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『第一章』

 朝が来るたびに吐き気がした。

 「あと何日生きるんだろう」

 そう思うのが癖になっていた。

 生きることが正しい。

 そういう固定概念のもと生きてきた。

 死ぬことは間違いで、寿命が尽きるまで生きる。それまで厳しいことに耐え、やりたくもない勉強をして、まともに働いて、結婚をして・・・

 それが正解だって教わってきた。

 もともと僕は、生きることに対して前向きでも後ろ向きでもなかった。

だから、そんな固定概念に疑問を抱くこともなかった。何となく年老いて、一定の年齢を超えたら年金暮らしをし、八十手前でひっそり死んでいくもんだと思っていた。

 脚光など浴びず、劇的な何かが起こるわけでもなく、ただ平凡な人生を送っていく、そう思っていた。

 決して悪いことじゃない。

 しかし、時が流れるにつれて僕の中で生きていくことがだんだんと後ろ向きになっていった。それは空気が入っていく風船みたいに肥大していき、やがて消化できなくなっていた。

 十七年生きて気づいた。人生の無意味さ、そして今を生きることの面倒くささに。

そして、未来への不安が僕を学校の屋上に動かした。

 その風船は死にたいという明確な感情に変化していったのだ。

 授業なんて誰かの正解をなぞるだけの時間にすぎない。

 家も、学校も、友達も、ぜんぶ演技の場所だった。

 本音なんか吐いたら壊れるって知っていた。

でも本音を抱えたままじゃ、もう生きていけない。

 歳をとることにもなんの魅力も感じない。

 これからどんどん朽ちていくだけ。薄毛になり、太っていき、加齢臭を放っていく。

 骨や歯も弱っていき、色んな病気に罹るリスクも高まる。

 その事実に歳を重ねるごとに気づかされていくのが、この世でもっともやさしくて、最も残酷な仕組みなのかもしれない。

 僕は耐えられなくなった。

 だから、今日、死ぬことにした。

 屋上に繋がる階段を一段一段、丁寧に上っていく。

僕は何も考えなかった。考えることすら面倒だ。

やがて屋上のドアの前にたどり着いた。

 鍵がかかっていたらどうしようとは思わなかった。もしかしたら、風船が脳まで支配していて思考を停止させていたのかもしれない。

 ドアは簡単に開いた。キィ―という鼓膜を叩く嫌な音を立てて。

 外は僕の心に反して快晴だった。

 春の心地よい風に小鳥のさえずりが吹かれていた。

 いや、訂正する。僕の心に反した空じゃない。つまらない人生を終わらせられるのだ。そう思えば僕の心によくそぐっている。

 人生は苦悩の連続だ。

 逆にいえば、自殺は別にネガティブな行動じゃない。

 こんなことを思う僕は間違っているのだろうか。

 そんなことをよく思う。

 正解なんてない。だから僕の価値観も大人たちの価値観もきっと正しい。

 人間、いや生物は皆、死と向き合う時期が必ず訪れる。

 僕は、今がその時なのだ。

 数十メートルほど歩き、屋上の柵に触れた。柵は胸のあたりできちんと整列し、高校生の身体能力では、ゆうに飛び越えられる位置にあった。

 別にいじめられているわけでも、体が不自由なわけでもない。

 ただ、生きる意味や生きる楽しさを見い出せないだけ。

 「そんなことで死ぬな!」と誰かの怒声が聞こえてきそうだが、じゃ死んでもいい理由ってなんだ?

 満場一致で死んでもいいと言える理由なんてあるのだろうか? 

 いいや。ない。

 だから、どんな理由だろうと死んでもいい。

 そう思えることで僕はいつも楽になれた。

 見下ろせば、ひとつの終わりがずいぶん遠慮がちにこちらを見上げていた。

 足元に風が集まっている。まるで重力が僕を口説いているようだった。

 死ぬのは怖い、でも生きることはもっと怖い。

 どちらにも勇気が要るのなら、一体どっちを選べばいいんだろう。

 生きることはなんて不条理なんだ。

 僕は、笑うことも悲しむこともなく、ただロボットのように僕を現世に引きとめているものを飛び越えようとした。

 柵に足を引っかけたその時、僕の鼓膜に何かが飛んできた。

 それは、誰かの声だった。

 「ちょっと!なにしてんの!」

 驚き振り返る。

 そこには、クラスメイトである花咲月歌(はなさきつきか)が大きく肩を揺らして立っていた。

 「な、なに?」

 動揺を隠せなかった。

 死のうとしてることがバレていないことを期待した。

 バレていたら色々面倒くさそうだ。

 「なに、じゃないよ!今、死のうとしてたでしょ!」

 僕の期待はあっけなく霧散(むさん)した。

 僕はあまりの驚きで、固まってしまった。

 まさか、こんなところで金縛りになるとは。

 「はやく、柵から離れて」

 彼女がつづけて言った。

 しばらく彼女の指示をシカトしていたら、彼女はスタスタと近づき、僕の手を引いて屋上の真ん中まで移動させた。

 向き合って黙って彼女をみる。

 彼女は意外にも柔らかい表情をしていた。

 今になって、なぜ彼女が屋上にいるんだろうという疑問が頭をもたげた。

 口に出そうと思ったけれど、彼女の声によって阻止された。

 「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」

 さっきの威勢はなくなり、彼女は少し照れたように上目遣いで言った。

 どう答えていいかわからなかったが、言葉を発さずにただ頷いた。

 なぜ頷いたかは自分でもわからない。

 彼女の言葉に納得したから?それは違う。

 彼女の瞳がまっすぐだったから?それも違う。

 本当にただ何となく。

 「・・・・じゃ、もういい?」

 沈黙が続いたので会話が終わったとみなした僕は、彼女にそう告げて彼女の返事を待たずにドアの方へ歩き出した。

 「ちょ、ちょ、ちょっと待って!水瀬くんがこのまま死なないか、私監視する!」

 彼女の思い付きのような言い方に歩みを止めて応える。

 自殺を止められて少し苛立っていたのかもしれない。

 「もう死なないから。余計なお世話だよ」

 「いいや!信じられない!」

 高らかに発せられた彼女の言葉。

 それは春の空に吸い込まれていった。

 「とりあえずさ、屋上から出よ。先生に見つかったら始末が悪いし」

 僕は君に見つかって始末が悪いな、と思った。

 もちろん思っただけで口には出さない。

 彼女に促されて屋上を出て、階段を下る。下駄箱に着き、並んで上履きから靴に履き替える。彼女は器用に靴紐を縛り、立ち上がって先を歩く僕に並んだ。

 「さーて、これからどうしよっか~」

 「・・・・」

 「んー。ゲーセンに行くのもいいし、映画見るのもいいしね~」

 「・・・・」

 「ちょっと!聞いてるの?」

 面倒くさい。

 「ああ。ごめん、無視するところだった」

 「百二十パーセント無視してるよ!」

 「それ何パーセント中?」

 「あっ!パフェリゾートに行きたい!」

 「どうぞ、ご自由に」

 「何言ってんのよ!水瀬(みなせ)くんも行くんだよ!」

 「僕は帰るよ」

 「ふむふむ、いいのかい?私を野放しにしちゃって」

 隣をみる。嫌らしい笑みを浮かべた顔があった。

 彼女はクラスで人気者。

つまり、自殺していることが言いふらさせたら、それこそ本当に始末が悪い。

 こういう時は変に逆流しない方がいい。

 「はー。わかったよ」

 彼女は「じゃ、決まり!」とガッツポーズをした。

 僕は仕方なく、彼女の歩幅に合わせて歩くことにした。

 空は、ラムネ色からオレンジ色に顔を変えつつあった。

 制服姿で異性と歩くのは実に初めての体験で、僕の顔もややオレンジ色に変化していたのかもしれない。

 今日の空はいつになく僕にそぐっているなと思った。


 店内に入り店員さんに「何名様ですか?」と訊かれ二名席に通された。店内は空いており、かかっているBGMがよく聞こえた。席に着くなり、店員さんが水を持ってきてくれたタイミングで彼女は、パフェタワーを注文したので僕は透かさず、彼女の注文に水を差した。

