第五十六話 騒めく心
その日、由香里は先輩である伊花と並んで会社を出た。
久しぶりに、二人そろって定時退社。ここ最近では珍しいことだった。
「今日、どこか飲みに行こっか」
伊花の何気ない一言に、由香里は小さく頷いた。
あの日を境に、伊花と仕事帰りに飲みに行く機会は増えていた。
以前よりも距離が縮まった実感があり、それが由香里にとっては少しだけ誇らしく、そして嬉しい時間でもあった。
もっとも、普段は残業続きだ。
その為、ここ最近は店を選ぶ余裕もなく、飲みに行く時は会社近くの居酒屋へ駆け込むのが常だった。
だが今夜は違う。
「せっかくだし、今日は私の行きつけに行こうか」
由香里は伊花の少し後ろを歩いていた。
最初は純粋に楽しみだった。
以前から何度も聞かされていた「行きつけの店」。
伊花があれだけ言う店なのだから、きっと素敵な場所なのだろうと、素直にそう思っていた。
けれど、時間が経つにつれ。
いや、その店に近づくにつれて、由香里の胸の奥が、理由もなくざわつき始める。
鼓動が、わずかに早い。
見覚えのある景色が、視界の端に入り込むたびに、心の奥の何かが引っかかる。
そして、気づけば伊花が足を止めていた。
「私の行きつけの店って、この商店街の中にあるのよ」
その言葉に、由香里は顔を上げる。
目の前に広がるのは、商店街の入口の大きなアーチ。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
胸の奥が、大きく波打つ。
(ここって……)
懐かしさではない。
安堵でもない。
それは、忘れたはずの記憶が、静かに扉を叩く感覚だった。
「さぁ、行くわよ!」
そう言って、伊花は軽やかに歩き出した。
由香里は一瞬、その場に立ち尽くしたまま――
遠ざかっていく先輩の背中を見つめる。
胸のざわつきは、収まるどころか、じわじわと広がっていく。
(……ここに来たからって……あの店だとは限らない……)
自分にそう言い聞かせる。
商店街には店がいくつもある。
ただの偶然かもしれない。
――そうであってほしい。
心から、そう願った。
けれど、商店街へと足を踏み入れるたびに、
忘れかけていた記憶が、ゆっくりと色を取り戻していく。
あの日の空気。
あの日の声。
あの日の視線。
一歩進むごとに、足取りは少しずつ重くなっていった。
それでも――。
先輩である伊花に「別の店にしませんか」と言えるほど、由香里は強くない。
だから、ただ祈ることしかできなかった。
どうか――
違いますように、と。
やがて伊花が、一軒の店の前で立ち止まる。
「ここよ、私の行きつけ。久々に来るなぁ……ここのところ忙しかったからねぇ」
その瞬間。
由香里の全身から、さっと血の気が引いた。
(……ここって……)
視界の端に映る、見覚えのある看板。
暖簾。
灯り。
そして――店名。
伊花の行きつけの店。
それは、居酒屋「えにし屋」だった。
かつて、早川と共に訪れ、問題を起こしてしまった場所。
忘れたかった記憶が、容赦なく蘇る。
胸が、ぎゅっと強く締めつけられる。
逃げ出したい衝動と、ここに立ち続けなければならない現実。
その狭間で、由香里はただ立ち尽くすしかなかった。
伊花は、ふと足を止めた。
そして、隣にいる由香里の顔を覗き込む。
「貴女、どうしたの? 顔色が悪いみたいだけど……もしかして調子悪い?」
その声には、からかいではなく純粋な心配が滲んでいた。
由香里は一瞬、言葉を失う。
「あ……いえ、そんな事はないです……」
そう答えたものの、自分でも分かるほど声が弱い。
心は、まったく平静ではなかった。
まさか――。
この店に、再び足を運ぶ日が来るなんて、あの頃の自分は、想像すらしていなかった。
問題を起こした場所。
迷惑をかけた場所。
そして、謝罪すらしていない場所。
あの日以来、由香里はこの商店街に近づくことすらなかった。
意識して、この場所を避けていたのだ。
本来なら、社会人として真っ先に謝罪に来るべきだった。
けれど、あの頃の自分は会社から処分を受け、精神的にも追い詰められていた。
毎日をやり過ごすだけで精一杯で、自分の立場を守ることしか考えられなかった。
……いや。
それは、ただの言い訳だ。
本当は怖かったのだ。
ここへ来ることが。
会社では陰口を叩かれ、居場所を失いかけていた。
そんな状態でここに来ても、また何か言われるのではないか――
そう思うと、どうしても足が向かなかった。
けれど、それは自分が犯した過ちの結果だ。
本来なら、逃げずに受け止めなければならなかったものだ。
それなのに自分は、理由を並べ立てて逃げていただけだった。
都合よく考えて、「行かなくてもいい」とさえ思ったこともある。
時間が経てば、きっと忘れられる。
そんな甘い考えに、無意識のうちに縋っていたのだ。
今思えば、あの頃の自分は、あまりにも幼く、そして非常識だった。
「社会人としてなっていない」と言われても、何ひとつ反論できない。
環境が変わり、立場が変わり、ようやく少しだけ冷静に物事を見られるようになってから、やっと気づいたのだ。
自分がどれほど傲慢だったのかに。
けれど数ヶ月という時間は、謝罪をしやすくするどころか、逆に足を重くした。
「今さら」という気まずさ。
どうして、あの時すぐに行かなかったのか。
後悔ばかりが積み重なっていく。
そして今――。
まさに、その店の前に立っている。
逃げ場のない現実に、由香里の心は大きく揺れていた。
何も知らない伊花は、迷いなく「えにし屋」の扉に手をかけた。
ガラガラ、と扉が開く音が鳴る。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
店内から聞こえた声に、由香里の胸がひどくざわついた。
なぜか分からない。
けれど、その声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「二人なんですけど……」
伊花が答える。
「って、伊花さん。お久しぶりですね。しばらく顔を見なかったんで、やっぱりお仕事忙しかったんですか?」
明るく、親しげな声音。
「ええ、今日ようやくひと段落ついたから久しぶりにね。あ、後輩も連れてきたのよ」
「そうなんですね。ちょうど席も空いているので、ご案内しますね」
その声を聞くたび、由香里の胸のざわめきは強くなる。
そして、理由はすぐに分かった。
「どうぞ、こちらに……」
案内しようとした店員と、目が合う。
その瞬間。
体に電流が走ったような衝撃。
(う、嘘……!?)
