心音
その日はやけに夕日がまぶしかった。いつもは店の中は薄暗いのに、夕日に照らされてオレンジと黒のコントラストがはっきりしていたのを覚えている。路地裏に佇む私の占い館でも、こんなに夕日が射し込むのは珍しい。【瑞葉占星術館】、看板に描かれた七つの星が、乾いた風に揺れながらキラキラと光っている。
店主の占い師、瑞葉は閉店前の後片付けに追われていた。静かな店内に響くのは、カチコチという時計の針の音と、ふわりと漂う白檀の香り。一見穏やかな日常の風景に見えるが、その風景とは裏腹に、瑞葉の頭の中には、‘‘雑音‘‘が響いてくる。
——今日の夕飯何にしようかな。
――プロジェクト失敗したらどうしよう。
――上司に、また怒鳴られるかもしれないミスをしてしまった。
「本当に‘‘雑音‘‘ね……。もしかしたら、‘‘騒音‘‘かもしれないわ」
客の心の声。瑞葉は、生まれつき人の心の声を‘‘音‘‘として聞きたくなくても聞こえてしまう体質だった。意識しなくても聞こえてくるそれらは、瑞葉にとって、ずっと世界の騒音でしかなかった。
「……もう、今日はこれくらいにしておこうかしら」
ふう、と溜息を吐いたその時、店の扉がためらいがちにわずかに開いた。顔を覗かせたのは、見慣れない青年だった。
「すみません、もう閉店ですか?」
その声は、軽く、柔らかく、心地よく、人の警戒心を溶かすような響きを持っていた。しかし、瑞葉は異変にすぐ気づいた。
(…………)
何も聞こえないのだ。いつも聞こえてくるはずの、人の心の‘‘音‘‘が、その青年からは全く感じられなかった。瑞葉は思わず目を見開いた。青年は困ったように頭を下げた。
「ちょっとだけでいいんです。どうしても占ってほしくて」
「……いいわ、いらっしゃい」
ほとんど反射のように、瑞葉は青年を中へ招いた。
青年は少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐににこりと笑う。その笑みもどこか作り物じみていた。
青年は椅子に座るなり、軽く言った。
「恋愛運を視てほしいんです。最近好きな人に振られてしまったので、これからいい出会いがいい出会いに恵まれるかどうかを、お願いします」
(――困ったわ。これは本音なのか嘘か分からない……)
瑞葉の頭に、久しく味わっていなかった‘‘静寂‘‘が訪れる。その言葉が、嘘だと何も言わなくても‘‘音‘‘で分かる。彼は形だけの言葉を並べている。そこに‘‘心‘‘がまったく存在しない。
「占ってほしいことは、本当にそれだけかしら?」
「ええ、もちろん」
青年は、迷いなく笑う。その笑顔は完璧で、心を持たない精巧な仮面のようだった。
「あなた、名前は?」
「ハルト、カネシロハルトです」
(――これも嘘かしら……。でも不思議とすんなりと入ってくる名前だわ)
瑞葉はタロットカードを切りながら、慎重にハルトの心の内を探る。
「あなたのね、心の‘‘音‘‘が聞こえないのよ」
「……聞こえない?」
ハルトの肩が、カードを並べて置く音に合わせてピクリと跳ねる。
「ここに来る人たちは、皆何かしらに悩んでいるわ。心が騒がしくてね、困るくらいに。でもあなたは――静かすぎるのよ」
ハルトは目を細めた。その笑顔に、わずかに影が落ちる。
「心が静かなことって、悪いことですか?」
「悪いなんて、一言も言ってないでしょう?ただ……心が、封じ込められているみたい」
その言葉に、ハルトの瞳がわずかに揺れる。だがすぐにいつもの鉄仮面の笑顔に戻る。
「じゃあ、先生。僕の心の封印、ぜひ解いてみてくださいよ」
軽口の裏に、硬く、冷たく、重たい分厚い鉄の扉の様なものを感じた。彼は自分に近づかせないために、嘘で心を覆っている。
(どうして……?どうして本音を言いたくないのに、此処に来て、救いを求めるの……?本当は、誰かに救われたいの……?)
