『Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜』 本編・番外編まとめ
【番外編】パケラス、洛中で古きを知る
奈良の方言強くしてますが、本来の奈良の人間はこんなに方言強くないです……一般的な大阪弁と文章だけで見たら変わりないです(実際に音声にするとかなり訛り強く感じますが)。一般的な大阪弁 (パケラス)と区別するために敢えて強めにしています。そうしないとどっちが喋ってるか分からなくなるんですよね。
あと、京言葉もかなり強調しています。わりと古いというか、舞子に近いというか……。許してね。残念ながら、関西の人間以外には全部一緒に聞こえるんですよ。
ほんのちょっとネタバレを含みます。
約二十年前の十一月、僕は病院へ有給届を出して京都にいた。
理由を一言で済ませるなら、メイザースの命令だった。国内にまだ所在の割れていない聖遺物がいくつかあり、そのうち一つが関西の旧家から古物として流れた可能性が出たため、僕とイグナスで京都の古物商を当たることになった。
どうして医者の僕まで駆り出されるのかとは思ったが、メイザースへ言ったところで結果が変わる相手でもない。結局、外来の予定をずらして有給を一日潰し、朝から監察局のローブを着たままイグナスと合流して、古物商や骨董屋を片端から回っていた。
仕事なのだから服装だけ見れば目的は明確だったものの、黒いローブ姿の男が二人並んで骨董屋を出入りしている光景は一般人から見れば十分怪しかったと思う。それでも京都では古い寺社の周辺を変わった服装の人間が歩いていても案外目立たず、少なくとも呼び止められることはなかった。
それらしい品は何点かあったものの、目的の聖遺物は見つからなかった。寺町の古物商では江戸期の仏具を三十分ほど見せられ、西へ移ってからは旧家の蔵出しだという箱を二つ開けてもらったが、出てきたのは錆びた刀装具と用途の分からない銅器ばかりだった。
夕方を過ぎる頃には、僕は聖遺物より自分の足の方が気になっていた。普段から病棟を歩き回っているとはいえ、診察室と病室の間を移動するのと一日中知らない町を歩かされるのとでは疲れ方が違う。
日が落ちる頃には二条城の近くまで来ており、大通りから一本外れると低い町家と古い塀が途切れず続いていた。昼間は観光客もいたが夜になると人の流れは薄くなり、格子の向こうの灯りと暖簾だけが道沿いへ浮いている。
「腹減ったなあ。さすがにもう何か食わへん?」
歩きながら言うと、少し前を歩いていたイグナスが振り返った。朝からほとんど同じ距離を歩いているはずなのに、コイツは僕ほど疲れているようには見えない。
「俺も腹減ってきたわ。この辺で食べていこか」
「この辺で?」
僕は立ち止まり、改めて周囲を見た。見れば見るほど僕の求めている店がなかった。
赤提灯もなければ、表へ値段を書いた品書きを出している店も見当たらない。格子戸の奥に小さな灯りだけが見える店や暖簾に屋号しか書いていない店が点々と並んでおり、何を食わせるのか以前に僕らが客として入っていいのかさえ分からなかった。
「いや、移動しよ。駅の方戻ったら何かあるやろ」
「今から戻んのも面倒やん。この辺でええやろ」
「よぉないって。見てみ、どこも値段すら書いてへんやん。こんなん絶対高い店やで」
「高かったら払たらええやん」
「そういう話ちゃうねん」
言ってから、金の話なら別に困るほどでもないことには気づいた。僕は三十三歳で、病院勤めも多少はある。食事が少々高かった程度で翌月の生活費を心配するような稼ぎではなかったし、そもそも隣にいるイグナスだって金に困っているような人間ではない。
それでも値段の分からない店は怖い。まして京都で、暖簾しか出していない古い料理屋へ予約も紹介もなしに入る勇気など、金とは別のところに必要なものだった。
「そもそも一見で入れてくれる店に見えへんやろ。京都やぞ」
「京都やから何やねん」
「怖いやん」
イグナスが足を止めて、真顔でこちらを見た。