時間が止まり、呼吸が浅くなる。
足が、床に縫い止められたように動かない。
そして当然、美沙も由香里に気づいた。
「あ……えっと……木之本さん……?」
戸惑いと驚きが入り混じった声。
由香里の全身が、ぎこちなく強張る。
「し、しの……篠崎……先輩……? え……あ……その……」
言葉が、うまく出てこない。
視線を合わせていられない。
「あはは……び、びっくりしたよ。あの時と全然雰囲気が違うからさ」
美沙は無理に明るく笑う。
けれど、その笑顔の奥に、わずかな緊張が滲んでいた。
その様子を見ていた伊花が、不思議そうに二人を見比べる。
「あの……二人、知り合いなの?」
「あ、えっと……実は木之本さんとは前の職場で……。って、そうなると伊花さんの職場って……」
そこまで言いかけた――その瞬間だった。
「あの……っ! わ、私、今日はこれで失礼します……!」
張りつめていた糸が、ぷつりと切れたように。
由香里は深く、深く頭を下げる。
顔を上げることなく、そのまま踵を返した。
逃げるように、その場を飛び出す。
「え、ちょっと!?」
伊花の制止の声が追いかける。
けれど、その背中に届くことはなかった。
取り残された店内に、重たい沈黙が落ちる。
美沙は、由香里が立っていた場所をじっと見つめていた。
ただ、ほんの少しだけ、寂しそうに。
「……木之本さん……」
小さくこぼれたその名前は、誰の耳にも届かないまま、静かに空気へと溶けていった。
その様子をカウンター越しに見ていた悠真が、美沙に声をかける。
「美沙さん、どうしたの? 何かあった?」
心配そうに覗き込む。
「あ、うん……今、木之本さんが来てたんだけど……」
「木之本……さん?」
聞き覚えのない名前に、悠真は首を傾げる。
次の瞬間。
「ごめん! 悠真さん、少し抜けてもいい!?」
突然の申し出に目を瞬かせる悠真。
「あー、うん……問題ないけど……」
「ありがと! すぐ戻るから!」
そう言い残し、美沙はエプロンの紐を素早くほどくと、そのまま店を飛び出した。
扉の閉まる音が慌ただしく鳴る。
残された伊花は、ただその背中を見送るしかなかった。
状況が飲み込めないまま、ぽつりと取り残される。
そして――その一部始終を、もう一人、静かに見ていた人物がいる。
グレイだった。
料理を運びながら横目で様子を追っていた彼は、珍しく眉を寄せる。
いつも落ち着いている美沙が、あんなに動揺した様子で飛び出していく。
胸の奥が、わずかにざわついた。
「何かあったのか……?」
低く問う。
「ちょっと……分からないんだよね……」
悠真も事情を把握していない。曖昧に首を振るしかなかった。
「少し、心配ね……」
セリシアもまた、扉の方を見つめる。
店内の空気が、わずかに重くなる。
「うむ……」
グレイは短く唸り、黙り込んだ。
その表情は、いつになく真剣だった。
そんな沈黙を破ったのは、カウンター席の隅で杯を傾けていたルシア。
「そんなに心配なら、お主も追いかければよかろう」
からかうようでいて、どこか本心を見透かした声音。
「いや……俺なんかが追いかけても、良いものか……」
珍しく歯切れが悪い。
すると、悠真が少しだけ背中を押す。
「グレイさん、美沙さんのことお願いしてもいいですか?」
「だが……」
「何かしてほしいってわけじゃなくて……こっそり見守っていてほしいなと」
それなら、とグレイは視線を落とす。
「それくらいなら……俺でもできるかもしれん。だが、店の方は?」
「大丈夫よ、グレイ。今はお客さんも少ないし、私と悠真で回せるわ。だから美沙のこと、お願い」
セリシアの穏やかな後押し。
数秒の沈黙。
そして――。
「分かった。美沙のことは任せておいてくれ」
そう告げると、グレイは静かにエプロンを外した。
迷いは、もうなかった。
扉が再び鳴る。
その背中を見送りながら、伊花は深々と頭を下げる。
「すみません……私の部下が、ご迷惑を……」
「気にしないでください」
悠真は柔らかく笑う。
「とりあえず、彼女たちが戻るのを待ちましょう。どうぞ、席へ」
伊花は案内されるまま腰を下ろす。
胸に残るのは、戸惑いと――小さな悔しさ。
走り去った後輩に、何もしてやれなかった自分への。
店内は静かに、けれど確かに緊張を孕んだまま、二人の帰りを待っていた。




