藤翼の想い(後)
夕方、器修坊の片づけが終わると藤翼は部屋へ戻り、夏葵に夕食は沐雨の部屋で食べてそのまま泊まると告げ、体を清めて着替えた。
夏葵は「またですか?奥様が食事は主屋で取りなさいっておっしゃってましたよ」と小言を言いながらも「これ、雨ぼっちゃんに」と、書店でもらってきた新刊目録を渡してきた。
「今は私、月下書房のほうに夢中なんです。思青より刺激が強いけど、読みだしたらやめられないって伝えてください」
(刺激が強いって何だよ)と思ったが訊くのも怖いので、黙って懐に入れるとそそくさと部屋を出た。厨房で二人分の食事を受け取り、うきうきしながら西奥の小棟へ行くと、雨は入ってすぐの角にある小さなかまどの前にいた。
「翼、お疲れ。早く戻れたから蒸し卵作ったよ」
よく溶いて漉した卵液をとろとろに柔かく蒸し、鶏ときのこの出汁の餡をかけた蒸し卵は治療院の病人食だが、翼の大好物でもある。
「ありがとう!うれしいな」
部屋に入って盆を下ろすと、小さな木の椀を受け取る。大事に持ってさじで少しずつすくい、ちびちび口に運ぶ。たまに夕食に出るが、雨が作ったものは蒸し加減といい舌ざわりといい、絶妙なのだ。
「んー、やっぱり雨のが最高!」
「まだあるからさっさと食べろよ」雨が照れたように笑う。
「いいなあ、治療所に入ったら、毎日雨のこれが食べられるんだろ?」
「まさか、病人食作りは当番制だよ」
「雨も早く食べなよ」
今日の夕食はあっさり塩を振って焼いた川魚に青菜の炒め物と、雨の好物だ。
両親と主屋で取る食事は、石ころ餅の日でないかぎり、手の込んだおかずがあれこれ付け加えられていて品数が多い。だがたいてい「行儀が悪い」と叱られるし、食べ終わった後には修行の進み具合や将来のことであれこれ言われる。親が何も言わなければ、兄や姉たちの誰かが言い出すときている。
(鬱陶しくて腹具合までおかしくなってしまう。雨とこの部屋で気兼ねなく食べるのが一番だ)
食べ終えて食器も返すと、二人は布団を敷いて寝ころんだ。心地よい疲労感がじんわりと四肢に広がる。明日は休日だと思うと心が浮き立つ。
「なあ、明日何する?」
「うーん、翼は何したい?」
「綿家村の祭りに行かないか?もう始まってるらしいよ」
近くの綿家村では、春と秋に祭りが行われる。笛や太鼓に合わせて歌や踊りが披露され、名物の餅が振る舞われるのだ。
「いいね、行こうよ」
「あそこの餅はうまいよな!蒸したてだからふわふわだし、炒った豆の粉をまぶしてあるのがまた香ばしくてさ」
一緒に行けるとなってはしゃいだ気分の翼は、その後もひとしきり祭りの話をしたが、やがて眠くなってきた。見ると、雨もうつらうつらしている。
「ごめん、疲れてるよな。おやすみ、明日は楽しもう」布団を雨の肩の上まで引っ張り上げてやった。
翼もさすがにくたびれていた。
器修も医修と同じように、膨大な知識を身につけ経験を積まなくてはならない。その合間に、藤露堂ほどではないにせよ、下働きの仕事も多い。
もともと物を作ったり動かしたりすることが好きだ。小さいころは屋敷にある道具を飽きもせずに長いこと観察していたり、ときには勝手に分解して怒られたりしていた。
紫鈴山で雨に助けられた日も、実はちょっとした思いつきを試そうとして木に登り、夢中になって何も考えずに飛び降りて着地に失敗したのだ。
一方で、使用人の道具が壊れると器用に直したり、使いやすいようにちょっと手を加えたりして喜ばれることもあった。
だが本格的に器修の道を進むなら、この世の様々な物の性質や力学を学ばなくてはならず、高度な算学も修めなくてはならない。好きなことのためなら苦にならないというが当てにならない。算学には泣かされる。
だが愚痴をこぼして両親の耳に入ったら、すぐさま「剣修になりなさい」と言われるだろう。
きょうだいやいとこたちのように、自分にも剣修を目指してほしかったのはわかる。剣は君子の武器、宗主の直系なら剣を手に一門や民を守るものとされているからだ。
藤一門は医薬の面では有名だし、剣に関しては平凡とはいえ修剣大会で五十位に入った者もいる。だが、優れた器修を出したことはなく、大した法器もない。
今の長老は非常に高齢で、ほとんど儀礼的なことしかしていない。大叔父の一人が代理を務め、母の弟で婿入りしてきた安成叔父が翼たち若い弟子を教えている。
数年たって一通りのことを学んだらその先はどうするか、悩むところだがまだ当分先のことだ。今は毎日大変でも充実していて、幸せだと思う。
何よりも雨がいる。こんなふうに過ごせる時間が続くのなら、他に何もいらない。
ところが唐突に終わりが来た。雨に縁談が持ち上がったのだ。




