第八話 七夕に願いを込めて
夏の足音が近づく東京の下町、商店街の一角に佇む居酒屋「えにし屋」。
暖簾をくぐると、涼やかな風鈴の音と、煮物の香ばしい匂いがふわりと迎えてくれる。
「最近、新しいお客さんが増えてきた気がしますね」
厨房で手際よく料理を運ぶセリシアが、ちらりとカウンターを見渡す。
「うん、常連さん以外にも仕事帰りの人がフラッと立ち寄ってくれるようになったみたいだね。商店街の人たちの口コミのおかげかな?」
悠真が笑いながら言うと、セリシアの視線がある一人の女性に留まる。
「最近ではすっかり常連さんですね、美沙さん」
カウンター席。スーツ姿のままくつろぐ篠崎美沙は、冷えたレモンサワーを片手に笑みを浮かべた。
「ふふ、だって居心地いいんですもん。会社よりずっと」
「また荒れとるの〜、美沙。顔に“上司爆発しろ”って書いてあるぞ?」
黒髪紅眼、艶やかな着物姿のルシアが、どこか楽しげに酒瓶を掲げて近づいてきた。
「えー、ルシアさん、読まないでくださいよ〜!」
「そんな美沙には、このお酒がおすすめじゃっ!」
と、得意気に酒瓶を出そうとするルシア。
しかし──
「ダメです!」
すかさずセリシアがその瓶をひったくる。
「ルシア、また飲もうとしてたでしょう!ちゃんと働いてください!」
「なんじゃ、ケチケチじゃの〜〜」
「セリシアちゃんって本当しっかりしてるよね〜。容姿よし、器量よし、性格よし。もはや完璧!マスターには勿体無いよ。」
「ちょっと、大分失礼な事言っよね今!?」
「冗談ですってば〜。じゃあさ、いっそ私のお嫁さんにならない?」
「何を言ってるんですか、もうっ!」
そんな冗談まじりの会話が店内を和ませていく。
笑いの溢れる「えにし屋」。だが──
一つだけ、そこだけ空気が違う席があった。
奥のテーブル、神妙な面持ちの4人。
・小野洋品店の店主、小野佐和子(58)
・精肉店タナカの二代目、田中篤(46)
・古本屋「一心堂」の天野慎之助(69)
・和菓子屋「葵堂」三代目、葵孝太(37)
七夕祭りの実行委員が集まり、打ち合わせをしているのだった。
「ねぇ、あの席……空気やばくない?」
美沙が小声で呟く。
「ああ。再来週にある七夕祭りの件で揉めてるらしいよ」
と、悠真が声を潜めて説明した。
「今年はフリーマーケットを目玉にする予定だったらしいんだけど──出品物がまったく集まらないんだって」
「フリーマーケットって、あれですよね?家にある使ってない物を、誰かに安く売るやつ」
セリシアが手をぽんと打つ。
「そうそう。それで、フリマの規模を広げて、商店街以外からも出品者を募ったらしい。でも……」
「人手も、品物も足りてないのですね」
「まぁ、実際やろうとすると難しいよねぇ」
──その時だった。
「……ん? いい匂い……!」
ふわりと鼻腔をくすぐる、甘辛く香ばしい匂いに美沙が身を乗り出す。
「それ、なんですか……!?」
「お、これか?」
悠真がにこっと笑って、鍋の蓋をそっと開けた。
中には、甘辛い味噌ダレに煮込まれた牛すじとこんにゃくが、とろとろに煮詰まっていた。
「これは土手焼き。七夕祭りの屋台で出そうと思ってる試作品なんだ」
「え、めっちゃ美味しそう……!」
「じゃあ──味、見てくれる?」
カウンターの中から、悠真が串に刺さった一口サイズを手渡す。
「ありがとうございます!じゃあ……いっただきます!」
口に入れた瞬間、とろけるような牛すじの食感。
甘辛味噌の奥に、にんにくと出汁のコクが潜んでいて──
「うんまぁあああああい!!」
「よかった。今回は子どもも食べやすいように甘めにしてあるんだ。でも大人が食べても飽きない味にもしてる」
