出会い
ぱし、ぱしぱし…
遠くで枝を弾くような音がしたかと思うと、何かが勢いよく近づいてくる気配がした。
つむじ風かと木の陰にしゃがんで頭をかばう。ざざ、と巨大な鳥のようなものが、まるで最初から雨の姿が見えていたかのように、目の前に降り立った。
見上げるような長身の、見知らぬ男だった。
高いところで二つの眼が刃のような光を放っている。雨は射ぬかれたように尻もちをついた。
身なりは宗主や長老とそう変わらない。髪はまとめて冠を着け、ゆったりとした長衣を羽織り、そして手には剣――
剣に目が行くなり、身体が抑えようもなく震え始めた。凄まじい大剣だ。
その持ち主にふさわしく、鍛え上げられた肉体であることが衣の上からでもわかる。何よりも男の全身から立ち上る圧倒的な「気」が、雨の知る修仙者とは別格の存在であることを悟らせた。
(誰、何でここに…まさか)
男が口を開いた。
「霊力があるな。歳は幾つだ」
おだやかな口調だが、低い声には雨の全身をつらぬくような力があった。
「じゅ、十三歳です」
「十三か。一年足りないが…」男は独り言のようにつぶやくと、いきなり雨の前に膝をついた。
急に距離が近くなって再び腰を抜かした雨に、
「恐れるな、おれは雲晧という。藤家の子か?」
(本物だ)
雨は見開いた目を閉じるのも忘れて呆然とし、それからはっとしてごそごそと跪いた。教わった通り礼をする。
「藤一門、沐雨、剣尊にご挨拶申し上げます」
雲晧は「いらん」と手を振り、懐から木でできた細長い箱のようなものを取り出して蓋を開けた。中にはさらに金属の蓋があり、真ん中に梅の実ほどの大きさの穴が開いている。
「霊力をこの穴に向けてみてくれ。わずかでいい」
穴の奥は暗くて見えない。雨はとまどって相手の顔に目を戻した。
恐ろしさが消えたわけではないが、むしろ端正と言っていい顔だ。彫りが深く、濃い眉も鋭い目も引き締まった口元も剣のようにまっすぐだ。
六十年以上生きているはずだが、すでに不老の境地に達しているのだろう、三十歳ほどに見える。だがその表情は、疲れてどこか病んでいるような感じがした。
「案ずるな、危険はない」
雲晧は雨の沈黙をためらいだと思ったらしく、辛抱強く説明し始めた。
「これは認魂琴といって、人の魂を見分ける法器なのだ。おれは、ある人物の生まれ変わりをさがしている。この穴に霊力を込めると、さがしている相手かどうかがわかるのだ」
(これが、あの)
おずおずと、雨は箱に手をかざした。呼吸を整え、体の中にかすかに感じる波のようなものに意識を集中させ、手のひらへと流れる様子を思い浮かべる。
どれくらい時間が経ったか。
何も起こらなかった。
雲晧は無言で箱をしまうと、立ち上がった。
「面倒をかけたな。ではまた来年会おう」
先ほどと変わらないおだやかな声で言った雲晧の袖口が、擦り切れているのが見えた。衣全体が何となくくたびれて色褪せ、裾にもほころびがあることに雨は気づいた。
(この人は恋人を亡くして――)
唐突に、雨は理解した。自分の目の前にいるのは伝説の登場人物などではない、愛する者を守れずに失ったひとりの男だ。
その苦痛があまりにも大きすぎて受け入れられず、こうして相手の魂を探し求め、見つけられずにいるのだ。十年も各地を巡り、迷惑剣尊と陰口を叩かれ、かつての英雄の尊厳も失った人。
(でもこの人に、ぼくがしてあげられることは何もない)
愕然と見上げる雨を後に、雲晧は跳躍すると木々の上を飛ぶように駆け去った。
ようやく立てるようになってよろよろと屋敷に戻ると、陳婆やに藤翼は見つからなかったとを伝えた。文句を言われるかと思ったが、ひどく疲れた顔をしていたのだろう、「心配いらないからひと眠りしなさい」と言われた。
寝ころんだとたん気を失うように眠って、目を覚ますともう日が暮れていた。
起き上がってぼんやりしていると、翼がやって来た。
椀を載せた盆を持っている。さすがに気がとがめるのだろう、小さな声で「具合どう?」と尋ねるのに対して「疲れただけだよ」と答えると、少しほっとした様子で盆を置いた。
「今日は石ころ餅しかないけど、豆乳で煮てあるから。冷めないうちに食べてよ」
それから翼が語ったところによると、案の定町へ行っていたという。雨が戻る少し前に帰って来たらしい。こっそり部屋に入ろうとしたところを夏葵に見つかり、ひとしきり怒られた後で雨が山へ自分を探しに行ったことを知らされたという。