「お前、ようそんなんでメイザースと仕事しとんな」
「メイザースと京都人は怖さの種類がちゃうねん。あの人は嫌やったら嫌って言うやろ。京都は笑いながら帰れ言うてくるやん」
「偏見えらいことなっとるやん」
奈良の人間に言われたくなかった。
最も、僕も大阪なので人のことを言える立場ではない。京都から見れば奈良も大阪も余所者であり、しかも二人とも仕事中とはいえローブ姿で、口を開けばそれぞれ地元の訛りが出る。
そんなことを考えながらイグナスを見ると、少し変なことに気づいた。コイツは、こういう場所でまるで萎縮しない。
昼間の骨董屋でもそうだったが、古い建物の前へ立った時に暖簾や表札を窺うことがなく、店へ入る前から自分が断られる可能性を考えていない。高そうな店の前でも同じで、店に選ばれる客というよりは自分が店を見定めている側の立ち方をする。
ローブのせいだけではなかった。黒布の裾を引いて古い格子戸の前へ立っていても、不思議と建物に負けない。今まで気にしたこともなかったが、よく考えると変な男だった。
ただし、コイツは奈良のかなり田舎の出身である。僕も大阪なので大都会の人間を名乗るつもりはないが、それでもイグナスの故郷について聞いた時、最寄り駅という概念が機能しているのか疑った程度には山の方だった。しかも喋れば完全に奈良である。黙っていれば古い家の人間に見えなくもないが、口を開けば京都の人間でないことくらいはすぐ分かる。
「何見とんの」
「いや、お前こういう店でも平気やなと思って」
「飯食うだけやろ」
「その飯が問題や言うてんねん。こんな露骨に高そうなとこで僕ら食うん?」
「さっきから高い高い言うとるけど、お前医者やん」
「職業で怯えへんようになるわけちゃうからな」
イグナスは鼻で短く笑うと、また歩き始めた。
僕は大人しく後ろをついていったが、通り過ぎる店はどこも似たようなものだった。小さな看板に料理名すらなく、木の壁と格子と植木だけが綺麗に整えられている。
その中でも、イグナスが足を止めた一軒は特に酷かった。
「……ここやったら、いけるかもしれんな」
「どこ見てそう思ったん?」
思わず聞き返した。
二階建ての古い建物で、通りに面した部分は黒ずんだ木と細い格子で覆われている。暖簾の横には小さく「割烹」とだけ書かれ店名らしい木札があるものの、料金どころか献立の一つも見えなかった。入口周辺は手入れされているのに、客を呼び込むものが一つもない。こういう店は、値段を見て入る人間を最初から客として想定していない。
「無理やって絶対。僕でも分かるわ」
「何が無理なん」
「全部や。予約してへん、紹介もない。それにローブ着た男二人で急に来とんねんぞ」
「仕事帰りなんやからしゃあないやん」
「向こうにそんな事情分かるかいな」
僕が止めている間にも、イグナスは店を眺めていた。
看板、暖簾、建物の屋根、その脇にある細い路地まで順番に目をやり、何かを確かめるように数秒黙る。それからローブの胸元へ軽く手を入れた。
「まだこれ使えるか分からんが――まあ、行ってみよか」
「何が?」
答えないまま、イグナスは暖簾をくぐった。
「おい、ちょ、待てって」
置いていかれる方がもっと嫌なので、僕は慌ててあとを追った。
格子戸の向こうへ入ると、外から想像していたより奥行きがあった。石を使った小さな通路の先にもう一枚戸があり、そこを開けると畳と木の匂いが薄く混じった空気へ変わる。
店の中は静かだった。
騒いでいる客の声もなく、遠くで食器が触れる小さな音だけが聞こえる。黒いローブ姿のまま入口へ立っている自分を意識すると、急に場違いな感じが増した。
奥から着物姿の女性が出てきた。
年齢は五十前後だろうか。姿勢も着物の襟も崩れておらず、こちらを見た時には既に柔らかい笑みがあった。
「ようおこしやす」
声まで綺麗だった。だから余計に怖かった。
「あの、二人なんやけど、今からでも――」