 「ちょっと、パフェタワー?そんなに食べられないし、そんなお金持ってないよ」

 「お金は私が払うよ。大丈夫!二人で食べれば完食できるよ!」

 間髪入れず、店員さんが確認のために注文を復唱した。

 「では、パフェタワーお一つでよろしいですか?」

 「お願いします!」

 彼女はニコニコと店員さんを見送った。

 反対に僕は、冷たい視線を送る。

 「どうしたの?怖い顔して」

 彼女は店員さんを見送ったニコニコのまま、水を一口飲んだ。

 「そうか、僕への心配は建前で、ようはパフェタワーが食べたくて、僕を無理やり連れてきたわけね」

 無理やり、の部分を強調して嫌味っぽく言った。

 「人聞き悪い言い方しないでよ!水瀬くんも甘いもの食べたら死にたくなくなるよ」

 「僕への心配が建前ってことは否定しないんだね」

 「心配してほしかった?でも、本当に心配してるよ~!」

 「本当に思っているなら、なんで吐き捨てるように言うんだよ」

 彼女はへらっと笑った。

 「水瀬くん、一人っ子っぽいよね。兄弟は?」

 「一人っ子に見えることがプラスなのかマイナスなのかわからないけど、兄弟はいるよ」

 「上?下?」

 「上も下も」

 「え!真ん中! 言われてみれば真ん中っぽい気がする」

 「嘘つきは泥棒の始まりだよ」

 「へーいいなぁ兄弟。私もお兄ちゃんほしかったなぁ」

 「君は一人っ子なんだ。そのわがままからよく見てとれるね」

 彼女が僕をねめつける。

 僕は口角だけ上げた。

 そんな話をしていると店員さんが大きなパフェを持って現れた。

 「お待たせしました~、パフェタワーでございまーす」

 パフェが僕らの目の前に置かれる。

 店員さんは、スプーンとフォークが二セット入った細長い入れ物をテーブルの端に置き、伝票と笑顔を残し去っていった。

 僕は、その巨大な甘味に圧倒された。

ガラスの器にこれでもかと盛られたアイスとフルーツとホイップ。甘いものが得意ではないのでその量に少々食欲を失う。

彼女はスプーンを手に取ると、「ね、生きているうちにしか食べられないでしょ?こういうの」と言ってクリームを頬張った。

映画の主人公が言えば、意味深に聞こえるセリフだが、彼女が言うのだからただの戯言だ。

「くー。あまくておいしい~!」

彼女はクリームの美味しさにうっとりしている。

「ほら!水瀬くんも食べなよ~」

僕がふたたび金縛りにあっているのを見かねて、彼女はスプーンを差しだしてくれた。

しぶしぶ受け取り、一口だけすくった。

溶けかけのバニラの甘さが、ほんの少し胸をあたためた。

「アイスってなんか今しか食べられない感じするよね」

「今?」

「うん。すぐ溶けるし。あったかい部屋だとあっという間」

「だからなんなの?」

彼女の言おうとしていることがよくわからない。

「だから好きなの」

 そう言って彼女はちょっとだけさくらんぼを見上げた。

 「私さ、こういうの食べたことないんだよね。途中でいつもお腹いっぱいになるのがオチじゃん?それでも何か頼みたくなるんだよね」

 「無駄じゃない?」

 「うん、無駄だよ!でも、なんか好きなの。意味のないことって」

 テーブル越しに笑うその顔は、どこまでも明るくて、どこまでも遠く見えた。

 そこで思った。

僕と彼女とでは、まるで違う世界を生きている。

 彼女の価値観を少し羨ましく思った。

 ひと口目の甘さがまだ舌の奥に残っていて、僕の中の何かをほんの少しだけ軽くした気がした。

 気がしただけだ。

 パフェを半分ほど減らしたところで彼女が話題を変えた。

 「水瀬くんは趣味とかあるの?」

 「強いていえば、絵を描くことかな」

 「え!意外。どんな絵を描くの?」

 彼女は興味津々と言った様子でさらに尋ねてきた。

 「アクリル絵の具で描くことが多いかな」

 「へー。アクリルなんだ。風景画?」

 「うん。風景が多いかな」

 「えー!人物は書かないの?」

 「描く人がいないからね」

 なにか反応するのかと思ったが、彼女はそのまま一口生クリームを食べた。目を細め、生クリームの一口に美味しさを表す。

 じっくり味わい飲み込んだところで再び口を開いた。

 「じゃさ!私を描いてよ!」

 「私を描く?」

 「そう!風景と私」

 「つまりモデルをやりたいってこと?」

 「うーん、モデルというか・・・水瀬くんの絵の登場人物になりたい!」

 これまた、思い付きのような発言。

 言われて、今度こそ唾棄(だき)してやろうかと思ったけれど躊躇った。

 絵は好きだ。

 いい練習になるかもしれない。

 いやでも、待て。僕には死ぬという予定があるじゃないか。

 押し黙っていると、暗黙を了承と捉えたのか彼女は喜んだ。

 「おー!いいのね!じゃ決まり!!改めてよろしくね!水瀬くん!」

 勝手に話が出来上がり一人で盛り上がる彼女。

 「は、はぁ」

 そんな間抜けな返事に彼女はまた笑った。クラスでもそう、彼女はいつも笑っている。どうしてそんな弾けた笑顔ができるのだろう。こんなつまらない世の中で。

 僕にはさっぱりわからなかった。

 生きることがそんなに素晴らしいのか。

 僕は何も言えなかった。

 喉の奥が詰まって、ただ彼女の笑顔を見ていた。

 まるで、自分とは別の惑星の住人を見ているようだった。

 たぶん、彼女の中では生きるということはシンプルで軽くて、まっすぐなものなのかもしれない。

 でも僕は、そんなふうに世界を見る気をなくしてしまった。

 悲しいことだ。

 「もう、むりー!」

 彼女はスプーンをそっとグラスの縁に立てかけた。

 パフェの底に、ほんの少しだけ溶けかけたアイスと、飴色になったゼリーが残っている。

 「完食できるんじゃなかったの?うーくるしい」

 僕は口の中に残った甘さを冷たい水でやり過ごす。

 「でも、むしろよくここまで食べたよ」

 「やっぱり、生クリームの壁は厚かった。世の中甘くないねー!」

 「パフェだけにね」

 僕の言葉に彼女はお腹を押さえ、くったりと肩を落としながら、うはははと豪快に笑った。

 少し休憩をはさみ、どちらからともなく立ち上がり、彼女は伝票を持ちレジに向かった。

先にお店を出ると外にはお日様の姿はなく、黒いくれよんで塗りつぶしたような空が張り付いていた。

 ほどなく、彼女がお店から出てくる。

 「帰ろっか」

 ふたり並んで歩いてきた道を戻る。

彼女は時折、小さく鼻歌を口ずさみながら歩いていた。

少し肌寒い四月の風が頬を撫でる。

僕らの地元は盆地で、夏は暑いし冬は寒い。

まったくいやになる。

 すると隣を歩いていた彼女が突然スキップをし、僕より数歩先を進んで振り返った。

 なにかと思って僕は首を傾げる。

 「私、ここが好き。秩父っていいところじゃない?」

 後ろに手を組んで共感を求めてきた。

 「そうかなぁ、僕は好きじゃないな。夏は暑いし。冬は寒いし」

 「えーいいところじゃん。空気はきれいだし、水は美味しいし、星もきれいだし、人もいいし!私はここに生まれたことを誇りに思う!」

 小ぶりな胸を張り、両腰に手を置いて仁王立ちをする彼女。

 彼女はつづけた。

 「私、この前東京に行ったんだけど空気が汚くて、早く帰りたいっ!て思ったもん!」

 それは敏感すぎないか?と思ったが、嗅覚は人それぞれなので黙っておいた。彼女は言い負かしたような顔をする。

 その後、僕と彼女とで地元のいいところと悪いところを言い合った。

 秩父は春夏秋冬、いつでも自然を楽しめると彼女は言った。

 僕は、夏は暑いし、冬が寒いことのデメリットを説いた。

 やがて話は逸れていき、好きなものと嫌いなものの話に移った。

 「それなら君はなにが嫌いなの?」

 「私?んーつき!」

 「つき?つきってあの空に浮かんでる?」

 「そう!」

 「そっちの方が珍しいよ。名前に月が入っているのに」

 「そうなんだよね。好きになりたいんだけど」

僕達は高校生の男女として節度な距離を保って歩いていた。けれど、彼女からはリンスなのか洗剤なのかソフトでほのかにグレープフルーツの香りが漂ってきた。こういう匂いを自然と纏えるからこそ星を愛し、水を愛し、地元を愛せるのだろうか。

