沐雨
ひゅーるるる、ひゅっひゅっ。
初夏の山に、のどかな調べが響きわたる。
ここは紫鈴山。仙家の藤家一門の屋敷、紫霞山荘の東側にある小さな山だ。この季節、山藤の可憐な花房がそこかしこに垂れ下がり、山全体が愛らしく飾りつけられたようになっている。
ひゅっ、ひゅっ、るるる......
この辺りではよく聞く鳥の声そっくりだが、実は笛の音だ。
吹いているのは十三歳になったばかりの沐雨、頬にはまだやわらかさが残っている。さっきから二つ年下のまたいとこの藤翼を探していて、笛は翼が決めた二人の秘密の合図なのだ。
(ああもう、どこ行ったんだよ、翼のやつ)
今日は二人の住む紫霞山荘に重要な来客があり、宗主・長老をはじめ一門の大人たちが総出で応対している。子どもたちは自室のある棟から出てはいけないことになっていた。
雨も師匠に命じられた通り、部屋で学問と体術のおさらいを済ませ、呼吸法に取りかかったところだった。
呼吸法は修行の基礎となるものだから、日々の練習は欠かせない。
修仙者は外界の「気」を吸収して体の中に貯め、自分の霊力として使う。そのためには気の存在や動きを感じ取れなくてはならない。
だからまず、呼吸を整えることで気を感じる訓練をするのだ。
静かに座って息を整え、自分の体の内と外を巡る気の流れに意識を集中していると、体の奥がじんわり温かくなってかすかな波のようなものを感じる。それが霊力だというが、あまりにも微弱で雨にはよくわからない。
だが同い年の仲間にはもう、霊力で灯火を揺らせる者もいる。
今日はすぐに中断する羽目になった。
翼の小間使いの夏葵が主人がいないことに気づき、西奥の小棟にある雨の部屋まで探しに来たのだ。というのも、翼の一番の仲良しは雨だと思われているからだ。
去年の秋、きのこを採りにこの山に入って、何があったのか両足とも挫いた翼を見つけ、背負って帰った。それ以来なつかれているのだ。
講堂や修練場で雨を見つけると駆け寄って来るし、菓子や流行りの雑本を持って部屋に遊びに来ることもある。
雨は屋敷では微妙な立場で、他に親しくなろうとする者はいないから、友達は翼だけだ。
主人が雨のところにもいないと知ると、夏葵は「きっと今日も紫鈴山に遊びに行ったんですよ!雨ぼっちゃん、連れ戻してくださいよ」と言い出した。
彼女のおしゃべり仲間で、この小棟を管理する陳婆やもやって来て加勢する。
「翼様が行きそうなところ、わかるでしょう?しょっちゅう一緒にいるんだから」
「お客様が帰ったら、二の若奥様が翼様の様子を見に来るかも...いないのがばれたら、わたしまで罰を受けるんですよ!」
二の若奥様というのは宗主の次男の妻である翼の母親のことで、怒ると相当怖いらしい。
(何でぼくに言うんだよ、世話係はあんただろうが。面倒だからって押しつけて)
いつものように内心で毒づくが、口には出せない。微妙な立場だからだ。
宗主の早逝した弟夫妻のひとり息子が、出来心で下働きの娘に手をつけて生まれたのが雨だ。
娘が身ごもったと知ると、宗主は甥には激怒しながらも、娘には部屋を与えて不自由のないようにしてやった。そして雨が生まれると、姓は母方の沐を名乗らせるものの、藤家で養い教育すると決めたのだ。
これは異例の計らいだった。こんな場合、たいてい女は手切れ金とともに実家へ送り返されて出産し、子はその家の籍に入る。雨の母に身寄りがいなかったせいもあるだろうが、甥への戒めだったかもしれない。
ところが雨が三つのときに母親が病気で亡くなると、はなから息子に興味のない父は、藤家が遠方に所有する土地を管理するという名目で出て行ってしまった。というのも父は、もとから屋敷で居心地が悪かったらしい。
仙門は世間一般にくらべると出自より実力を重んじるから、優秀な者は身分が低くても認められる。逆に能力がなければ、むしろ宗主に近い生まれであるほど、周囲の期待が大きい分肩身が狭い。
父は後者だったようで、ちなみにその子の雨も何をやっても平凡だ。
やむなく家令の一人が養育係を命じられ、自分で身の回りのことができるようになるまでは、使用人の女たちが代わるがわる世話をしてくれた。
今も雨は母に与えられた部屋で暮らし、一門の子どもたちとともに修行や学問をしている。一応「ぼっちゃん」と呼ばれてはいるものの、自分のことは自分でするし、夏葵や陳婆やに至っては用事を押しつけてくることすらある。
だが彼女らの機嫌を損ねるのはまずい。
自分のように中途半端な立場の者が「生意気だ」などと思われたら、どんな嫌がらせをされるかわからない。
以前翼の住む主屋の近くへ行ったとき、知らない小間使いたちが「下女の子」とささやき合うのが聞こえた。夏葵は気さくに接してくるが、小間使いは皆藤家と縁のあるそれなりの家の娘ばかりだ。自分を見下したくもなるのだろう。
だから雨はいつも誰とも揉めないように気を遣っている。宗主の孫の翼とは立場が違うのだ。