イグナスが言い切る前に、女性の視線が僕とイグナスを一度ずつ通った。ローブの胸元、袖、顔と順番に見たはずなのに、露骨に値踏みされた感じを残さないのがかえって怖い。
「まあまあ、せっかくお越しいただいたのに、えらいすんまへんなあ。今晩はもう、お席の方がみな決まってしもてますのや」
声は柔らかかった。ただ、奥にはどう見ても空いている席があった。
僕は視界の端でそれを確認してから、イグナスの袖を軽く引いた。
「ほら、言うたやん。行こ」
「席、空いとるやん」
イグナスが普通に言った。やめてほしかった。
女性の笑顔は一切変わらない。
「あちらはあとからお越しになるお客はんのお席どす。わざわざ来てくれはったのに、ほんま申し訳ないことどす」
おそらく嘘ではない。嘘ではないのだろうが、仮に朝まで誰も来なくても僕らは座れない気がした。
「ほらな。予約の店やって。もうええから、ラーメンでも食いに行こ」
小声で言っても、イグナスは動かなかった。それどころか特に腹を立てた様子もなく、ローブの胸元へ手を入れた。
「お前、何してんの」
返事はなく、内側から細長いものが取り出された。
煙管だった。
黒く艶のある羅宇に、雁首と吸口と龍が金色に光っている。ただし、煙草屋で売っているようなものとは明らかに違い、金具全体へ一匹の龍が巻きつく形で細工されていた。
鱗の一枚ずつまで彫り込まれ、龍の頭部は雁首の付け根へ食いつくように配置されている。煙管としての形そのものは後世に金具や部材を替えられたようにも見えたが、龍の金細工だけは古く、周囲の部分とは時間の染み方が違っていた。
長く使われた細かな擦れがあるのに造形は潰れず、照明を受けるたび金の奥から赤みのある鈍い光が返る。
美術品に詳しくない僕でも、見た瞬間に安物ではないと分かった。
「……何持ってんねん」
声が勝手に小さくなった。
今日一日、古物商で古い金細工をいくつも見せてもらった。そのせいで朝より多少は目が慣れていたが、目の前の煙管だけはそれらと同じ棚へ置いて考えてはいけない感じがした。
「それ、金やんな」
「せや」
「せやちゃうねん。なんでそんな怖いもん持ち歩いてんねん」
イグナスは僕を完全に無視した。
煙管の中央を持ち、女将らしい女性から見える高さへ静かに上げる。
「ここがあかんのやったら、それはそれでええんです。近くで今から入れる店、どっか紹介してもらえませんやろか」
女性の視線が煙管へ落ちた。
僕は横から顔を見ていたが、表情はほとんど変わらなかった。
「まあ、えらい立派なお煙管どすなあ」
それだけだった。何かを知っている反応ではない。
イグナスの目が僅かに細くなった。
「ほんで、どっかありませんやろか」
「さあ、どうどすやろ。この辺りは皆さん、ご贔屓さんやご予約のお客はんを大事にしてはりますさかい、今からやと難しいかもしれしまへんなあ」
女性はそこで小さく笑った。
「もうちょっと賑やかな方へ出はったら、お若いお人でも気楽に入られるお店、ようけあるんと違いますやろか」
僕は床の木目を見た。帰れと言われている。しかも、わざわざ「気楽に入られる店」と付けられた。やっぱり京都怖い。
イグナスはまだ煙管を持っていた。
「なるほどなあ」
その声を聞いた時、僕は嫌な予感がした。機嫌が悪くなった時の声ではない。逆である。イグナスは本当に面白いものを見つけた時、少しだけ声が穏やかになる。
「ちなみに、ここはいつからやっとる店なんです?」
女性の表情がわずかに変わった。
今度は分かった。自分の店について尋ねられたことを、明らかに悪く受け取っていない。
「うちがこちらで商いさせてもろてますんは、安土桃山の頃からやと伝わっております。代替わりは何遍もしておりますけど、まあ四百年ほどになりますやろか」
「へえ」
「古いばっかりの店どすけど、昔からのお客はんにようしていただいて、何とか今日まで続けさせてもろてます」
謙遜の形をしているが、自慢であることくらい僕にも分かった。四百年なら自慢していい。僕なら入口に「創業四百年」と書いた看板を三枚くらい立てる。
