第七話 その怒り、ジョッキに込めて
東京某所、ガラス張りの高層ビル。その20階に、とある大手広告代理店の本社オフィスはある。広々としたフロアには観葉植物とデザイナーズチェアが並び、一見すると開放的な職場に見えるが――。
「篠崎っ‼︎」
朝の静けさを突き破るように、男の怒号がフロアに響いた。
「は、はいっ!」
呼ばれたのは篠崎美沙、26歳。地元・岡山の片田舎から上京してきた彼女は、東京の華やかな暮らしに憧れ、都内の大学に進学。その後この会社に就職し、今は入社3年目を迎えていた。
明るく気さくで、人当たりもよく、容姿も整っていたため、社内では男女問わず好感を持たれていた……ただし、一人を除いて。
「これは一体どうなってるんだと聞いてるんだよっ‼︎」
怒りの主は営業部の部長・早川英司。専務の息子という立場を笠に着て、日常的にパワハラ・セクハラを繰り返すことで社内でも知らぬ者はいない男だ。
「な、何のことでしょうか……」
「これだよ、これっ‼︎」
机に叩きつけられたのは、一枚の資料。
明らかに数字がズレており、計画との整合性が取れていない。
「あのっ、それ……新人の木之本さんに頼んだ分でして、私のチェック前の段階かと……」
「彼女からは、お前のチェックは終わってると聞いてる。まさか、自分のミスを新人のせいにする気か⁉︎」
「ち、違います……ただ、」
「言い訳はいいっ‼︎ 今日中に訂正しろ。終わるまで帰るんじゃねえぞっ‼︎」
怒鳴り声がオフィスに響き、場が一瞬静まり返った。
(いつもこうだ――この人は)
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パワハラの“発端”
それは半年前の、ある社内飲み会の夜だった。
「篠崎~、ほら、こっち座れよ~。なあ、最近可愛くなったんじゃねえの?」
早川が酔った勢いで、美沙に腕を回してくる。
肩、背中、太もも。じわじわと距離を詰めてくるその手に、美沙は息が詰まった。
「……やめてくださいっ」
はっきりと拒絶して、その腕を振りほどいた。
それがきっかけだった。
翌日から、美沙への風当たりは激変した。
ミスをしていなくても叱責される。会議で名前を呼ばれない。案件から外される。
でも、誰も助けてくれなかった。
なぜなら―― 早川英司は、いわゆる“触れてはいけない存在”だったからだ。
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美沙は冷えた手で資料を抱え、新人の木之本由香里の席に向かう。
「由香里ちゃん、ちょっといいかな?」
「えー? はい、なんですかー?」
机には開いたコスメポーチ。ピンクの爪ヤスリがきらきら光っていた。
「この資料……、私がチェックしてから提出って、話してたよね?」
「えー、先輩に所にいきましたよー。でもー、先輩席に居なくて、まぁいっかなって。てへっ」
悪びれる様子もない笑顔。
「まだ新人なんだから、必ず私が確認しないとダメだって最初に言ったよね?」
「えー、そうでしたっけー?」
「……次はちゃんとしてくれるよね?」
「はーい、わかりましたぁ~」
ネイルの光沢を確かめながら、気のない返事。
(こ、この……)
美沙のこめかみがピクリと動いた。
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「くっそガキがぁぁぁぁッ‼︎」
ガンッ!
ビールジョッキがテーブルに叩きつけられる。
「はぁ!? なんで私が怒られなきゃいけないのよっ!? ふざけんなっての……!」
居酒屋「えにし屋」のカウンター席。怒りのままにジョッキを傾けているのは、篠崎美沙その人だった。
「悠真、あのお客さん……」
「ああ、どうやら仕事で何があったみたいだね…」
店主の悠真が苦笑いを浮かべながら、カウンターの奥から彼女の様子をうかがう。
「ふむ…。では、ここは我がとっておきの酒で励ましてやるかの?」
カウンター奥の、酒瓶がズラッと並ぶ棚に手を伸ばすルシア。
そして
「お主、大分荒れとるの〜」
低く響く、どこか艶やかな声に、美沙は驚いて顔を上げた。
目の前に立っていたのは──
黒を基調にした品のある着物に身を包んだ女性。
漆黒の髪を夜の瀧のように流し、紅い瞳は冴えた光を宿している。
凛とした美貌と、どこか人間離れした空気を持つその女性は、まるで“和装の女将”のようだった。
「え、えっと、まぁ、はい……ちょっとだけ……」
仕事での鬱憤を引きずったまま、美沙は言葉を濁す。
「そんなお主にお勧めの酒はこれじゃ!」