「うんうん、これ……絶対ヒットしますよ!」
美沙は満面の笑顔で親指を立てた。
──そのころ、奥の実行委員テーブルでは。
「いっそ、えにし屋さんに助けてもらえないか?」
「いや、飲食とフリマはちょっと方向が……」
「でも、このままじゃ祭りそのものが……」
焦りの混じる声が交差していた。
そして、意を決したように4人は立ち上がり、カウンター席へと赴く。
「悠真ちゃん、ちょっとお願いがあるのだけど…」
佐和子が声を潜めて切り出すと、隣の天野さんが重たい口を開く。
「えにし屋さんでも、フリーマーケットの出店はできんかね? 難しいなら手伝いでもいい。人手がどうにも足りなくてのう」
「うーん……そうですねぇ」
悠真は苦笑しながらカウンター内で手を止めた。
「フリマってなると飲食店ですし、衛生面もあって、ちょっと難しいかと。それに、えにし屋の出店も俺とセリシアで対応するので、手伝いに回れる時間もなかなか難しかもしれないですね。それに、うち一軒だけでやっても効果は限定的かなと」
「やっぱり、そうよねぇ…」
佐和子さんがため息まじりに呟く。
「せめて、ルシアちゃんだけでも借りれないかしら? 一人でも助かるし」
言われて一同の視線が、少し離れた席でくつろぐルシアに向けられた。
ちびちびと日本酒を飲みながら、肴の冷奴に舌鼓を打つルシア。視線を感じ、眉をぴくりと上げる。
「ん? なんじゃ? お主ら、我に何か言いたげな目を向けておるな?」
とたんに、実行委員たちは一斉に悠真の方へと向き直った。
「や、やっぱルシアちゃんは忙しそうよね!」
「無理は良くないかな」
「人には得手不得手があると言うしの」
「ほら、何というか…雰囲気的に……ね」
ルシアの眉が吊り上がった。
「おい、今お主ら……我のことを“仕事できなそう”とか“フリマ客に酒を勧めそう”とか思ったじゃろ!? 顔に書いてあったぞ!」
思わず全員が沈黙。
(図星…!)
悠真とセリシアが気まずく笑う中、ぽつりと小さな声が響いた。
「あの……」
「ん?」
声の主は、美沙だった。遠慮がちに手を挙げて、実行委員たちを見つめる。
「ちょっとお聞きしたいんですけど……その、フリマの出店者募集って、どうやって集めてるんですか?」
実行委員たちはきょとんとした顔になる。
「チラシ配ったり、自治会に声かけたり……あと井戸端会議とかねぇ?」
「SNSでは?」
「SNS……?」
実行委員+セリシアまでが、一斉に「ポカン」。
「えっと……XとかInstagramとか、そういうのです。今って、情報発信はネットの方が早いですし、若い世代の人に届きやすいんです」
「あ、その手があったか……!」
悠真が額を打つようにして言い、美沙は少し恥ずかしそうに続けた。
「私……少しだけですけど、そういう広報関係の仕事してるので……もしよかったら、お手伝いしますけど……」
「い、いいのかしら!?」
佐和子さんが思わず身を乗り出し、他の委員たちもぱっと顔を明るくした。
「あらやだぁ、この子ほんといい子! 今度うちの店来て! あなたに似合うワンピース、絶対見つけるから!」
「そ、そんな……! でも……ありがとうございます」
頬を染めて頭を下げる美沙。
そんな様子を、さっきまで酒を片手にくつろいでいたルシアが、ふぅと鼻を鳴らしながら立ち上がる。
「……ふん。お主ら、我のことを当てにならぬと思っておったようじゃが……」
くるりとマントを翻すような仕草で、威風堂々とカウンター前に立つ。
「フリマであろうが何であろうが、やってやろうではないか。酒さえ呑めればなっ!!」
「結局そこかい!」
一同、総ツッコミ。
だがその表情には、少しだけ笑みが戻っていた。