月が嫌いなのはよくわからないけれど。

そんなことをとりとめもなく考えていると学校に着いた。

 「じゃ、ここで!今日は付き合ってくれてありがとう」

 彼女はぺこりと頭を下げる。

 ショートカットの髪の毛が目の前で揺れる。

 「絵の話、ちゃんと覚えておいてね!」

 「あ、ああ」

 「こらー!もう忘れてる」

 「いや、ごめん」

 「じゃ、またね!私が死ねまで死なないでね!」

 前代未聞の捨て台詞を吐いて、くるりと身を翻し遠ざかっていった。

 彼女の頭上には無数の星が、彼女の鼻歌に合わせるように光っている。

 あんな彼女だから、不思議と秩父の星空が似合っていた。

 どうしてだろう、胸に肥大していた風船が少し小さくなっているような気がした。

 人間は意外と単純なんだなと思った。

 そんなことをぼんやり思っていると、いつの間にか彼女の姿が見えなくなっていた。

 それはまるで灯りが消えるようだった。


 放課後の公園は人の気配がまばらで風の音と鳥の声と、そして僕の鉛筆の走る音だけがあった。

 桜の木の下。

 スケッチブックの上に花びらがひとつ音もなく落ちてきた。

 僕はそれをそっと手で払いのける。

 秩父は好きじゃないが絵にする場所はたくさんあると思う。だから場所選びで困ることはない。

 一人の時間を満喫していると、それは突然壊された。

 「わあ」

 静寂な空間で素っ頓狂な声が聞こえた。

 振り返ると、昨日パフェを食べにいった彼女が頭悪そうな顔をして立っていた。

 校章のついた制服のまま、リュックを片方だけ肩にかけて。

 「なにこれ、めっちゃうまいじゃん」

 僕は咄嗟にスケッチブックを胴体で隠す。

 「な、なんでここに?」

 「私、この時期になるとよくここに来るの。ほら、こんなに桜が綺麗。もうこれは満開かな?」

 彼女は忌憚(きたん)なく僕の隣に座って、改めてスケッチブックを覗きこんできた。

 桜と、ブランコと、ぼんやりとした空・・・

 「すごい!風、ちゃんと描けてる。風を絵にするってむずかしいのに」

 「そうかな?感じてるだけだよ」

 「それがすごいんだって」

彼女はニコニコしながら頭に花びらをのせている。

 「ひとりが好きなの?」今度は風に目を細めながら尋ねてきた。

 「なんで?」

 「え、だって水瀬くん、教室でもいつも一人でいない?」

 「ま、まぁ・・・」

 まさか彼女がそんなことに気づいているとは。

 「友達はいないの?」

 「いないよ」

 「作らないの?」

 無垢な瞳を向けながら訊いてくる。

 僕は少し迷ってから、普段はしまっている心境を答えることにした。

 「中学のとき、友達だと思っていたやつに裏切られたことがあって・・・」

 無意識に鉛筆を握りしめる手に力が入る。

 「裏で笑ってたんだ。向こうが親友だって言ってきたのに。全部、嘘だったんだ」

 「・・・それで?」

 遠慮がちに彼女がいう。

 「それから、誰かと仲良くなるのが怖くなったんだと思う。それに誰かのことを信じるのもやめた。また裏切られるのが嫌だから」

 彼女はなにも言わなかった。

 ただ、スケッチブックの絵を静かに見ていた。

 普段は埃をかぶっている僕の心境が、珍しく空気の中に舞っている。

 なんだかそれが居心地悪かった。

 なぜか彼女にはさらけ出せた。

 なぜだろう。

 考えてみる。

 自殺しようとしているところを見られてしまったから、だろうか。

 「・・・そっかぁ」

 しばらくして、彼女がぽつりと言った。

 「じゃあさ。私のことは、友達じゃなくていいよ」

 「え?」

 「あっいや。友達じゃなくて、なんか・・・知り合いでも通りすがりでも、絵に出てくる通行人Bとかでも・・・」

 慌てて言葉を紡ぐ彼女がおかしくて、ふと笑ってしまった。

 彼女なりの優しが垣間見えた気がした。

 「なに笑ってんのよ!恥ずかしいじゃん!」

 「あーいや、ごめんごめん」

 「じゃ、私行かなきゃだから携帯出して」

 「え?」

 「だから携帯。いいから、ほらはやく」

 僕は言われるがまま、ポケットから携帯を取り出して彼女に渡す。

 彼女は僕の携帯になにかを打ち込んでいるようだった。

 「はい」

 携帯を受け取ると『花咲月歌』という文字が連絡先に追加されていた。

 「じゃ、私行くね!月が出る前に!」

 「どういう意味?月が嫌いとか言ってたけど。狼女なの?」

 「そうそう。変身しちゃうのよ。だから私からのメッセージも無視せず、ちゃんと返信してね!」

 つまらないジョークを言って、彼女は背を向けた。

 春の光が傾きかけた公園からゆっくりと、でも確かな足取りで遠ざかっていく。

 一度も振り返らずに彼女はそのまま、まるで季節のひとしずくみたいに風の中へと溶けていった。

 僕はその背中をただ見送った。

 ただ桜の花びらが一枚、彼女のあとを追うように舞っていくのを目で追っていた。

 それは誰かの残した微かな余韻のようだった。

 夜はもう、すぐそこにいた。


 家に着いて、玄関で靴を脱いでいると夕飯の匂いがかすかにした。

 それは決して嫌いな匂いじゃないのに、どこか遠くの国の出来事みたいに思える。

 リビングのソファには、妹がスマホをいじりながら寝転んでいた。僕には一瞥もくれず、目は画面に釘付けだ。

 キッチンから母の声がした。

 「あんたの分、もう温めてあるから、あとでチンしといて」

 まるで「私は忙しい」というテンプレートのような声色。

 僕は無言で頷いて、自分の部屋に荷物を置いた。

 リビングに戻り、一人食卓につく。冷えた味噌汁と、ごはんと、焼き魚。テーブルには三つ分のお箸とお椀があったけれど、その真ん中はなぜか僕の席じゃないような気がした。

 僕に居場所はこの世界にあるのだろうか。

 昔から兄はしっかり者だった。

 成績もよくて、部活も生徒会も頑張っていて、父と母は「さすが長男」と何かあるたびに褒めていた。

 妹は妹で、末っ子で一人娘であるため、よく甘やかされていた。

 服は欲しいもの、少しわがままを言えばすぐに叶った。

 僕はその中間で、ちゃんとしていると「やればできるのね」と言われ、ミスをすると「またか」と呆れられた。

 誰からも期待されてないわけじゃないけれど、誰からも特別に見られた記憶がない。

 自分の居場所がどこにもないような、そんな気がする夜が幾度とあった。

 テレビの音が家族の沈黙を薄く埋めている。

 僕は焦る必要もないのに、急いで夕食を食べ、食器を洗って自分の部屋に戻った。

しばらく、描きかけの絵の続きを描いたり、ネットサーフィンをしていると時間は自然と過ぎ、お風呂に入るため自室を出た。

 お風呂から出て髪を乾かし、キッチンで水を飲み再び自分の部屋に戻った。

 ベッドに沈むように倒れ込んで天井を見つめる。

 ここ二日間のことを色々思い出しみる。

 今日のこと、屋上のこと、巨大パフェのこと。

 彼女のあの笑顔と空を指さす仕草がふわふわと脳裏に浮かんで離れなかった。

 まるで幻のようだ。

 でも、幻にしてはやけに眩しくて、あとを引く甘さとどこか喉の奥がきゅっとなるような感情を残していた。

 すると枕元のスマホが震えた。

 小さな光が暗い部屋の中でひかった。

 手にとり、確認すると液晶画面に『花咲月歌』とあった。

 『水瀬くん、明日ひま?カラオケに行こ~!一日中歌ってストレスを発散するのだ!』

 彼女は『ひま?』と訊きながら、すでに行く気満々だった。

 思わず鼻から息が漏れる。

 そういう自由さが、ちょっとだけ羨ましい。

 僕は返信を打つ。

 『ヒトカラじゃないの?』

 すぐに既読がついて、返ってきた。