ところがイグナスは、煙管を見てから女性の顔へ視線を戻し、鼻で小さく笑った。
「ああ、たかだか四百年ほどやったんか」
僕は固まった。女性の笑顔も、一瞬だけ薄くなった。
「……へえ?」
「いや、京都の人やいうから、もうちょい古いもん見慣れとる思うとったんやけどな」
イグナスは手にした煙管を一度だけ返し、龍の金細工が正面から見える向きにした。
「この煙管見て何も思わんのやったら、四百年いうても案外短いもんやな。古都も朽ちたもんやよ」
空気が死んだ。比喩ではなく、本当に店の中から音がなくなった気がした。奥で鳴っていた器の音まで止まったわけではないはずなのに、僕の耳には何も入ってこなくなった。
女将の笑みはまだ残っている。残っていることの方が怖かった。
「そうどすか。うちら、まだまだ知らんことが多うございますのやろなあ」
柔らかい声だった。
「長いこと商いしてますと、分かったつもりになってしまいますさかい。ええ勉強させてもらいましたわ」
「そらよかった」
なんで返すねん。
僕はイグナスの背中を掴みたかったが、動くことで自分まで会話へ参加したことになる気がして、手を出せなかった。
「ほな、失礼します」
「へえ。どうぞ、お気ぃつけてお帰りやす」
最後まで、女将は綺麗に頭を下げた。
店の外へ出て暖簾が背後へ落ちた瞬間、僕は肺に溜めていた空気を全部吐いた。
「お前アホちゃうか!」
通りへ出てから声を抑える余裕もなかった。
「何が?」
「何がちゃうわ! なんで喧嘩売んねん! 飯食う店探してただけやろ!」
「向こうが先に売ってきたやん」
「売ってへん! いや、ちょっとは売ってたかもしれへんけど、買わんでええねん!」
イグナスは気にした様子もなく、煙管をローブの胸元へ戻した。
僕は反射的に周囲を見た。
近くの店から誰か出てこないか、今の会話を聞かれていないか、暖簾の隙間から塩でも撒かれないかまで確認したが、通りには何も起きていない。
「これ、京都中出禁になるで。絶対こういう店、裏で繋がってるやろ」
「飯屋が全部相談して客決めとるわけないやん」
「分からへんやろ、京都やぞ」
「またそれ言うとるやん」
「お前が怖がらなさすぎやねん!」
怒鳴りながら歩き出したが、イグナスは少しも急がなかった。僕だけが逃亡しているみたいになっている。
「それより、あの煙管何やねん。普通のもんちゃうやろ」
「家にあったやつ」
「家にあったで済ませてええ見た目してへんぞ」
「そうなんか?」
「奈良の田舎怖いわ」
「大阪の人間に言われとうないやん」
そこだけは否定できなかった。それでも、あんなものが家に転がっている大阪の家庭を僕は知らない。
「で、結局どうすんねん。もう普通の店行こうや。僕、腹減って倒れそうやで」
「何、分かる店に行ったらええだけやん」
「何を分かるねん」
「これ」
イグナスは自分の胸元を指した。
「それ分かる店やったら飯うまいんか?」
「知らん」
「目的見失ってるやんけ!」
イグナスは少し笑いながら先へ歩いた。
もう帰りたい。聖遺物は見つからず、昼飯も適当な蕎麦で済ませ、夜になったら京都の老舗へ喧嘩を売る奈良県民の後ろをローブ姿で追いかけている。有給の使い方としては最低に近かった。
それでも一人で放置すると何をするか分からないので、僕はついていくしかない。数分ほど歩いたところで、イグナスがまた足を止めた。嫌な予感しかしなかった。
「ここ、行ってみよか」
「もう見ただけで胃痛いねんけど」
さっきの店より少し小さいものの、こちらも十分古かった。黒い板塀に沿って細い石畳が奥へ延び、暖簾の向こうには直接店内が見えない造りになっている。
小さな行灯に店名が書かれているが、やはり看板はない。割烹の文字だけが見えた。
「なんでさっきと同じ種類の店選ぶねん」
「さっきんとこより古そうやん」
「今度は建物の年代で飯食うんか」
「腹減っとるんやろ。早よ行こ」
イグナスは迷いなく入っていった。
僕はその場へ一人残ることも考えたが、二秒で諦めて追った。