やがて、七夕祭りの日が近づくにつれ、美沙のSNS広報は徐々に拡散され、多くの出店希望者が集まり始めていた。そして当日、ルシアはというと――
”別店えにし屋フリーマーケット店”
「いらっしゃい、いらっしゃいっ! フリマ初参戦、えにし屋仕込みの品揃えじゃぞ〜っ!」
何故か着物姿で、張り切って呼び込みをしていた。
「……あれ、意外と似合ってるし、盛り上げ役になってる?」
「案外、向いてるのかもね……」
悠真と美沙が顔を見合わせて笑う――そんな、えにし屋らしい“七夕祭り”の始まりだった。
商店街の通りが、夕暮れの柔らかな光に包まれていた。店の前に並ぶ屋台の列、提灯の灯りがぼんやりと滲む空気。空にはまだ明るさが残るが、すでに夏の夜の気配が近づいていた。
その真ん中で、「えにし屋」七夕祭り店はひときわ賑わっていた。
「生ビール二つお願いしまーす!」
「土手焼き、追加三本!」
「ジュースくださいっ!」
子供から大人まで、笑顔と注文の声が飛び交う。香ばしい匂いに釣られて人が集まり、テーブルの周りは笑い声でいっぱいだった。
「美沙さん、生ビール頼める⁉︎」
「はいよ、まかせて!」
美沙はジョッキを手にしながら、軽やかに動き回る。笑顔の中にも疲れは見せず、むしろ生き生きとしていた。
「セリシア、焼き物追加でお願い!」
「了解ですっ!」
セリシアは慣れない屋台仕事ながらも懸命に応じていた。浴衣の袖をまくり、少し焦げた香りに包まれながらも、その表情は明るかった。
ふと、美沙は目を細めて笹飾りに視線を向けた。店の脇に飾られた大きな笹には、色とりどりの短冊が揺れている。
(願い事……か)
「不思議なお祭りですね。七夕、というのですね?」
セリシアが仕事をこなしながら、短冊を眺めている。柔らかな風が二人の髪を揺らす。
「うん。昔の人が、星に願いを込めたのが始まりって言われてるんだよ。」
「なるほど……この場所には、たくさんの想いが詰まっているんですね」
セリシアは小さく微笑み、美沙を見つめた。
「美沙さんのお陰で、七夕祭りは大成功ですね」
「ふふっ、私はちょっと準備しただけだよ。あとは、みんなが頑張ったから」
美沙は、胸の奥に温かいものがじんわりと広がっていくのを感じていた。
「でも……今日は良かったのですか?美沙さん、お休みだったんですよね?」
「うん。やりたくてやってることだもん! 今日は“えにし屋の一員”として、ちゃんと働くよ!」
その言葉にセリシアの表情がぱっと明るくなる。
「はいっ! 私も、最後まで頑張りますっ!」
その時だった。
「どうじゃ、こっちは順調か?」
不意に背後から聞き慣れた声が飛び込んできた。振り向くと、ルシアが両手を腰に当てて仁王立ちしていた。
「ル、ルシアさん⁉︎ お店は大丈夫なのですか?」
「ふふん、我が店は完売御礼。盛況すぎて売るものもなくなったのじゃ」
ドヤ顔のルシアに、三人は言葉を失う。
「すご……」
「さすがルシアさん……」
「当然じゃろう? このルシア様のカリスマを侮るでない」
そう言って鼻を鳴らすと、ルシアは真顔になって悠真とセリシアを見やる。
「それよりそなたら、ずっと働きっぱなしではないか。ここは我と美沙が見るゆえ、少しは祭りを楽しんでこい」
「えっ、でも……」
「そうだよ、マスターもセリシアちゃんも、さっきから休まずに動いてるもん!」
「よ、宜しいのですか?」
「2度は言わん。良き時間を過ごせ。これでもお主らとは何だかんだと、居酒屋を切り盛りして来たんじゃ。心配はいらん。」
セリシアは戸惑いながらも、美沙とルシアの笑顔に背中を押されるように頷いた。
「じゃあ……少しだけ、甘えさせてもらいますね」
