『第六章』
山間の秩父は、五月の陽ざしに包まれていた。
新緑はまだ若々しく、ひとつひとつの葉が光を受けて透き通るように揺れている。
山肌には萌黄色と深緑がまだらに重なり合い、その緩やかな濃淡が、遠くの稜線まで続いていた。
「涼しいわ~」
助手席の窓をあけて風に髪を揺らした彼女が、気持ちよさげに呟いた。
澄んだ風が吹いている。
平日の午後、市街地をゆっくりと車で走っていた。
「素敵な場所ね」
「そうかな?なんにもない場所だよ」
思わず言い訳するような口調になる。
「そうかしら?羊ちゃん達可愛かったわよ」
僕は先ほど、羊山でみた動物達を思い浮かべた。
めぇめぇと鳴いて、呑気に草を食べている姿を見ていると、日ごろのストレスがいくらか軽減される気がした。
信号が赤になったのでスピードを緩める。
「ねぇ、ここはなに?」
停車している時に、外を眺めていた彼女が左の建物を指さした。
「あー、たつみやだよ」
「たつみや?」
「おもちゃ屋。古いおもちゃが積まれてる狭い店だよ」
「へーなんだか素敵な佇まいね。ねぇ、ちょっと寄ってみましょうよ」
彼女の提案で近くに駐車し、久しぶりに入店してみることにした。
店内は人が一人通れる通路が円を描いている。
両側には様々なおもちゃが高く積まれてあった。
今も変わらない店内に一人で小さく笑ってしまう。
彼女は、興味深そうに高く積まれたおもちゃ達を見つめながら、ぐるりと一周した。
今度は車を川の方へ向けた。
緑が濃くなっていくたびに、窓から入る風の匂いも少しずつ変わっていく。
久方ぶりに嗅いだ土と葉と木の匂い。
どれをとっても懐かしく思えた。
彼女は変わらず、窓から顔を出し見慣れない山の形を物珍しそうに見ている。
「全部絵の通りなんだね」
「まぁね」
小さく笑って、応える。
この街を描いた絵が小さな展示室に飾られた。
それはまだ半年前のことだ。
美術館に併設しているカフェの店員が、今隣にいる彼女だった。あまつさえ、彼女は僕の絵を非常に気に入ってくれているみだいだ。
よき理解者だ。
緩やかなカーブを描く山道を、車はゆらゆら揺れながら登っていく。
ガラス越しに見える木々は、まるで誰かの手で一度描かれ、そして消しかけたスケッチのように曖昧だった。
何も言わずに風景を見ていた彼女が、指先で髪を束ね直しながら深呼吸をした。
この街の空気に慣れようとしているのだろう。
しばらく車を走らせたあと、舗装されていない駐車場に車を停めて、今度は歩いて山を登った。
左側は川が流れており、太陽光で乱反射している。右側は林になっており、一本一本の木々が二酸化炭素を吸い込み酸素を吐き出していた。
「ほんとうに空気がきれい~。東京とは大違いね」
「そうだね」
本当にそう思う。
春の山間に残る湿った匂いが妙に心地よかった。
十分ほど歩を進めていると、お目当てのものが顔をだした。
「わー。滝!」
「やっとだ」
崖の緑から水の束が、ごうごうと音を立てて滑り落ちている。
「気持ちいいわ」
彼女は大きな伸びをして大自然を全身で感じている。
僕はバレないように、彼女から少し離れて、ポケットに手を入れて小瓶を取り出した。
その場にしゃがみ込み、川の流れをぼんやり見つめながら、手の中の瓶をぎゅっと握りしめた。
躊躇っていると、何も知らずに深呼吸していた彼女が、気が済んだような口調で、「いこう」と言った。
僕はそれをしまい、歩き出している彼女の後を追った。
来た道を引き返して、道がアスファルトになったところで一つの看板が目に入った。
「なんか休憩処みたいね」
彼女が言った。
「寄ってみる?」
頷いて、近づいてみると、それは小さな一軒屋を少し改装しているアイスクリーム屋さんだった。
玄関脇に手書きのメニューが貼ってある。
「メロンソーダとかサイダーとか飲み物もあるんだね」
「ゆうはアイス食べる?」
「いや、僕はメロンソーダにするよ」
「おっけい」
窓が受付になっており、「すみません」と声をかけると、中から「はーい」と返答があり、すぐにおばちゃんが出てきた。
「いらっしゃい」
「抹茶アイスとメロンソーダをください」
「まいどー。ありがとうね。どうぞかけてお待ちください」
家の前が小さなテラスになっており、椅子と丸テーブルが二組置かれていた。
僕らは向かい合って座り、自然が奏でる音楽に耳をそばだてる。
遠くの方から滝の音が聞こえてきた。
「お待ちど~」
待っていると、窓から声がした。
僕は立ち上がって、飲み物とアイスを受け取る。
「ゆっくりしていきな~」
「ありがとうございます」