瑞葉は息を吸い、呼吸を整え、カードに触れる。カードが示したのは、【塔】の逆位置。苦悩と解放を示すカードだった。
「あなた、怖いのね。本音を言うのが」
ハルトは一瞬だけ笑顔を失い、すぐに取り戻した。
「それって、占いじゃなくて、ただの推測でしょ」
「なら、言ってみればいいわ。’’本当は占いになんか来たくなかった’’って」
「どうして、そう思うんですか?」
「カードが、そう示しているのよ」
本当は、カードとは関係ない。瑞葉はハルトの胸の内を引き出そうと誘う。ほんの一瞬、破れたガラスのような感情が漏れ出たのだ。ハルトはすぐに、いつもの笑顔を取り戻した。
「あなた……誰かの裏切りに遭ったわね?」
ハルトの瞳が一瞬だけ揺れた。
「あはは……先生は、勘がいいんですね。まぁ、よくある話です。大したことじゃないですよ」
(――これは’’嘘’’ね。はっきりわかったわ)
彼の’’無音’’の心が、茨に巻き付かれたように痛みに濡れている。だが瑞葉は、その嘘をそのままあえて飲み込むことにした。
「今日はこれくらいにしておきましょう。また来なさい」
「……また、来てもいいんですか?」
その声に、少しだけ安堵の響きが混じっていた。
「ええ、いつでも歓迎するわ」
ハルトは小さく頭を下げ、暗闇の中に去っていった。扉のベルが鳴り、館は再び静けさを取り戻した。
(あの時の沈黙……。あの子、相当無理してる。占わなくても分かるわ)
瑞葉の胸には、わずかなざわめきが残った。月明りがやけに不気味な夜の出会いだった。
ハルトが占星術館に通うようになったのは、あの夕焼けの出会いから一週間後のこと。ちゃんと、週に一度。毎週金曜日の午後六時きっかりに来るようになった。
毎回「仕事関係」で相談に来るがどの相談内容も浅い。
‘‘仕事がつらい‘‘
‘‘同僚との関係がうまくいかない‘‘
それらは全部、表向きの理由。本当の悩みは、もっと深いところに沈んでいる。
だが瑞葉は焦らない。無理に引き出しても、傷を抉るだけだからだ。
ある日のこと。いつものように占いを終えた後、ハルトはふと呟いた。
「先生って……人のこと、全部分かるんですか?」
「全部なんて、そんなことないわ。でもね、困ってる人の‘‘音‘‘は‘‘声‘‘として、とても心に響いてくるわ」
「……困ってる‘‘声‘‘……」
ハルトは表情を曇らせ、目を伏せた。
その瞬間だった。
――ざ……っ
氷のような感情の‘‘音‘‘が一瞬だけ溢れた。
裏切られた記憶が、脳裏を一瞬でよぎったのだろう。
(あれほどの痛み……相当大きな事件があったのね)
「ハルト、無理しなくていいのよ?」
瑞葉は優しく言った。だが、ハルトは微笑みで全部を包んでしまう。
「無理なんてしてませんよ」
その言葉だけは、あまりにも痛々しくて、悲しすぎる嘘だった。
ハルトが帰った後、瑞葉は胸に手を当てて考えていた。
「どうすれば……あの子は、本音を話してくれるのかしら」
聞こえるはずの‘‘音‘‘が聞こえないというのは、心を完全に閉ざしているということ。
裏切りのショックで、心を凍らせてしまったのだ。
だが、心を閉ざした人間が、なぜ占星術の館に通うのか。
(……本当は、誰かに話したいのね)
その優しさが、痛いほどに伝わってくる。
ハルトが本音を見せたのは、雨が激しく降る夜のことだった。
「先生……今日、ちょっとだけ……聞いてもらっていいですか」
ハルトは珍しく言葉を濁し、占い台ではなく、部屋の奥のソファに腰かけた。
「ええ、もちろんよ」
そして瑞葉もその隣に適度な距離感を保ちながらゆっくりと座る。
ハルトは俯いたままぽつりぽつりと話し始めた。
「僕……結婚する予定だったんです。それが、酷い有様で……。式の当日に、花嫁衣装を着た彼女が、突然現れた、彼女と前々から関係を持っていたらしい浮気相手と駆け落ちしてしまって……。その場は騒然。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図でしたよ……。彼女の両親は土下座して僕や僕の両親に謝り続け、僕の両親は怒りに震え怒号を飛ばし、会社の上司や同僚は哀れみや皮肉を込めた言葉を僕にかけてきて……。僕はどこか虚ろな目で、喜劇としてなら拍手ものだけれど、現実としては目を覆いたくなるような辱めを受けて……。涙の一滴も零れずに立ち尽くしていました……」
(やっと……触れてくれた……)
「その後、彼女からメッセージが届いて……。‘‘私は私の道を行く。私の好きな人と結ばれたい。あなたは私のことを忘れて、幸せになってください‘‘って……彼女、あまりにも身勝手過ぎませんか……?絶対僕の幸せなんて願ってないですよね……」
その言葉と同時に、
――ピシ……ッ
心の奥にひび割れが走り、感情が溢れた‘‘音‘‘がした。
怒り、絶望、自責、そして虚無。
ハルトは震える声で続ける。
「僕……全部失った気がして……。それから誰にも本音が言えなくなって……。誰も、心の底から愛せなくなって……」