「うん。楽しんできて、セリシアちゃん、マスター!」
二人が去った後、美沙は少しだけホッと息をつく。
「ルシアさん、意外と気が利くんだね」
「ふふん。我を誰だと思っておる」
そう言って胸を張るルシアの横で、美沙は空を見上げる。笹の短冊が、風に乗ってカラカラと鳴っていた。
“少しでも、誰かの力になれますように”
そう書かれた自分の短冊を見つめながら、美沙は静かに思った。
(きっと、これからもっと頑張れる。私にも、私の場所がある)
提灯の灯りが、夜の空気にほのかに溶けていく。
祭りの夜は、まだ続いていた。
「わぁ……やっぱり、すごく賑やかですね」
夜空に揺れる提灯の明かりと、商店街を彩る七夕飾り。
人波の中で足を止めたセリシアは、感嘆の息を漏らした。
「お店からでも音や匂いでお祭りの雰囲気は感じていましたが……こうして改めて歩くと、やっぱり素敵です」
彼女の横顔に、自然と悠真の表情が綻ぶ。
「折角だし、ゆっくり見て回ろうか」
「はいっ!」
嬉しそうに微笑んだセリシアの手が、そっと悠真のシャツの袖をつまんだ。
ふいに心臓が跳ねた気がして、悠真は少しだけ照れながら歩き出す。
しばらくして、彼女がぴたりと立ち止まった。
「悠真!あの雲みたいな食べ物は何ですか⁉︎」
視線の先には、綿菓子を頬張る子供たち。
ふわふわの甘い塊に顔を埋める姿が、無邪気で幸せそうだ。
「あれはね、『綿菓子』っていうんだ」
「ワタガシ……?」
セリシアは目を丸くして言葉をなぞる。
そんな反応が可愛くて、悠真はつい笑ってしまった。
「あのお店で売ってるよ。食べてみる?」
「いいんですか⁉︎ぜひ!」
二人は出店の列に並ぶ。
屋台の前では、職人風のおじさんが棒に白い砂糖を巻きつけるように、機械で糸のような綿をふわふわと形にしていた。
「これはね、ザラメを熱して、空気中に飛ばして糸みたいに固めてるんだ。見た目は雲みたいだけど、口に入れると一瞬で溶けるよ」
「まるで魔法みたいですね!」
やがて順番が回ってきて、セリシアの手に大きな綿菓子が渡された。
白い雲を抱くようにして、それを一口——
「あ、あま〜いっ‼︎」
目を輝かせながら笑うセリシアに、周囲のざわめきもどこか優しく感じられた。
その後も二人は焼きとうもろこし、金魚すくい、ヨーヨー釣りと、出店を巡りながら小さな笑いを重ねた。
やがて、商店街の中央にそびえる大きな笹飾りの前へと辿り着く。
「はい、セリシア。短冊、まだ書いてないよね?」
悠真が優しく差し出した二枚の短冊。
「俺もまだなんだ。一緒に書こう」
「はいっ!」
二人は願いを込めて、短冊にそれぞれの文字を綴る。
風に揺れる竹の葉に、それぞれの願いをそっと結びつけた。
「さあ、お店に戻ろうか」
「はい……」
歩きながら、セリシアがふと問いかける。
「悠真は、何をお願いしたんですか?」
「んー、内緒かな。そっちは?」
「わたしも……内緒です」
目が合って、ふたりでふふっと笑った。
風が吹き抜ける夜の商店街。
並んで歩く二人の背中の上で、短冊がそよぐ。
『これからも、みんなと一緒に笑っていられますように』
『みんなが笑っていられる場所を作れますように』
——そのころ、「えにし屋」では。
「マスター!セリシアちゃーん!早く帰って来て〜!!」
涙目の美沙が出店から顔を出し、助けを求めて叫んでいた。
「うぃ〜……もう飲めんぞぉ〜……」
店のカウンターで沈没するルシア。
「ルシアさ〜ん!もう、起きてくださいよ〜!」
「すいませーん!土手焼き二つと、生ビール三つくださーい!」
お店の外から容赦ない注文が飛ぶ。
「私ひとりじゃ、捌けないよぉ〜!」
虚しく響く美沙の叫びは、七夕の空へと吸い込まれていった——。