頭を下げると、おばちゃんは中へ消えていった。
僕らはしばらく山の澄んだ空気の中で休憩をした。
僕は遠くを見つめて、小鳥のさえずりに耳を傾けながら、心の中で語りかけた。
暑中見舞い申し上げます。
この言葉が、どこかの空を通って君に届いたらいいのに。
こちらは、まだ暑くないですが。
風がやわらかくて、空がやけに高い日です。
少しだけ汗ばむような陽気の中で、ふと君のことを思い出しました。
今年も桜が咲いていたよ。
風に揺れて、笑っているみたいだった。
命を灯らせて生きていた誰かのように。
君は、誰よりも静かに、そして誠実に生きていた。
傷ついても、人に優しくすることを選べる人だった。
それは決して簡単なことじゃない。
君がいなくなってから景色の見え方が少し変わった気がします。
どんなに穏やかな日でも、そこには君の不在がある。
でも、同時に君が残してくれたものも確かに、今、ここにあります。
君のように、誰かのためにまっすぐ生きてみたい。
まだ遠いけれど、そう思えるようになったのは君のおかげです。
ありがとう。
最近、君に言われたことがわかったような気がするよ。
何もかもわからなかったけれど、僕はあの時、笑うことから始めることにした。
手紙に書いていたろ?笑っていてほしいって。
最初はどういう意味かわからなかった。
でも、その笑うって笑顔なんだって最近わかったんだ。
君が言っていた笑っていてほしいっていうのは、つまり笑顔でいてほしいってことなんだろ?
笑顔から全てが始まるって伝えたかったんだろう?
いつかの君がそうだったように。
あっ。そうそう。言い忘れてた。出会いの話なんだけど、僕も最近こう思うことにした。
いいかい?
僕は地元である秩父が好きじゃないって話をしたよね。
でも、君はここが好きで死んだら秩父の星になりたいって言ってたろ?
だから好きになった。
わからない?
秩父の夜空を見上げたら君がいるかもしれないって思えるようになったんだ。
他の場所の夜空とは違って秩父の夜空に意味が付いたんだ。
素敵じゃないかって?僕もそう思う。
ほんとうにありがとう。
感謝してもしきれないけれど。
どうかその場所で、やわらかな風に吹かれながら笑っていてください。
向かいで彼女が美味しそうにアイスを食べていた。
僕は「ちょっとだけ」と言い残して、そっと立ち上がる。
気がつけば、もう一度、滝の方へ走り出していた。
不思議なほど足が軽かった。
滝の音がだんだん大きくなっていく。
ごうごう。
絶え間なく水を流し続ける滝を見ていると、どこか時の流れに似ているなと思った。
水は、ただ上から下へと流れ落ち、決して逆らうことはない。
手を伸ばしても、その一滴を食いとどめることはできず、指の間から零れ落ちていく。
そして目の前にある水も次の瞬間には、もう別の水に入れ替わっていて、同じ姿を二度と見ることはできない。
靴を脱いで浅瀬に足を浸す。滝に背を向けて川が流れる方向を向いた。
水はまだ冷たく、初夏の光がひるがえるたび、過去の景色が胸にふわりと浮かび上がった。
滝は、心なしか先ほどよりもやわらかい音を立てて水を流していた。
まるで、誰かの眠りを見守るように。
風が吹いた。
一旦、呼吸を整えてから、僕はポケットをまさぐって再び小さなガラスの瓶を取り出した。
蓋の中には、薄紅色の花びらと、乾いた光を帯びた古い空気が、まだそこに生きていた。
「今が大事なんだよな」
声に出して言ってみた。
つづけて。
「でも、忘れないよ」
それは何かを終わらせる儀式じゃなくて、心の中に何かを灯す行為だと思い込んだ。
後悔しないだろうか。
そんな懸念が頭をもたげた。
また風が吹いた。
海じゃなくて、君が好きな秩父の川の方がいいと思って。
あとで怒らないでくれよ。
僕は何かを決心するかのように、大きく息を吸って、ゆっくりと吐きながら頷いた。
しゃがみ込んで、小瓶を水面の上にのせる。
だけど僕は、中々、手を離せなかった。
すると、そのとき。
大丈夫だよ。
月歌の声が耳元で聞こえた。
「え?」
驚いて振り返る。
しかし、そこには滝があるだけで誰の気配も姿もなかった。
僕は笑って、ありがとう。さようならと心の中で呟き、そっと手を離して瓶を流した。
こちらこそ、ありがとう。元気でね。
彼女が心の中でそういってくれた気がした。
瓶は緩やかに、そして二枚の花びらは仲良く、川を流れていった。
滝の音が少しだけ強くなった。
もう一度、彼女が待っている、ベンチの方へ足を向ける。
そして、一歩、また一歩と確実に歩いていく。
僕はもう、振り返らなかった。