店内へ入ると、先ほどの店より照明が暗かった。
磨かれた木の床には無駄なものが置かれておらず、壁際に季節の花が一輪だけ生けてある。奥へ続く廊下は途中で折れており、その向こうから人の話し声が僅かに届いていた。
また着物姿の女性が出てきた。
今度は先ほどより年上で、六十を越えているように見えた。白髪の混じった髪をきっちりとまとめ、僕らの姿を見ると静かに頭を下げる。
「ようおこしやす。お待ちしてましたやろか、お名前聞かせてもろてもよろしおす?」
終わった。やっぱり予約の客しか想定していない。
「予約はしてへんのですけど、二人いけます?」
イグナスが聞くと、女将は僅かに困った顔をした。
「まあ、それはえらい申し訳ないことどす。今晩はご予約のお客はんでお席を整えておりますさかい、急にはちょっと……」
僕は何も言わなかった。さっきの経験から学習した。ここで「ほら」と言うと、イグナスが余計なことを始める。
黙って帰ろう。そう思ったところで、隣から衣擦れの音がした。
「おい」
イグナスはローブの胸元から例の煙管を取り出した。
「席があかんのやったら、それはかまへんのです。近くで今から入れるとこ、知らはりません?」
僕は目を閉じたくなった。
また始まる。次は何百年の店なのかだけ聞いて、さっさと逃げようと思った。
ところが、返事がなかった。
数秒経っても女将が何も言わないため、僕は顔を上げた。
女将は煙管を見ていた。正確には、雁首の根元へ巻きつく龍の金細工を見ていた。
口元にあった柔らかい笑みが消え、目だけが細くなる。嫌悪でも驚きでもなく、見覚えのあるものを間違えないために確認している顔だった。
イグナスも、それに気づいたらしい。
煙管を持つ手を動かさず、黙って女将を見ている。
「……その煙管、どちらでお持ちになったもんどす?」
女将がようやく口を開いた。声の高さが少し変わっていた。
「家のもんです」
「失礼どすけど、お名前、聞かせてもろてもよろしおすやろか」
今度はイグナスが僅かに笑った。
さっきの店で相手を煽った時とは違う。目的のものをようやく見つけた時に近い、確認の済んだ顔だった。
「辰守や」
聞いたことのない名字だった。少なくとも僕は、三十三年間生きてきて一度も会ったことがない。
女将の目が僅かに大きくなった。
「辰守……」
視線がもう一度煙管へ落ち、龍の頭部から尾までをゆっくり辿る。
「では、龍坐御祖の――」
途中で言葉が切れた。
女将は立ち位置を改めると、それまでとは明らかに違う深さで頭を下げた。
「御見それいたしました。えらいご無礼、申し上げました」
僕には何が起きたのか分からなかった。
さっきまで予約がないから無理だと言われていたはずなのに、女将は頭を上げると奥へ身体を向け、すぐに人を呼ぼうとした。
「お二人でしたら、どうぞ上がっておくれやす。少々お待ちいただくことになりますけど、お席、何とかさせてもらいます」
「ええんですか」
思わず僕が聞くと、女将は今度はこちらへも丁寧に頭を下げた。
「もちろんどす。気ぃつかんことで、とんだ失礼いたしました」
僕には何一つ分からない。煙管が高価そうなことは分かる。
辰守という名字と、タツニマスミオヤという名前に何か関係があるらしいことも分かる。それ以上が全部抜けていた。
横を見ると、イグナスはもう煙管をローブの胸元へ戻していた。
「行こか」
「いや、ちょっと待って。何なん今の」
「飯食えるみたいやん。良かったな」
「そこちゃうねん」
僕が動かないので、イグナスはローブの袖ごと腕を掴んだ。
「ええから行こ。腹減っとるんやろ」
「減ってるけど、お前あとで全部説明せえよ」
「覚えとったらな」
「そこ忘れんなや」
奥へ案内する女将の背中を追いながら、僕はもう一度イグナスの胸元を見た。煙管は黒いローブの内側へ消えており、金色の龍はもう見えない。
それでも先ほどまで僕らを客として扱わなかった店の空気だけは、あの煙管一本で完全に変わっていた。
朝から探していた聖遺物は一つも見つかっていない。