 『ひとりで歌ってもつまんないじゃん!それに週末死なれたら困るから!言ったじゃん監視するって!それに絵の約束もだぞ~』

 色んな返信が頭に浮かんだ。でもどれもが適当じゃない気がして、打っては消してを繰り返す。いい返しが見つからずにいると続けて集合場所と集合時間が送られてきた。

 面倒になり『了解』と送り携帯を閉じた。

 ベッドに体を預け、右手を額に乗せる。もう片方の手を胸にあててみる。心臓がドクンドクンと規則正しく振動を鳴らしているのが、手を通して伝わってきた。

 僕はまだ生きていた。

 無論、それは彼女のおかげである。

 彼女は今何をしているんだろう。

 今日はいい天気だ。

 きっと空にはたくさんの星が輝いている。

彼女は今日も秩父の星空を見上げているのだろうか。

 そんなことを考えていると自然と瞼が重くなり僕はいつの間にか眠ってしまった。


 翌日。

 朝早くアラームの音で目が覚めた。

 朝は好きじゃない。

 朝が健康だなんてあれは嘘だ。

 今日も起きてしまったと思う。

だけど今日はいつもの「起きたくない」がなかった。

 それはたぶん、今日誰かと会う日だから。

 僕はなんと単純な人間なのだろう。

 カーテンの隙間から光がさしていた。空はちゃんと晴れていたし、なんとなくそれが嬉しかった。

 人間の感情には天候が親密に関連している気がする。

 晴れの日は嬉しいし、曇りや雨の日はなんだか気分が落ち込む。

 かといって、暑すぎるとそれはそれで鬱陶しい。

 そよ風は気持ちがいいが、強風はただ腹が立つだけ。

 天候は人間関係に酷似していると僕は思う。

 リビングで支度をしていると、妹がアイスを食べながら「へぇ、珍しく外出?友達?」と訊いてきた。

 「まぁ。そんな感じ」

 「ふーん」

 興味あるのかないのかわからない反応のまま、妹はアイスをくるくると舐めていた。

 のんきな奴だ。

 簡単な支度を終えて、僕は玄関のドアを開けた。

 四月の風が昨日よりあたたかくて、僕はちょっとだけ深呼吸してみる。

 慣れ親しんだ空気が胸の中にすっと入ってきて、僕の足を軽くする。

 僕は時間通りに集合場所に向かった。集合場所に着くと彼女はすでにおり、僕に気が付くと手を振った。

僕も軽く手をあげて応える。

 「おっはよー!今日も死んでないね!」

 「前代未聞のあいさつだね」

 彼女の私服姿を見るのは初めてだった。黒のミニスカートに白のシャツ。

 女子にしては高めの身長の彼女には実に似合うコーデだった。

 彼女はドリンク片手に「今日は歌い倒すぞー!」と張り切った。

 どこか小さな戦士みたいだと思った。

 僕らは地元で唯一のカラオケ屋にやってきた。

 ちなみに、僕は片手で数えられる程度しか来たことがない。

 カラオケという場所はどうも好きになれない。

 狭い個室に閉じ込められて、数人の人間たちがお互いの空気を読んで笑い、盛り上がり、順番を気にして選曲し、無言の圧力の中で楽しむことが求められる。

 その不自然な空間がどうにも耐えがたかった。

 息苦しい他ない。

 「さぁ歌うぞ~」

 そんな宣言と共に、彼女はドアを開けた。

 受付を済ませ、部屋に入ると、彼女は一目散にリモコンを手に取って「はい、一曲目~!」と叫びながら歌い出した。

 それは昭和っぽいラブソングだった。

 世代とか関係ない。ただ歌いたいから歌う選曲。

 彼女は上手かったわけじゃない。けれど、声はまっすぐで、自由さがあった。

 一曲目を歌い終えると、彼女がマイク越しに「歌わないの?」と訊いてきた。

 僕はどうぞどうぞとジェスチャーを返す。

 ほんとうは歌いたくないだけなのだが素直にそう言うこともできず、かといって歌うこともできず、結局ただくうきに流されるように身を任せていた。

 こういう馴れ合いがどうしても苦手だ。

 順番に歌う、遠慮し合う、譲り合う。

 譲った側は「気を遣った」ことになり、譲られた側は「気を遣わせた」と感じる。

 そんな見えない帳尻を、いちいち心の中で計算しなければならない。

 たいして歌いたくもない歌を探し、盛り上がりそうな婉曲を演じ、自分がそこにいる意味を無理やり捻りだそうとする。

 彼女は楽しそうに次々と曲を入れていく。

 迷いがないというより、ただ歌いたいから歌う。

 そのことに疑問を抱く様子はまるでなかった。

 選んだのは流行りのJ-POPばかりで、特に意味のある歌なんかじゃない。

 声は裏返るばかりだし、リズムもずれてばっかりだ。

 でも、彼女はそんなことを一切気にせず、ただただ楽しそうに歌っていた。

 彼女はただ歌いたいから歌っている。

 ただ楽しいから楽しんでいる。

 当たり前のことだった。

 でも、そんな当たり前のことが僕にはどうしてもできなかった。

 どうしてこんなにも違うのか。

 一人っ子だからか。

 僕はあらゆる場面で嫌われないことを最優先してきた。

 頼みごとをされたら断れないし、やむを得ず断ると後悔するし、結局承諾しても後悔している。

 誰かの機嫌を損ねないように常に頭の中で他人の感情のシミュレーションを走らせつづけて、そのうち自分の本音なんてどこにあったのかさえわからなくなる。

 これらのことも、僕が友達を作らなくなった要因の一つであった。

 でも、彼女にはそれがない。

 気を遣わないというのでない。ただ気を遣うことを目的にして生きていない。

 彼女の楽しさは、演技でも媚でもなかった。

 それが僕には眩しかった。

 そんな彼女を見ていたら僕もだんだんマイクを持つのが恥ずかしくなくなってきて、気がつけば二人で交互に歌い合っていた。

 僕は本当に単純だ。

 途中ジュースをこぼしたり、歌詞を間違えて笑い合ったり、画面の映像の古臭さに突っ込んだり。

 時間は経過し、残り一時間になったところで、彼女はマイクをおいた。

 「おつかれ」

 僕は労いの言葉を送る。彼女はだらりとソファーに腰掛け、先ほど注文していたクリームソーダを一口飲み「おいしい」と全身をバタつかせた。

 それしきりのことでそこまで喜べる。やっぱり理解できない。

 全身で喜びを表現した後、彼女は可愛いウサギ柄のショルダーバックから日記帳の様なもの取り出しペンを走らせた。

 「なに書いてるの?」

 「ん~?べーつにー」

 彼女はそれから数分間、真剣な眼差しで日記帳にペンを走らせた。

 「そういえばさ、なんで死のうとしてたの?」

 きょとんとした顔で純粋な疑問として彼女が訊いた。

 例えるなら、幼稚園児が大人に「空は何で青いの?」と尋ねるような感じで。

 伝わるかどうかはわからないが僕は胸の内を素直に話してみることにした。

 「特にこれといった理由はないよ」

 「ん~。例えば、シリアスな感じになるけど、いじめられてるとか、どこか体の調子が悪いとか・・・・」

 彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。

それもそうだろう。

自殺しようとしていた奴の前で、自殺の話をするのだから。

 僕は、なるべくシリアスにならないよう気を付けながら、普段考えている自殺論を語った。

 「僕にとって自殺っていうものはマイナスなことじゃないんだ。この世界で前向きに生きていることの方がおかしいと思う」

 彼女は僕の持論を良いとも、悪いとも言わなかった。ただ「それはどうして?」と先を促した。

 「毎日同じ時間に起きて学校に行く。顔面が整って生まれてきたわけでもないし、お金持ちの家に生まれてきたわけでもない。これから数十年働かされて、国に税金を納めて、ある日ぽっくり死んでいく。それだったら早く終わらせて楽になりたい。死ぬってことは、楽になれるってことなんだ。それってマイナスなことじゃない」

