。俺があなたを傷つけるようなことをしてしまったから――」
「なんの話だ?」
「だって、あなた、俺を避けていたじゃないですか」
「……そう、だな。……恥ずかしくて、つい。すまないことをした」
「は?」
もう一度、俺の口から「は?」という音が漏れ出た。
「『恥ずかしくて』って……」
「本当にすまないと思っている! でもだな、他でもないお前に――あ、あんな姿を見せたのだ! 恥ずかしくて仕方がなくなったって、それは仕方のないことだろう!」
「落ち着いてください」
あのひとの色白い頬が、薄暗がりの中でもわかるほどに紅潮している。
「……嫌だったから、避けていたのではないのですか?」
「ん? そんなわけないだろう。……嫌じゃなかったから、受け入れたんだ……。――そもそも! 嫌だったらあのときにお前をぶっ飛ばしている」
「嫌じゃなかったんですね?」
「だからそうだと言っとるだろう!」
俺の口からは、今度は「はあ」という、ひときわ大きなため息が出る。
「……それならいいんですけれども」
「全然良くなさそうな顔だが」
「それはそうでしょう。あなたなしには生きていけないって、言ったじゃないですか」
「それは聞いたが、しかし――」
「反省はしてください」
「う、うむ。わかっている」
「じゃあ今度の休日に麓の街でデートしましょうね」
「それはいいが……まさか、お前」
「おわかりですね?」
あのひとは恐れおののいたような目を俺に向ける。
俺はそんな視線を受けて、意味ありげな微笑みをあのひとに向ける。
あのひとは呆れの混じった声で「おっさんくさいぞ、お前」と聞き捨てならないことを言ってきたが、俺は「まあ前世と合わせりゃ爺なんで」と涼しい顔で返してやった。