代わりに、隣を歩いている男の家から、どう考えても触らない方がよさそうなものが一本出てきた。
メイザースへ報告するべきか少し考えたが、腹が減りすぎていたので、ひとまず料理を食べてから考えることにした。
*
案内されたのは奥まった小座敷で、障子の向こうには小さな庭があり、濡れた飛び石と低い灯籠だけが暗がりへ浮いていた。さっきまで門前払いされかけていた人間が通される部屋には見えず、僕は座布団へ腰を下ろしてからもしばらく入口の方を気にしていた。
「なあ、ほんまにええんかな。予約もしてへんのに、こんな部屋まで使わせてもろて」
「ええ言うとんねんから、ええんやよ。今さら帰る方が失礼やろ」
イグナスは何事もなかったようにローブの裾を脇へ寄せ、例の煙管も胸元へ戻していた。あれ一本で店の空気をひっくり返した本人とは思えないほど落ち着いており、怯えているのは僕だけだった。
ほどなくして銚子と小さな杯、それに胡麻豆腐や湯葉を使った先付けが運ばれてきた。器の方が料理より高そうに見えたので値段について考えるのはやめ、イグナスから注がれた酒を一口飲むと、朝から歩き続けて固まっていた胃の辺りがようやく緩んだ。
「うまっ。これだけで今日の有給ちょっと許せるわ」
「まだ仕事終わってへんやん」
「聖遺物は明日の僕が頑張る」
「明日も休む気なん?」
「それは嫌や」
即答すると、イグナスが杯を持ったまま小さく笑った。
向付には鯛と平目、烏賊が並び、どれも余計な味を付けずに出されていた。僕が食べるのに夢中になっている横で、イグナスは椀の蓋から箸の置き方まで自然に扱っている。
「お前、やっぱこういう店慣れとるやろ」
「何で?」
「蓋の置き方とか。僕なんか合ってるか一回考えるぞ」
「見て覚えただけやよ」
「誰の?」
「家の人間」
それだけ言って、イグナスは刺身へ箸を伸ばした。
「こういうとこ、家族で来とったん?」
「家族で飯食う、いう感じではなかったな。人が集まる時に席へ出されとっただけやし」
「何の集まり?」
「知らん。子供に説明するような話でもなかったんやろ」
食卓というより、何かの席へ置かれていたという言い方だった。本人は大したことでもないように平目を口へ運んでいたが、それ以上聞かれるのを待っている感じもなかった。
「兄弟は?」
「おったよ」
過去形だけが耳に残った。
「仲よかったん?」
「普通やない?」
「その普通、信用できへんなあ」
「ほんなら聞かんかったらええやん」
少し笑って返され、それ以上は続かなかった。兄弟が何人いたのか、今どうしているのかまで掘る気にはならず、僕も酒へ逃げた。
そこで襖が開き、大きな平皿が運ばれてきた。
白い身が花みたいに一面へ引かれ、下の模様が透けるほど薄い。中央には細葱と紅葉おろし、端には皮まで添えられている。
「うわ、ふぐや!」
思ったより声が響き、すぐにイグナスの手が僕の腕を押さえた。
「パケラス、静かにせえ。外まで聞こえるやろ」
「あ、ごめん」
仲居が下がるまで待ってから、僕は声を落としてもう一度皿を見た。
「でも、てっさやで。皮まであるやん。これ大阪でもそうそう食わへんぞ」
「分かったから、小声ではしゃげ」
「医者やから毎週ふぐ食ってると思うなよ」
「誰も思っとらんわ」
数枚まとめてぽん酢へくぐらせると、噛んだ瞬間に強い弾力が返り、そのあとから淡い甘みが出た。もう一度声を上げそうになったが、イグナスが先にこちらを見たので、僕は黙って親指を立てた。
「それでええ」
「……めっちゃうまい」
酒を挟みながら食べていると、さっきの煙管のことがまた気になった。
「なあ、あれほんまに家のもんなん?」
「せやな」
「勝手に持ってきたん?」
「まあな」
「怒られへんの?」
「今さら怒る奴もおらんよ」
軽い調子だったが、そこで終わらせるには妙な言い方だった。
「親父さんとかは?」
「父親の話はややこしいんやよ」
「何がややこしいねん」
「戸籍見ても、全部そのまま受け取ったらあかん家もあるやろ」