 カラオケの黒いテーブルを見つめながら、普段心の中で思っていることを彼女にさらす。

 僕は彼女を見るとはなしに見る。

彼女はわかりやすく顔をしかめて、静かな声で「違う」と言った。

 笑顔しか知らない彼女の顔が少し歪んだ。

 「違うって?」

 訊き返す。

 「そんなの違うよ!今、健康なんでしょ?」

 「体は健康だよ」

 彼女の声のボリュームが上がった。

 どうやらマイクのせいではないらしかった。

 「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん・・・」

 熱が入ったように急にしゃべりだし、最後は萎むような声を残しうつむいてしまった。

 僕は冷静さを失っていなかったし、僕も昔はそう思っていた。健康ならいいと。健康でいられるのだから幸せだと。

 ただ今は、それをも飛び越えた境地にいるのだ。

 だから彼女の方が甘いと、心の中で呟いた。

 仕方なく食い下がらなかった。

 食い下がったところでオチは見えている。

 「た、確かに、君の言う通りかもしれない。僕は甘いのかも」

 僕は素直に胸の内を話したことを心底後悔した。

 やっぱり本音は心の中で埃をかぶっているべきだ。

 結局人と人は、分かり合うことなんてできない。

 改めて肝に銘じる。

 「い、いや。こっちこそごめん。急に熱くなっちゃって」

 彼女は反省したように熱くなった顔を引っ込め、また一口クリームソーダを飲んだ。

 僕は、特に気にしないという顔をした。

 考えてみればあんな論に共感する人の方が少ないのだから彼女が反論するのは無理もない。

 ただもう一度言う、彼女は甘い。

 「ラスト一曲、なに歌う?」

 彼女はくるくると表情を変化させ、再びマイクを持った。

 この切り替え能力の高さが人気者の所以なんだろう。

 僕は目の前で人間力の差を実感した。

 「君が決めてよ」

 そういうと彼女は少し考えて、子ども向けのアニメの主題歌を入れた。

 「うん。意味ない曲って、最後に残るんだよ!」

 彼女の声がスピーカーに響いて、僕はただそれを聞いていた。

 生きる意味。それは瞬間の連続。

 意味のないことが心をあたためるのかもしなれいと彼女の歌声を聞きながらぼんやり思った。

 自分の単純さがよく理解できた。


 みっちり歌いつくし、すこし声を枯らしながら外に出た。

 外には、もう夕焼けの姿はなかった。

 代わりに、彼女が好きだと主張する綺麗な星たちが、空に張り付いていた。

 空に張り付く、なんて言い方をすると彼女はまた不機嫌になるかもしれない。

 「はあ。楽しかった~。これでパフェのカロリー消費されたかな~」

 「え、もしかしてダイエットのためにきたの?」

 僕の問いに彼女は曖昧に笑って誤魔化した。

 春の風が肌をなでて、街灯の灯りが歩く道にゆらゆら落ちている。

 「水瀬くんは、未来って信じる?」

 「急だね。みらい?信じるとか信じないとそういう概念なの?」

 「わかんないけど、私は今が大事だと思うの。だから未来のことを想像なくてもいいんだよ。人生は今を楽しむ!それがすべてだよ!」

 僕は黙っていた。

 僕の自殺論へのアンサーなのか。

 今この瞬間、彼女はたしかに生きていた。

 それ以上、なにも足す必要はないと思った。

 「あ、ちょっと寄っていい?」

 見ると、閉店間際の文房具屋が柔らかい光を灯していた。

 「なにかいるの?」

 「うん、ちょっとだけ」

 そう言うと、彼女はドアを押して、僕を置いて先に入っていった。

 背中越しに、彼女の「今」がふわっと零れたようにみえた。

 僕はそれを落とさないように慌てるように彼女の後を追う。

 店の中は紙の匂いがした。

 ペンのインクと、木の棚の香りと、小さく流れるFMラジオの声。

 彼女はまっすぐクレヨンの棚へ歩き、しばらくの間しゃがみ込んで選び始めた。

 「スケッチブックはこれでいいかなぁ。クレヨンは・・・・」

 「何か描くの?」

 「ううん、水瀬くんが描くんだよ!わたしを」

 僕はこの前の約束を思い出す。

 「この前言ったじゃん。しかも知ってるよ~。水瀬くんが美術部だってことも~?」

 いたずらっぽく笑って、買い物かごに小さなスケッチブックとクレヨンを入れる。

 その場で小さなため息が出てしまった。

 僕は彼女に生かされているのだろうか。

 レジで会計を済ませたあと、僕らはまた並んで歩きだした。

 文房具屋の外には、さっきより濃い夜が降りている。

 「なんか不思議じゃない?」

 彼女は突然立ち止まり、空を見上げて言った。

 「昼よりも夜の方が世界って広く感じるの」

 僕は空と彼女を交互に見た。

 ぽっかりと白く、輪郭のぼやけた月が浮かんでいた。

 そのとき、ほんの一瞬。

 彼女の髪の端が、月灯りを吸い込んで、そっと滲むように光った気がした。

 光るというより輪郭だけが柔らかく透けたような、そんな印象だった。

 「さ、帰ろっか」

 彼女はちらりとこちらを見て、笑った。

 その笑顔には、月も星も入り込めないほどの地上のぬくもりがあった。

 僕が一瞬覚えた違和感はすぐにアイスクリームのように溶けた。

 彼女の笑顔が温かかったからだろうか。


 朝が来るたびに絶望するのはいつものことだ。

 まず目が覚めてしまったこと。

 そして、その目を開けた先に何ひとつ慰めのない現実がならんでいること。

 三つ目、これが一番重要なことだ。

 今日も死ねなかったという事実。

 僕は眠る時、もう目覚めないことを祈りながら目を閉じる。

 癖みたいなものだ。

 眠るように死ねたらどれだけ楽だろう。

 僕にとっての幸せとは、苦痛なく死ねるということ。

 それ以外の幸福はないように思う。

 生きることそのものこそが苦痛だからだ。

 布団から出て学校に行くまでの全ての事柄が僕を少しずつ削っていく。

 日常はどうしてこうも重たいのだろう。

 普通のことを普通にできる人たちは、一体どうやって息をしているのか。

 僕は不思議でならない。

 学校に着いて、今日も後ろの扉から教室に入る。朝のチャイムが鳴っても、誰も僕には「おはよう」と言わない。

 いつものことだ。それが普通で、それが日常。

 僕は特に気にしない。

 教室には人の数だけ音があった。笑い声、鉛筆の走る音、机をひっかく爪の音。

 だけど僕の周りには、そういう音があまり近づいてこなかった。

 僕が壁をつくっているのかもしれない。

 あるいは、気づかれないくらい存在が薄いだけかもしれない。

 たぶん後者な気がする。

 授業は流れていく。

 ノートに意味のない文字が並べられていくたびに、自分の存在も並列化されていく気がした。

 朝が始まって、昼が来て、夕方が来る。

 それだけで一日が終わる。

 「・・・次、いつ死のうか」

 教科書のすみに書いた。

 誰にも見られないようにシャーペンで小さく。

 「死にたい」という言葉は、もう日常の一部になってしまっていた。

 叫びでもないし、絶望でもない。

 ただ疲れたと同じくらい自然な響きで、心の底からゆっくりと浮かんで上がってくる。

 本当に死にたいのか。これまで何度も自分に問いた。

 本当に死にたいわけじゃないのかもしれない。

 でも、生きている意味を探していると、いつもその問いに戻ってしまう。

 まるで、死ぬことが目的地のようだった。

 意味のないことが、まるで世界を形成すると言った彼女。

果たしてそれは、本当に正しいのだろうか。

 

 放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室は生き返ったみたいにざわつき出す。

 机を寄せて話し始めるグループ、廊下に飛び出す音、椅子を引く音。

 僕はその真ん中にいながら、どこか別の場所にいるようだった。

 「でさ、今日はどこ行く?」

 「え、またカラオケ」

 「ちょ、男子組が金ないとか言うからじゃん」

 斜め前の四人組が笑いながら話している。

 女子二人と、男子二人。

 まぶしいほど楽しそうな日常の景色。

 僕はゆっくりと教科書をしまいながら、誰にも気づかれないように立ち去るタイミングを見計らっていた。

 「・・・あ、やっべ、今日俺日直だった!」

 「なにそれ?今さら?」

 「いや、中原のプリントとか頼まれてたんだった。病院行って渡すやつ」

 そんな会話を耳の端で聞きつつ、「中原って誰だっけ?」と心の中で呟く。

 たしか、野球部の足を怪我して休んでるやつ・・・

 それくらいの情報しか持ちあわせていなかった。

 当たり前だ。話ことがないんだから。

 僕はいつも通り、誰にも呼ばれず、誰も待っていないカバンを持って立ち上がった。

 教室から出ようとした。

 「・・・あ、水瀬くん、だよね?」

 ふいに名前を呼ばれて顔を上げる。

 声をかけてきたのは、談笑グループの男子。

 名前は出てこない。

 「あのさ、悪いんだけど、中原のとこ行ってもらえたりしない?」

 僕は、思わぬ出来後に口を開くことができなかった。

 「いや、今ちょうど残ってたし・・・あ、これプリントと課題のプリントなんだけど・・・いい?」

 「あ、う、うん」

 差し出された紙束を、反射的に受け取る。

 断ったあとに流れる空気や、気まずい沈黙を想像したら自然と体が動いていた。

 「ありがとう、マジ助かるわ!」

 彼は頭の間で両手をこすりあわせた。

 僕はただ頷き、男子はそのまま仲間の輪の中に戻っていった。

 こういうときは、断って気まずくなるより、すんなり引き受けた方がずっと楽だ。

 僕さえ受け入れれば全て平和にすむ。

 彼らは何の後腐れなく気持ちよく遊びに行けるし、僕は僕で、「ちょっとだけ役に立った」みたいな顔ができる。

 「断れない人」は便利なんだろう。

 嫌われる勇気なんてない。

 好かれたいとも思わないけど、嫌われるのはもっと面倒だ。

 空気みたいに存在していればいい。そうやってやり過ごしてきた。

 僕のことなんて誰もちゃんとみていない。

 仕方のないことだ。

 人にはそれぞれ役割というものがある。

 気乗りしないまま、だけど顔には出さず、教室を後にする。

 校舎を出る足音が夕暮れの空気に吸い込まれていく。

 頼まれた荷物が少しだけ重く感じたのは、きっと気のせいじゃない。

 

 外に出て空気に触れる。学校でため込んだものを深いため息によって吐き出した。

 気がつけば五月になっていた。

 僕は、制服の袖を握り直しながら、坂道を登っていく。

 白くふくらんだ封筒の中には『中原金之助』の課題プリント。

 病院の名前は、スマホに送られてきたメールに書かれていた。

 その送り主の名前はもう忘れた。

 既読をつけたまま、それっきり。

 覚える必要も義理もないだろう。

 「中原・・・金之助・・・」

 口に出してみると、なんだか不思議な響きだった。

 クラスのどこかで一度くらいは見かけたことがある気がするけど、一度も目を合わせたことはない。

 野球部。

 きっと、日焼けして、声がでかくて、周りに友達がいて。

 たぶん、僕とは住む世界が違う。

 僕がこんなふうに彼のために歩いているなんて想像すらしていないだろう。

 というか、そもそも僕のことなんて知らないんじゃないか。

 病院の入り口に着いたとき、足が止まった。

 見舞いなんていつぶりだろう。

 思い出してみると、祖母が入院していた小さな病院以来だ。

 受付で部屋番号を聞いて、廊下を歩く。

 消毒液のにおいが鼻の奥をつんと刺す。

 ドアの前に立ち、ノックをした。

 コンコン。

 中から「どうぞ」と男の声が返る。

 ゆっくりスライド式の扉を開けると、病室の中にはギプスを巻いた右足をベッドに乗せた男子生徒がいた。

 金之助だった。

 漫画を片手にイヤホンで何かを聴いていた。

 僕に気づくと「誰?」と言いたげな、少し困ったような顔をした。

 「水瀬。クラスの・・・同じクラスのやつにプリント頼まれて」

 僕は問われる前に自分から名乗った。

 「あー!あの、あいつら?まじで?はは、わりーな。ありがとな」

 笑いながら、彼はベッドから身を起こす。

 その動きに無駄がなくて、なんとなく運動部だなと思った。

 僕は持っていた封筒を、彼に渡す。

 「うわ、分厚・・・」

 彼はそう言うと、封筒を棚の上に置いた。

 ぼーっと見ていると、彼は視線に気づいて、頭を搔きながら二ッと歯を出して笑った。

 「そういえば、俺のこと・・・知ってる?」

 唐突に彼が尋ねてきた。

 「名前くらいは」

 僕は正直に答えた。

 「そっか。水瀬くんだったっけ。よろしくな。あ、いや。ありがとな!わざわざ」

 彼はどこか気さくで、少しのあいだ言葉が見つからなかった。

 「ん?どうしたん?」

 「いや、なんか意外と普通だなって」

 「おいおい、どんなイメージだったんだよ!」

 そう言って彼は笑った。

 その笑い声は大きくもなければ軽薄でもなかった。

 ただ部屋の中の空気を柔らかくした。

 「てか、水瀬くんって普段なにしてんの?趣味とかさ」

 僕は未だ目を合わせられないまま、「絵、描いたり・・・するけど」と言った。

 「まじ?絵描けるん?すげぇ。俺、絵とかさっぱりだわ。なんか描いてみとか言われても棒人間しか描けねぇ」

 「それは絵のうちに入らないんじゃ」

 僕は少し口角を上げて言った。

 「それな!自分でも思うー!」

 彼は僕の言葉を否定しなかった。笑いながら受け止めて、なんでもないように返してきた。

 まるで彼が得意とするキャッチボールのようだ。

 僕はキャッチして投げ返すので精一杯。

 きっとフォームは目も当てられないほどだ。

 彼は、笑うと意外と目が細くなって、なんだか子どもみたいだった。

 「でもなんかいいな。そうやって自分の世界あるのって。俺基本どこ行ってもうるさいやつって言われて終わりだからさ。まあ、実際うるさいんだけどさ」

 「うん、ちょっと思った」

 「うわ、ストレート!でも嫌いじゃないぞ、そういうの」

 会話はぎこちなかったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

 僕は四階にある病室の窓から武甲山を眺めながら、しばらく彼と話をした。

 途中、お見舞いでもらったというクッキーを差し出された。

 仲良く食べながら話す会話はやっぱり弾んでいるとは言えなかった。

 「あ、そうだ」

 帰り際、彼は少しだけ恥ずかしそうな顔をして言った。

 「また来てくれよ。別に来れなくても全然いいけど。ほら、俺って案外寂しがり屋なんだよね。見た目クソ元気だけど」

 僕はあまり間をあけず、「約束できないけど、気が向いたら」と答えた。

 しばらく友達がいない僕にとって、なんだかこの感じが久しぶりで背中がむず痒かった。

 「おっ、じゃ、その気が向いたらに賭けとく!」

 表情が晴れ渡り親指を立てた。

 「そういや、俺の名前ちゃんと覚えた?」

 僕が病室から出ようとした時、背後から声がかかった。

 僕は振り返り「・・・たぶん」と言った。

 「おいおい、たのむぜ。金之助。中原金之助な。ちゃんと『こころ』にしまっておけよ!」

 彼、金之助は、『こころ』の部分を強調した。

 そんなジョークに肩を揺らしながら一人でくすくすと笑っている。

 「じゃ、またな、画伯!」

 僕は控えめに手をあげ、静かに病室を出た。

 人が幸福になるか、ならないか、それはそばにいる人のちょっとした言葉だったりするのかもしれない。

 病院を背に歩きながら、そんなことを思った。

 