瑞葉は言葉に詰まってしまった。自虐を込めた乾いた笑みを浮かべながら話す彼にどう言葉をかけたらいいか分からなかったから。
それからどれだけの時が過ぎただろう。叩きつけるような雨が去り、あたりには余韻だけが残った。宵闇の雨粒に濡れた空が、眠りから覚めるようにゆっくりと明るさを取り戻していく。
瑞葉は、確かめるように静寂を切り裂いた。
「ハルト、あなたは努力家でしょう?仕事も、人間関係も、恋愛も、大切にしようとした。でも、突然全て奪われ、壊された。そうでしょう?」
ハルトの瞳が大きく開いた。
「どうして……そんなことまで……」
「あなたの‘‘音‘‘がね、ようやく聞こえたの」
やっと、ハルトの心の‘‘音‘‘が聞こえた。
ハルトは泣きそうな顔で続ける。
「全部……聞こえてるんですか……?」
「聞こえるけど、勝手に覗いたりはしないわ。あなたが言おうとした瞬間にだけ、聞こえてくるのよ」
その瞬間、ハルトの心が‘‘開く音‘‘がした。
本当に、実際に‘‘音‘‘がしたように感じたのだ。瑞葉にとっても、こんな体験は初めてだった。
「僕……もう誰も信じられなくて……。だから、嘘ばかりついて……。強がって……独りよがりに生きてきて……」
「ええ、知ってるわよ」
瑞葉はハルトの全てを包み込むかのように、優しく微笑んだ。
「でも、あなたは優しい嘘しかつかないわ」
その言葉に、ハルトは堪えきれず、優しい雫をその瞳から零した。
「優しい……嘘……?」
「そう、誰かを傷つけないための嘘よ。自分が傷ついた分だけ……。誰にも同じ思いをさせたくなかったのね。あなたは本当に優しい人よ」
「……っ」
夜の帳の中の激しい雨が止んだ後は、優しくて切なくて、誰かを想う嘘をつき続けた心根が人よりも繊細で、あまりにも優しすぎる青年が朝日に照らされた美しい雨を降らせた。
瑞葉はそっとハンカチを差し出した。
「思う存分泣いていいわよ。ここでは、強がらなくていい」
ハルトはハンカチで顔を覆い、しばらく雨は止まなかった。
(やっと……救われ始めたわね)
その涙は、ずっと押し殺してきた‘‘本音‘‘の始まりだった。
泣き疲れて静かになったハルトは、深い溜息をついた。
「先生……僕、どうしたら……また誰かを信じられるようになりますか」
「急がなくていいわよ。心はそんな簡単に戻らないもの」
瑞葉は静かにハルトに告げる。
「でもね……あなたはもう一歩進んでる。本音を言った。それだけで充分よ」
ハルトは少しだけ照れくさそうに笑った。
「先生のところに来ると……なんか、安心するんです。本当のことを言っても……大丈夫な気が、なぜだかするんです」
「大丈夫よ」
瑞葉は優しく力強く断言した。
「あなたの本音は、どれも……とても美しいものだから」
その言葉を聞いて、ハルトの胸の中で、何かがほどけたようだった。
「先生……僕、また来てもいいですか」
「もちろん。待ってるわ」
その言葉にハルトは初めて心からの笑顔を見せた。
――その笑顔は、やっと‘‘未来‘‘に向いた。
ハルトが帰っていった後、瑞葉はひとり呟いた。
「人の心の‘‘音‘‘が聞こえるって……時々つらいけれど、あの子の心の‘‘音‘‘なら、もっと聞きたいと思ってしまうわね」
心の‘‘音‘‘が聞こえてしまうという呪いが、ほんの少しだけ、祝福に変わった瞬間だった。
それからハルトは、週に一度、瑞葉のもとを訪れた。
仕事の愚痴。
疲れた日常。
時には、未来の夢の話も。
以前は沈黙や嘘だらけだった心が、今では澄んだ湧水が溢れて止まらないといったように流れている。
ある日、ハルトは意を決したように瑞葉に言った。
「先生、僕……誰かを信じるの、少しずつ怖くなくなってきました」
瑞葉は煙管から出る煙を燻らせながらゆったりと告げる。
「ええ、知ってるわ」
「先生のおかげです」
尚も生真面目に肩肘張りカチコチになりながら感謝の意を告げる青年に瑞葉は余裕の笑みを投げる。
「あなたが自分で立ち上がったからよ。私はきっかけを作っただけに過ぎないわ」
ハルトは照れくさそうに笑った。
(この笑顔が、地獄のような痛みと苦しみの上に咲いたものだと思うと……なんとも愛おしいものね)
‘‘ありがとうございます……。先生……‘‘
瑞葉はその心の‘‘音‘‘を優しく受け止めた。
「先生。僕……これからも来てもいいですか。相談じゃなくても……先生と、話したくて」
「もちろんよ。あなたの‘‘音‘‘は聞いていて心地いいわ」
その瞬間、ハルトの心が静かに震えた。
――‘‘先生といると、あたたかい‘‘
その響きが、瑞葉の胸の中にそっと降りてきた。
(また来なさい。いつでも。何度でも)
声には出さずとも、二人には通じていた。
未来はまだ、ゆっくりだけれども、それでも確かに歩き始めていた。
嘘つき青年の、本当の人生が。
そして――。
その隣にはいつも、人の心の‘‘音‘‘が聞こえてしまう占い師が、静かに寄り添っていた。
完