「普通そんな家ないぞ」
「ほんなら、うちは普通やなかったんやろな」
イグナスはそこから先を話さなかった。冗談にしては乾いており説明する気もなさそうだったので、僕もそれ以上は押さなかった。
焼き物として鰆の西京焼きが出て、白味噌の甘い香りが部屋へ広がる。二本目の酒が来る頃には僕も少し酔いが回り、沈黙を埋めるつもりで自分の話をした。
「僕も弟おるけどな。僕が家継がんかった時の予備みたいな感じで作られたやつやけど、本人は本人で好き勝手やっとる」
「何しとんの?」
「精神科医。まだ後期研修医だけど。僕より出来ええし、家の連中にも昔から弟の方が素直で優秀やと言われとった」
「仲悪いん?」
「いや、別に。腹立つことはあるけど、死んだら普通にへこむと思う」
そこまで言うと、イグナスは少しだけ黙った。
「……ほんなら、大事にしとき」
「何や急に」
「おるうちに喋っといた方がええよ。死んでからやと喧嘩もできへんしな」
随分当たり前のことを言っているはずなのに、声だけが乾いていた。僕が顔を上げてもイグナスはもう酒を飲んでおり、その先を足すつもりはなさそうだった。
ほどなくして小鍋が運ばれ、蓋を開ける前から昆布の匂いが立った。中には白いふぐの身と白菜、豆腐が並び、さっきまで沈みかけていた気分が一瞬で持ち上がる。
「ふぐちりまで――」
声を上げる前に、イグナスが僕の袖を引いた。
「静かに」
「まだ全部言うてへんやん」
「顔見たら分かるわ」
「僕そんな分かりやすい?」
「ふぐ出てからずっと分かりやすい」
僕は声を落としながら鍋へ箸を伸ばした。
「今日京都来てよかったな」
「聖遺物一個も見つかってへんけどな」
「今それ言わんといて」
柔らかく煮えた身をぽん酢へ落とし、酒を飲む。しばらくは何も聞かずに食べていたが、胸元へしまわれた煙管だけはどうしても気になった。
「家嫌いやのに、あれは持ってるんやな」
「物に罪はないやろ」
「名字も使うし」
「使えるもんは使うよ。名前も物も、覚えさせられたこともな」
「ありがたいとは思うん?」
「京都におる時だけはな」
イグナスはそこで少しだけ機嫌よく笑った。
「こっちは古さだけなら負けへんから、向こうがそれで物言うてくる分には楽やよ」
「お前ほんま京都相手には強気やな」
「使える札持っとるのに、わざわざ捨てる方が阿呆らしいやろ」
「家嫌いやのに?」
「嫌いやから使わんいう方が、いつまでも家の言うこと聞いとるみたいやん」
僕は少し黙った。
嫌っているものを捨てるのではなく、自分の都合で使う。イグナスなりの切り離し方なのだろう。
「お前ん家、何年あんねん」
「知らん」
「四百年鼻で笑っとったやろ」
「四百年やろ」
「十分古いって」
「そうなんか?」
本気で分かっていない顔だった。
「絶対もっと古いやろ」
「昔からある、それで十分やん」
それ以上を言わせるのは無理そうだった。
何の家なのか、どうして女将が名字を知っていたのか、家の中で何があったのかについて、僕には結局ほとんど分からないままだった。
「ほら、煮えすぎるで」
「うわ、僕のふぐ!」
また声が上がり、イグナスがすぐ人差し指を口元へ立てた。
「声」
「……僕のふぐ」
「それくらいでええ」
僕は小声のまま慌てて鍋へ箸を伸ばした。
聖遺物はまだ見つかっていないし、イグナスの家についても、知ったことより分からないことの方が多かった。父親の話になると戸籍を持ち出し、兄弟についても過去形でしか話さない。その辺りまで揃うと、もう家族仲が悪かった程度の話ではないことだけは分かった。
僕は弟が今頃どこで何をしているかを少し考え、帰ったら久しぶりに電話でもしてやろうと思った。
最も、用もないのに電話したら、気色悪がられる気はした。
部分的に実話を含んでます。
追記:ものすごく細かいところの修正ですが、パケラスの弟は「後期研修医」という文言を使うことにしました。今だと専攻医と呼ばれますが、年代設定的にこちらの方が正しいです。言っている内容は一緒です。