 その週の土曜日。

 週末は基本的に家にいる。

 僕は根っからのインドアだ。

 だから今日も僕は僕の普通に則って自分の部屋に引きこもり、音楽を聴いたり、絵を描いたりして過ごしていた。

 お昼を少し過ぎたところで自室を出て、近くのコンビニで菓子パンを買った。

 家のリビングでテレビを見ながら胃を満たしていると、スマホが震えた。

 『やっほ!今何してる?』

 メールの相手は花咲月歌だ。

 『テレビ見てる』

 『そうなんだ!ってことは暇ってことだ!』

 『いいえ』

 『最近、映画館できたじゃん?私、見たい映画あるんだよね‼』

 そういえば最近、秩父で一番大きいショッピング施設の一角に小さい映画館ができた。

 ド田舎に映画館ができたことはそれなりに話題になっている。

 学校でも映画館の話で騒いでいるのを聞いたことがあった。

 『お一人でどうぞ』

 僕はそこまで映画に興味がない。

 『じゃ、十五時に駅前で!』

 すぐに時間と場所が送られてくる。

 彼女の元には、まるで違う言葉が届いているのではないか?と疑ってしまうほど嚙み合わないやりとり。

 しかし僕は、十四時を少し過ぎたあたりで出かける準備を始めた。

 そして時間に間に合うように家をでた。

 

 映画館の入り口には、手書きの看板と丸っこい電球がぶらさがっていた。

 チェーンの映画館にはない空気感がそこにはあった。

 看板には『本日のおすすめ。夏の断片』と書かれている。

 聞いたことも見たこともない、全く話題になっていない作品。

 人気のない作品を押すあたりが田舎くさくて笑ってしまう。

 「いいねぇ!この感じ!秩父に合ってる!」

 どうやら美的価値観も彼女とは大きく異なるようだ。

 ちなみに、スクリーンは全部で三つしかない。

 大、中、小。

 話題作やヒット作なんかを一番大きいシアターで上映。

 そこそこの作品を真ん中のサイズで上映。

 話題にもなっていない、今日見る作品は一番小さいシアターで上映するらしい。

 「ねぇ。私、ジュース買ってくる!あとチュロスも」

 チケットカウンターで並んでいると、彼女が小声で言った。

 彼女は列から離れ、売店の方へ走っていく。

 僕は受付でチケットを二枚購入して、ピスタチオグリーンの趣味の良いソファーに座って彼女を待った。

 戻ってきた彼女の手には、ストロー付きのジュースと、シュガーがたっぷりまぶされたチュロスが二本。

 一本を僕に差し出し、彼女はにこっと笑った。

 「おやつは共有!」

 僕は戸惑いながらも受け取って、ありがとうと小さくお礼を言った。

 やがて上映のアナウンスがあり、僕と彼女は腰をあげた。

 チケットを係の人に見せて中に入る。

 ホールは噂通り小さく、その大きさは教室二つ分ほどだった。

 お客さんも少なく、老夫婦と育ちの良さそうな子どもと、そのお母さんだけだった。

 スクリーンには、まだ映画が始まる前の予告が流れている。

 心なしか都会の映画館よりも音量が小さい。

 彼女は僕の隣で足を小さくぶらぶらさせて、天井を見上げている。

 「私、始まる前のこの感じが好き。静かでそわそわする感じ」

 彼女はしばらく迷惑にならない程度にじたばたしていたが、シアター内が暗くなると静かになった。

 観たのは、静穏な恋愛映画だった。

 ゆったりとした展開で、セリフも少ない。

 画面には海辺の風景と二人の影と悲哀な音楽が流れていた。

 終盤、恋人を亡くした主人公が白い骨の欠片(かけら)を瓶に詰めて、波打ち際から静かに流す場面があった。

 妙にそのシーンが印象的で、エンドロールが流れる中も、僕の頭の中では、そのシーンが、まるで傷ついたレコードのように繰り返し流れていた。

 上映が終わり、映画館を出る。

 急なオレンジ色の光に、目がちかちかした。

 彼女の提案で一階のカフェに立ち寄ることにした。

 彼女が席を見つけている間、僕が飲み物を買いに行くことにした。

 二人分のドリンクをトレイに載せて、彼女を見つける。

 彼女はテーブルで日記にペンを走らせていた。

 この光景を目にするのは、確か二度目だ。

 「お、ありがとう」

 向かい側に座る。

 「日記が趣味なの?」

 「まぁね。でも毎日書いてるわけじゃなないよ。なにか思ったときとか、吐き出したいときにこの日記に色々書くの」

 「それは面白いの?」

 「面白いよ!中学生くらいから、この日記に色々書いてて、今読み返してみたりすると意外と面白い!あー私この時、こんなこと思ってたんだ~とかさ」

 しばらく集中してから彼女は日記を閉じて、鞄にしまって、抹茶ラテを一口飲んだ。

 「ところで映画どうだった?」

 「んー。僕は特に・・・強いて言えば、最後の海のシーンは印象的だったかな」

 「あー。あそこね。わたしも!でも私泣いちゃった」

 「なんで?」

 「わかんないけど、エンドロールで」

 「涙脆いんだね」

 「んなことないよ。好きな人の骨を海に流すなんて切ないじゃない」

 「でも、なんで流したんだろう?」

 「きっと、忘れるためだよ」

 彼女は少し、声のトーンを落として言った。

 「忘れるため?」

 「そう・・・水瀬くんは地球五分前仮説って知ってる?」

 「聞いたことくらいは。たしか地球は五分前にできたっていう仮説でしょ?」

 「うんうん。つまり、過去を証明することは誰にもできない。過去とか記憶とかってそれくらい儚くて、脆いもんなんだよ」

 「それが骨を流すことと、なにか関係があるの?」

 「きっと主人公は新しい女ができたんだよ。それで今を生きることに決めた。今までもそうしてきたように。死んだ彼女とだって、ずっと今を生きていたわけでしょ?」

 「なるほど」

 納得すると彼女は満足げに微笑んだ。

 「海に行ってみたいなぁ」

 ストローをいじりながら、窓の外を眺めながら彼女が呟いた。

 「私も最後はあんな風に海に流してもらいたいな」

 「もしかして、アクション映画を観た後、電柱とか蹴とばすタイプ?」

 「違うよ!そんなんじゃない。私は本気!」

 「じゃ、もうすぐ死ぬの?」

 いつもの調子でおどけて返すと思っていたのだが、彼女はしんみりした顔になった。

 「死にはしないよ」

 ゆっくり噛みしめるように、そっと言葉をテーブルに置いた。

 僕は気まずくなって話題を違う方向に変えることにした。

 「でも、海って遠くない?」

 秩父には、山と川はあるが海という代物はこの街にはない。

 あと、彼女が大好きな星とか。そんなもんだ。

 「うん。でも、たまにはさ、遠いところもいいかなって」

 彼女の声は、明るさの裏にどこか空っぽな響きを持っていた。

 さっきのことを引きずっているのだろうか。

 「なるほど・・・僕のおじいちゃん家が海の近くだけど」

 間を埋めるように、気がつけばそんなことを言っていた。

 彼女がとびっきりの笑顔で、こちらを向いた。

 どうやら彼女を喜ばせてしまったらしい。

 「え!そうなの!」

 「うん、おじいちゃんっ子だったから昔よく行ってたんだ」

 親が放任するために、兄弟の真ん中がおじいちゃん、おばあちゃんっ子になるのはよくある話だ。

 「じゃ、今度案内してよ!」

 僕は彼女に気迫に圧倒されながら、引き気味に「あ、うん、まぁ今度」と言った。

 曖昧に返しながらも、その「今度」が本当に来る気がした。

 なんなら来てほしい、と気まぐれに思った。

 彼女は上機嫌になり、いつもの調子に戻って鼻歌を歌った。

 テーブルの上、飲みかけの抹茶ラテのグラスに彼女の鼻歌がぼんやりと響いて、騒がしい店内に溶けていった。

 「てか、おじいちゃんっ子なんだね。意外だ」

 「真ん中っ子あるあるな気もするけど・・・」

 「えーそうかなぁ?でも私もおばあちゃんっ子だよ!おばあちゃん大好き!でも兄弟いいなぁ」

 「僕は逆に一人っ子に憧れる」

 「ないものねだりだねぇ」

 「兄貴とは比べられるし。あいつは何でもできるから。僕とはまるで違う・・・でもそれがきっと正解なんだ」

 「正解って誰が決めたの?」

 「わかんないけど。世間じゃない?」

 「それはあれ、えーと、固定概念ってやつだよ!」

 「でも、みんな固定概念のもと生きているじゃない?」

 「んなことないよ!少なくとも私は違うよ!固定概念なんて垢みたいなもんだよ!洗い流しちゃえ!」

 腕組みをして鼻を鳴らす彼女。

 死にたいという気持ちすら洗い流せていない僕が、果たして洗い流せるのだろうか。

 「大丈夫!きっと何もかも上手くいくよ!私がいるんだから」

 たいそうな驕りを言って、ちびちびと抹茶ラテを飲んだ。

 彼女といることで僕の未来は明るくなっているのだろうか。

 

 月曜日の朝。駅のホームには、今日も変わらない人たちが並んでいる。

 みんなどこかへ向かうために、はたまた誰かに会うために歩いている。

 僕もその一人のはずなのに、ここにいることがどこか場違いに思えてくる。

 電車がホームに流れ込んで、風を作った。隣の女性が、風でふわりと崩れた前髪を慌てて直している。

 きっとこの人はこれから誰かに会うんだろう。

 吊革につかまりながら、窓から流れる景色を眺めた。

 緑や青や茶色ばかりが目に入ってくる。

 僕が頭を抱えて悩んでいることや、不安で眠れない夜の心情。

それらの全ては、僕が死ねば解決することだった。

 死というものは、ある人にとっては絶望かもしれないが、ある人にとっては救済なのだ。

 あの日、自殺しようとしていなかったら、彼女とパフェを食べに行くことも、彼女とカラオケ屋さんに行くことも、文房具屋さんに行くことも、彼女と連絡先を交換することも、映画館に行くこともなかったのだ。そう考えると、人生本当に何があるかわからない。何を引き金に人生が動くかわからない。