「悪かったよ、おれのせいで。夏葵に行かされたんだろ?」
文句を言う気力もない雨に、翼は懐から包みを取り出して見せた。
「これ、今日売り出すって聞いてたから、買いに行ったんだよ」
渡されたのは一冊の本だった。『堅澄伝 第四巻』と書かれた表紙を見て、雨は思わず声を上げた。
「新巻出てたの⁉」
垂花鎮に一軒だけある書店は、屋敷の若者たちに大人気の雑本を豊富に取り揃えている。
仙門だからしかたがないとはいえ、娯楽のほとんどない山あいに、遊びたいさかりの子どもや若者が百人余りも暮らしているのだ。
いくら長老や師匠たちが「下世話で品がない」「古の聖人の書を読め」と言っても、華やかな恋愛小説や剣豪の活躍を描いた武侠小説、巷の噂や変わった事件を集めた実録本、都で流行している芝居や衣装、料理の目録本などが次から次へと屋敷に持ち込まれ、回し読みされていた。
雨は長編小説が好きだった。読んでいる間は小説の世界にいる気分になれるし、長ければ長いほどその世界に浸っていられるからだ。
はじめは翼が持って来る本を借りて読んでいた。主屋には翼のきょうだいやいとこ、夏葵のような若い小間使いが読み終えた本がたくさんあったらしい。
だがそのうち特に好きな小説は、わずかな小遣いを貯めて続巻を買うようになった。本は高価だからめったに買えないが、どうしても自分だけのものが欲しかった。
『堅澄伝』はそんな小説のひとつで、三巻まで読んで続きが出るのを待ち焦がれていたのだ。
翼は雨の気を引けたので、うれしそうに説明し始めた。
「書店の息子の楊知、知ってるだろ?新巻が入荷したら知らせてくれって頼んでおいたら、昨日伝言が届いたんだけど、町に行けるのはまだ先だからさ」
「……見つかったら罰棒なんだぞ」
雨はさすがに心を打たれた。自分が好きな本を早く読めるように、ただそれだけのためにそこまでしてくれたのだ。
「雨、本当にごめん」翼がまた、申し訳なさそうな顔になる。翼は目尻はきゅっと上がっているのに、眉はハの字、先がつんと上を向いた小さな鼻にそばかすが散って、独特の愛嬌のある顔立ちだ。それがしゅんとしていると、何ともいえない哀れさがただよって、怒る気も失せてしまう。
「ううん、すごくうれしいよ。ありがとう」礼を言うと、翼はぱあっと微笑んだ。
「さあ食べて、蜂蜜も入れてあるんだ。そのうち婆やがお湯を持ってきてくれるから、体を拭いて休みなよ」
石ころ餅の豆乳粥はほんのり甘くておいしかった。蜜なんて貴重なものを入れたら反則だろうと思いながらも、翼の心遣いがありがたかった。
「迷惑をかけたからいらない」という翼の手に押しつけるようにして本代を持たせて帰した後、汗と汚れを落としてさっぱりすると、雨は本を手に布団に入った。
『堅澄伝』は、没落した名家の青年裵澄が、逆境にあっても清らかな心を失わず知恵と努力で運命を切り開き、やがて将軍の高堅と出会って、共に苦難を乗り越えるうちに愛し合うようになるというものだ。
そう、雨が好きなのは、男性同士の恋愛物なのだ。特に思青文庫という版元が出している、健気で美しい青年と精悍な美丈夫が結ばれる物語が好みだった。
どうして自分はこういう話が好きなのだろう。
もしかしたら自分も主人公のように、心惹かれる同性と出会って結ばれたいと思っているのかもしれない。
そんな思いを見透かされそうで、本を買うときはいつもどきどきした。
一度、書店で本を買ったときにうっかり夏葵に見られてしまい、何を言われるかと恐ろしさのあまり消えてしまいたくなったことがある。
だが彼女は「雨ぼっちゃん、話がわかるじゃないですか!やっぱり思青ですよね」とやたらうれしそうで、それからは新しい本を手に入れるたびに貸してくれるようになった。
給金をもらう彼女は、雨よりも懐が温かいらしい。
翼も「こういうの人気があるんだってね」と気にもとめない様子だ。もっとも翼自身は物語より、現実にあるものを絵入りで説明した図鑑の類が好きだという。
いつもならすぐ読み始めるところだが、昼間会った雲晧のことが思い出されて、雨は眠りに落ちるまで物思いにふけった。
雲晧は今ごろどうしているだろう。少しは休んでいるだろうか。
明日は別の仙門を訪れるのだろうか。そのときは、あの色褪せた衣は着替えるだろうか。