ルシアが棚から抜き出していた一本の瓶を、美沙の前に“ドンッ”と置く。
そのラベルには、筆文字で大胆に──
《鬼斬り 純米原酒 》
と書かれていた。
「このお酒……なんだか、強そう……」
「ふふっ、見る目あるのぅ。アルコール度数18度、火入れなしの生原酒。まるで斬れ味鋭い太刀のような、ガツンとくる辛口酒じゃ!」
そう言うと、ルシアは小さなお猪口を二つ取り出し、さらりと手際よく酒を注ぐ。
「一杯目はサービスじゃ。さぁ、乾杯!」
「え、あ、はい……乾杯……」
カラン、とお猪口の陶器が軽く触れ合う音。
ぐい、と一口。
「か〜っ!やっぱこれよ!酒はこうでなくちゃなぁ!」
ルシアが豪快に笑う。
美沙も少し遅れて、酒を口に含んだ。
(うっ、思ったより強い……でも──)
「美味しい……!」
心地よい熱が喉を伝い、すとんと胸に落ちる。
米の甘み、切れのよい辛さ、そしてどこか懐かしい香り。
「そうじゃろ、そうじゃろ!飲めば飲むほどクセになるぞ?」
「ルシアちゃ〜ん!その酒、こっちにもお願い〜!」
別のテーブル席で飲んでいた常連客が声を上げる。
「仕方ないの〜。お主らはタダじゃないぞ?」
「そりゃそうだ〜、でもルシアちゃんの注いでくれた酒はうまいんだよ〜!」
店内に笑い声が響く。
そのやりとりを見ていた美沙は、ほんの少し羨ましそうに目を細めた。
──と、目の前に料理が一皿、静かに置かれる。
コトン。
「こちら、“インカのめざめ”のじゃがバターになります」
「え? あの、私こんなの……注文してませんけど……?」
戸惑う美沙に、若い店主──悠真がにっこりと微笑む。
「初めてのお客様への、当店からのささやかなサービスです」
「……あ、ありがとうございます……」
目の前の小皿には、ふっくらと蒸しあげられた黄金色のじゃがいも。その上にはたっぷりの無塩バターがゆっくりととろけ、細く刻まれた岩塩と青海苔が香ばしく散らされていた。
「“インカのめざめ”って……なんですか?」
美沙がそっと尋ねると、悠真が穏やかに語り始めた。
「北海道で育てられてる、希少なじゃがいもです。見た目は小ぶりですが、特徴はこの色──中までしっかりと黄金色。そして、栗のように甘いんですよ」
「栗みたいに……?」
「糖度が普通のじゃがいもの2倍以上。だから、バターだけで十分に味が引き立ちます。塩気とバターのコク、それとこの芋の甘みのバランス、ぜひ味わってみてください」
促されるままに、フォークで一口。
──ホクッ。
口の中に広がる、しっとりとした食感と、ほのかに甘い風味。バターが芋の甘みを引き立て、塩気がそれをキュッと締めていた。
「……なにこれ、すっごく美味しい……!」
「でしょう? 仕事で疲れた時は、あえて手の込んでない、こういう“やさしい味”が身体に染みるんです」
美沙は、ふっと笑った。
ほんの少しだけ、張り詰めていた心の糸が、緩んでいく気がした。
──
居酒屋「えにし屋」での時間は、いつの間にか夜の帳がすっかり降りた頃に終わりを迎えていた。
美沙はカウンターに深くお辞儀をしてから、暖簾をくぐり、店を後にした。
外は、都会のネオンと提灯の灯りが混ざり合う、小さな商店街。少し歩けば、コンビニの明かり、開け放たれたラーメン屋──そんな「誰かの日常」が、静かに続いていた。
美沙の足取りは、最初こそ重かったものの、だんだんと軽くなっていた。
あの店では、誰も自分を責めなかった。
怒鳴りつけてきた上司も、責任を押しつける後輩も、そこにはいなかった。
あったのは、ただ“美味しい料理”と“あたたかな笑い声”、そして、寄り添ってくれた酒の香り。
夜風がそっと髪を揺らす。
ネイルを見てはしゃいでいた新人のことを思い出し、苦笑が漏れる。
(もしかしたら……自分も昔はああだったのかな?)
社会人三年目。
もう“新人”ではないけれど、“一人前”とも言い切れない。
でもきっと、自分なりにちゃんとやってる。踏ん張ってる。
だからこそ──
(……明日も、ちゃんと行こう)
誰かに強く言えるほどの覚悟でもない。
劇的に変わるわけでもない。
でも、小さく、でも確かな「進む気持ち」。
それを今夜、あの一杯の酒と料理がくれた気がした。
商店街を抜けると、視界が急に開けた。
広がる夜空に、瞬くいくつかの星。
ビルの隙間から覗くその光に、ふと足が止まる。
(……ああ、東京の空にも、ちゃんと星って見えるんだ)
ささやかな発見に、心が少しだけあたたかくなった。
そして──また歩き出す。
たぶん明日も、怒られるかもしれない。
新人は相変わらず手を抜くかもしれない。
だけど、帰る場所はあの「えにし屋」だと分かった。