人間万事塞翁が馬。そんなことわざが頭に浮かんだ。これから生きていけば、それが悪い方向に動いてしまうことだってあるだろう。思いもよらない事故に巻き込まれたり、事件に巻き込まれることだってあるかもしれない。罹りたくもない病気に罹るかもしれない。そういった不安の積み重ねが自殺への衝動に繋がっていくのだ。

 健康ならいいと彼女は言った。果たしてそれは真実だろうか。

 僕はそう思えずにいた。

 いつものように後ろの扉から教室に入り、席に座る。

 彼女はまだ来ていなかった。今日の授業で使う教科書を机にしまっていく。

 手持ち無沙汰になったので、ポケットからスマホを取り出し、ネットサーフィンをはじめようとした時、前の扉が開き彼女が教室に入ってきた。

 多方向から朝の挨拶を受けて、自分の席に着いた。

 席に着くなり、彼女といつも行動を共にしている二人のクラスメイトが彼女の席に近づき、三人は談笑を始めた。途中、彼女がこちらをちらりと見た。

 僕も彼女を見ていたので、目が合ってしまい、すぐにスマホに視線を落とす。

 彼女の周りには、いつだって人がいた。

 何気ない言葉、笑い声、髪を揺らす仕草。

 比べると彼女は物語の主人公で、僕はページの余白に書き忘れられた文字みたいだ。

 それでも彼女は時々、誰もいない方向をぼんやりと見つめていた。

 そこにだけ、本当のなにかがあるように。

 僕が見ている世界と彼女が見ている世界は、ほんの少し重なっているのかもしれない。

 そんな幻想を抱いてもいい気がした。

 だけど、それもただの思い込みなのだろう。

 たいていの優しさやまなざしは、すれ違ったあとすぐに消えてしまう。

 まるで僕の存在のように。

 揶揄(やゆ)じゃなくて、物理的にこの世から消えることができたらどれだけ楽だろうか。

 この世は苦悩に満ちている。

 それだけは確かだった。

 今日も一日の授業に耐え、あと何回学校に来ればいいのか、あと何回学校に来たら死のうかなどと考えながら、帰るため歩き出した。

 駅まで来て、改札を抜けようとしたタイミングで声を掛けられた。

 「よっ」

 辺りを確認すると、駅の柱にもたれかかって立っている金之助がいた。

 「あ、・・・うっす」

 なんともダサい挨拶をこぼす。

 「今日、退院したんだよ」

 金之助はまだ病み上がりのようで、右足を少し引きずりながら近づいてきた。

 「待ってたんだぜ。ほら行くぞ」

 そう言って、僕の肩を軽くたたいた。

 「どこに?」

 「ホルモン!秩父といえばホルモンだろ?退院祝いだ。付き合ってくれよ」

 彼はグッドサインをして、僕より先に足をかばいながら改札を抜けていった。

 僕は後を追い、控えめに彼の肩をささえた。

 決して、友情なんかじゃない。

 友達なんて脆い人間関係だ。

 最後は嘘をつかれ、裏切られて捨てられる。友情とはそういうものだ。

 中学の頃、「俺たち親友だな」と言ってきたやつがいた。家にも遊びに行くような仲になり、テストの点数を競い合ったり、時には恋の話で盛り上がることもあった。

 でも、ある日、僕の噂をでっちあげて笑っていたのだ。

 それは他の誰でもない、その親友だった。

 以来、僕は人を信用するのをやめた。

 手を差し伸べられても、それはいつか突き落とすための距離にしかならない。

 裏切りとは手を握ったあとにやってくるものだ。

 だから今のこれは、決して友情なんかじゃない。

 ただの反射で、ただの義務感。それ以上でもそれ以下でもない。

 「お、わりーな」

 そんな僕の内面を微塵も知らない金之助は、ニカっと健康的な白い歯を見せた。

 何年ぶりだろう。こんなに近くで人の笑顔を見たのは。

 懐かしくて、不器用で、やけに眩しい笑顔だった。

 少しだけ、何かが揺らいだような気がした。心のどこかがくすぐったくなった。

 それでも僕は、それを「あたたかさ」だなんて認めるわけにはいかなかった。

 だって、そうやって失望してきたのだから。


 細い路地の奥にあるホルモン屋。

 『ホルモン・いっちょうめ』という提灯(ちょうちん)が五月の風に淡く吹かれて揺れている。

 古い暖簾をくぐり抜けると、店内は煙と声で満たされていた。

 「ここ来たことある?」

 僕は首を左右に振る。

 「ここ、美味いんだぜ。だったら注文は俺に任せろ」

 そう言って、嬉しそうに案内された二人掛けの席に座った。

 鉄板の奥では、白い油の塊がじゅうじゅうと音を立てていた。

 「足は大丈夫なの?」

 狭い店内だったから念のため尋ねてみた。

 「せやねぇ。せやねぇ。引きずるクセがついちゃってるんよ。柔道やってた頃の方がもっと痛かったし」

 せやねぇ。とは秩父弁で大丈夫という意味。

 「柔道?」

 「ああ、中学の頃な。中学の頃は野球部じゃなかったんだよ」

 彼は元気よく手を上げて店員を呼んだ。

 「とりあえず、ホルモンの盛り合わせと、白飯の大を二つ。あと飲み物はコーラで。それも二つで」

 「はーい、かしこまりました!」

 元気のよい、看板娘っぽい女性は注文を取ると、そそくさと引っ込んだ。

 彼女は煙たい店内を笑顔で走り回っていた。

 お金を稼ぐのも大変そうだ。

 僕は店内をキョロキョロ見渡した。

 特に意味のある行動ではない。

 久しぶりのサシなので落ち着かないのだ。

 やがて飲み物と七輪が運ばれてきた。

 先ほどより、顔に熱さを感じる。

 「じゃ、退院にかんぱーい」

 ビンとビンが重なる音が小さく響く。

 それはすぐにタバコと肉の煙が舞う、店内に溶けていった。

 彼は喉を鳴らして、勢いよくコーラを流し込んでいる。

 「ぷはぁ。しみるぜ~」

 束の間、ホルモンの盛り合わせも到着した。

 彼は順番にお肉を網の上にのせていく。

 「いやぁ、俺ホルモン大好きなんだよなぁ」

 「僕はあんまり食べたことないな」

 「おう?まじか。だったら今日はたらふく食え!今日は俺のおごりだ!」

 七輪の上で、色とりどりの肉が躍るように並んでいる。

 タレの焦げる匂いが鼻を刺激し、空腹を誘発した。

 「ほれほれ、これ焼けたぞ」

 彼は割りばしで僕のタレ皿に肉を置いた。

 「それ、ハツモト」

 割りばしで僕の肉を指しながら言った。

 僕は初、ハツモトを口にいれる。

 「うん、美味しい」

 「だろ?だろ?」

 こりこりとした触感がくせになる。

 彼も色んなお肉と白米を口いっぱいに頬張っていた。

 「うーん、やっぱりここのホルモンは美味いなぁ」

 満足そうに笑う。

 その頬には、えくぼができており、どこか少年のように見えた。

 僕は頷きながら鉄板の上のホルモンをそっと裏返す。

 「それよりさ」

 しばらく無言でホルモンに舌鼓を打っていると、金之助が白米をかきこみながらそんな前置きをした。

 「水瀬くん、花咲と付き合ってるん?」

 「え?」

 驚きで間の抜けた声が出てしまった。

 「いや、別に変な意味じゃなくて。なんか映画館に行ったとか噂で聞いたから」

 「付き合ってないよ」

 僕は静かに言葉を置いた。

 肉を焼く手が止まる。

 「そうなん?まぁ、違うならいいんだけどさ」

 金之助の声が少しだけ迷ったように揺れた。

 「え、なに?」

 「いや・・・」

 箸の先で焦げたホルモンをいじる。少し焦げた肉片がくるりと裏返った。

 「この前、オレの知り合いが映画館で二人を見たって」

 「ああ」

 「あいつさ、結構口軽いやつでさ。すぐに誰かに話して、それが割と広まってて」

 金之助はつづけた。

 「それで思い出したんだけど・・・・」

 彼は顔を曇らせて、コーラを煽った。

 「花咲って、一年の頃バスケ部だったんだよ。知ってた?短かったけど」

 「ううん、知らない。そうなんだ」

 「うん。で、今の三年の部長、新井っているだろう?でかいやつ」

 「まぁ、なんとなく」

 と言ったものの、新井なんてやつこれっぽっちも知らない。

 誰だ?バスケ部の部長?

 「そいつ、ずっと花咲のこと狙ってるらしいんよ。なんか去年も花咲がやめた後だったかな?飲み物とか渡したり、その他にもちょっかい出してたらしいんだ」

 これだから人間関係というのは面倒だ。

 「まぁ、直接どうこうってわけじゃないけど結構噂になってたし。今回の水瀬くんの件もそれなりに噂になってるっぽいからさ。一応な、気をつけとけよって話」

 僕は、鉄板の上のホルモンを見つめた。弾ける脂の音が遠く聞こえた。

 「ありがとう。でも大丈夫。僕なんか誰の目にも留まらないから」

 金之助は言葉を飲み込んだように短く笑った。

 「でも、お前みたいなやつ、案外モテるんだぜ?」

 「それはないよ」

 箸でホルモンをつまみながら、目を伏せた。

 否定したものの、僕はその言葉を肉と一緒に胃に入れた。

 その後は、普通の話に戻った。

 主に彼の入院時の話。可愛い看護師がいたとか、病院飯が不味くて苦痛だったとか。

 馬鹿な話をして、くだらないことで笑うことは意外にも楽しいものだった。

 誰も僕らを気にしていなかった。

 一時間を過ぎたところで、お茶漬けを頼み、たらふくになったお腹を抱えながら店を出た。

 外には、やっぱり今日も星が光っていた。

 「また来ようぜ!俺がバリバリに歩けるようになったら」

 会計を済ませた彼が出てきてそんなことを言った。

 僕は知らぬ間に頷いていた。

 生ぬるい風に吹かれながら、程よい距離間で、焼き肉の匂いを洋服に忍ばせながら金之助と並んで歩いた。

 別れ道で、「ぜったいまたいこうな」と念を押すように彼は笑った。

 僕は躊躇うことなく、「うん!」と頷いた。

 それは、久しぶりの約束だった。


 窓の外で雨が降っていた。

 梅雨の季節はなんでも曖昧にしてくれる。

 だから僕は六月が嫌いじゃない。

 授業中。

 黒板の文字が、黒に溶けていくようにゆっくり薄れていった。

 先生の声は一定のリズムで続いているけれど、その意味はもう頭に届いてこない。

 手元のノートには、地理の言葉がいくつか並んでいる。その下にもいくつかの文字が並んでいた。

 「美大」「私大」「学費」「就職率」・・・・

 書いたのは自分なのに、どこか他人事みたいだ。

 今朝、進路調査票が配られた。

 絵を描くのは好きだ。でも「好き」というだけで進んでしまって、その先で立ち止まる自分がもう見えている気がして、こわかった。

 好きなことで生きていける人は、たぶん、ほんの一握りで。その中に自分が入れるかどうかなんて、考えれば考えるほど自信がなくなっていく。

 普通の大学に行って、そこそこの仕事に就いて、そこそこの暮らしをして・・・

 それがきっと正解なんだ。

 でもそれって自分じゃなくてもよくないか?

 ふと、そんな声が頭の中に浮かんだ。

 カーテンが風に揺れて、陽の光が斜めに差し込む。

 その一筋の光の中で、埃がきらきらと漂っていた。

 美大か。私大か。

 正解はどこにも書かれていない。

 やっぱり正解は死ぬことなのだろうか。

 今日もそんなとりとめのないことを考えていると一日が過ぎていった。

 こんな日常に一体なんの意味があるのだろうか?

 放課後、誰もいない美術室の窓辺で、一人スケッチブックを広げた。

 僕以外、みんな幽霊部員だ。

 それもそうだ。

 学校から解放されて自由に青春を謳歌できるのに、わざわざ学校に残って絵を描きたいやつなんていない。

 そんな奴はきっと変人だ。

 変人な僕は、真っ白な紙に鉛筆で線を引いていく。

 線を引きながら将来のことをぼんやり考えた。

 画家になりたい。

 それは心の奥で、ずっと密かに息をしているものだった。

 だけどこの家でこの環境で、それを言葉にする勇気はなかった。

 でも、やりたいこともできない人生なんて一体なんの意味があるんだろう。

 楽しくなければ生きている意味はない。

 思考はいつも堂々巡りだ。

 薄暗い部屋で、僕は絵を描き進めた。

 白い紙の上に何かを残すことでしか、自分の存在を信じられなかった。

 その静けさを破ったのは足音と、あの音だった。

 「やっぱりいた!」

 振り向くと、月歌が立っていた。

 「探したよ~」

 僕は手を止めず「なにか用?」と言った。

 「よーよー。絵を描いてほしい!」

 「あー、あの約束ね」

 「そうだよ!結局一度も描いてもらってないからね!」

 「それで?どうすればいいの?」

 軽快に会話が進んでいく。

 僕も会話のキャッチボールが相当上手くなっているみたいだ。

 「とりあえず、羊山に行こう!」

 僕は半ば強引に美術室を後にした。


 雨はしとしとと降っていた。

 それでも彼女は躊躇なく歩き出し、僕もその後を追った。

 羊山公園の登り口は二つあり、僕らは南側から登り始めた。

 北側を正門とすればこちらは裏門で、道は狭く人通りは少ない。まして、平日の夕方なので人影はなかった。やがて人道がなくなり、さらに歩きにくくなった。

 「いてっ」

 少し先を進んでいる彼女が足を踏みはずしたようだ。

 歩いていくと山頂にたどり着き、羊山の紫陽花が雨に濡れて鮮やかに咲いていた。

 青に藤色に濃淡のある花たちが雨粒を乗せてゆるやかに揺れている。

 ぽつぽつと傘にあたる雨音が、まるで遠いピアノの旋律のように心に降りそそぐ。

 あずまやの屋根の下で僕は先ほど彼女から渡されたクレヨンとスケッチブックをテーブルの上に置いた。

 「ねぇ、ここで描いて」

 彼女は、傘をさしたままその場にしゃがみ込んで、花に顔を寄せていた。

 細い指が小さな花びらにそっと触れる。

 そこだけ切り取ると、まるで映画のワンシーンのようだ。

 僕は指示通り、その光景をスケッチブックに写し取る。

 「なんかいいなぁ。雨の中で咲く花って」

 僕はあずまやの屋根の下から、その姿を見つめていた。

 濡れた緑に囲まれ、微笑む彼女の輪郭が、雨に溶けていく。

 風に揺れる傘のふち。淡く色づいた紫陽花。

 そして、その花に触れる彼女の横顔。

 すべてを描きこぼすことなく、小さなスケッチブックに納めた。

 描けた絵を彼女に渡すと、何度も頷き僕の絵を認めているようだった。

 「やっぱり上手!さすが水瀬くん」

 「その絵、どうするつもりなの?」

 「日記に貼るよ!私たちの思い出!」

 彼女は折れないように気をつけながらクリアファイルにそれをしまった。

 帰り道は、行儀よく正門から降ることにした。

 しっかり補正された歩道は、裏門とは違い、驚くほど歩きやすかった。

 無事下山して、山を背に歩き出す途中、彼女は靴紐を結び直して、つま先をならして猫のように伸びをした。

 「私さ、最近ちょっと薄くなってきた気がする」

 「ダイエット?」

 「ちがう。存在感的なやつ」

 僕はちょっと笑って、「それって大丈夫なやつ?」と尋ねた。

 彼女はいたずらっぽく笑って、「うーん、まぁ八割がた冗談」と答えた。

 「じゃあ残りの二割は?」

 「それは、ひみつ」

 彼女はニコニコ笑いながらいつもの鼻歌を歌った。

 「その歌は誰の曲なの?」

 「わかんない。お母さんが歌ってくれたの。むかーし」

 「お母さん?」

 「そっ。お母さん。私が夜泣きした時よく歌ってくれたみたい。まだ小さいときにいなくなっちゃったからよく思い出せないんだけど。でも鼻が覚えてるの」

 「鼻?」

 「なんか香りと一緒に思い出すの。お母さんの髪の匂いとか。そういうのない?」

 僕はすこし考えてみたけれど、いまいちピンと来るものがなかった。

 「いい?誰かを忘れないために必要なのは写真なんかじゃなくて、いつでも口ずさめる鼻歌なのよ」

 彼女は得意げにそう言ってまた鼻歌を歌う。

 しばらく歩くと、通学路の公園の前に差しかかった。

 彼女は足を止めて、もう葉桜になった桜の木を指さした。

 「その時が来たら、あの下で私を描いてよ。私の大好きな花の下で」

 「その時まで、僕が死ななかったらね」

 先ほどの彼女の冗談に倣って僕はそんなことを口にしてみた。

 隣の彼女は少し困ったような笑顔を見せた。

 

 家に帰って、リビングの食卓についた。

母親と食材に「いただきます」と言って味噌汁に口をつけた。

 しばらく、夕飯を味わっていると兄と父親が帰宅した。

 スーツ姿でリビングを通り過ぎる二人に「おかえり」という。

 兄と父は親子そろって弁護士事務所を営んでいる。

 リビングに戻ってきた二人は、今日も食卓で書類を広げ仕事の話を始めた。疎ましいと思った僕は残りのコロッケを急いで胃に入れてその場から立ち去ろうとした。

 「進路は決まったのか?」

 父の声が僕の足を否応なしに止めた。

 「べつに」

 「少しは兄を見習え。お前もしっかり勉強して地に足つけるんだぞ」

 言葉が降ってくる。

 その声の正体は心配なんかじゃない。

 世間体だ。

 決して、僕のためではない。

 この子はしっかりしています、と誰かに言わせたいだけの冷たい期待。

 僕が何を思っているかなんて興味がないんだ。

 「うん」

 僕は背中越しに応えて、自分の部屋に戻った。

 画家になりたい、だなんて口が裂けても言えない。そんな時、彼女の顔が浮かんだ。

 溌剌と笑顔を浮かべ、自由に生きている彼女。生きているのが楽しそうな彼女。

 きっと彼女は悩みを知らない。それが心の底から羨ましく思った。

 僕も彼女のように風の吹くまま気の向くまま生きることができたらどんなに楽か。僕はイヤホンを耳に突っ込み、机に向かって絵を描いた。絵に浸っている時だけは自由だった。

 それはきっと現実世界を忘れられるからだ。

やっぱり死にたい。死にたいというより、生きたくない。

 消えてなくなりたかった。

 ふと脳裏に浮かぶ。

 傘をさして、紫陽花に触れながら笑っている彼女の姿が。

 僕もあんなふうに自由にいられたらな。

 僕は、スケッチブックを一枚めくる。

 そこには満開の桜が舞っていた。

 彼女は今、何を思っているんだろう。


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